最終更新日 2016年7月31日
クロアチアは、旧ユーゴスラビアから独立した国で、南部はアドリア海に面している。内戦は激しかったようですが、それから10年。海はとても美しいので、これからきっと人気が出て行くでしょう。2002年9月にスロヴェニア・クロアチア・イタリア旅行で訪問。
と書いたのが2002年。この「地球の旅行記」の国の中でもクロアチアはトップのアクセス状況が続き、現在ではクロアチアはすっかり日本でも人気の観光地となりました。そして、2016年5月に旧ユーゴスラビア旅行でドブロヴニク/ドブロブニク(Dubrovnik)を再訪。2002年時点の文章もその頃の街の雰囲気や自分自身を反映しているので、当時の記述も一部残しながら追記しています。
国名 | Republika Hrvatska(フルヴァツカ、というようだ)、クロアチア共和国、Republic of Croatia(英語) |
---|---|
国土 | ちょうどカタカナのコを左右逆にしたような形をしていて、南部はアドリア海、西部はスロヴェニア、北部はハンガリー、東部は(というか中に食い込んだように)ボスニア・ヘルツェゴビナに接している。 |
気候 | 地域によって異なる。CS、 Cfa、 Cfb |
人口 | 約439万人(2012) |
民族 | スラブ系のクロアチア人90%、セルビア人5%など。以前のデータと比較すると、クロアチア人の割合の増加、セルビア人の割合の減少が大きいようだ。 |
宗教 | カトリック88%、その他東方正教(セルビア正教) |
首都 | Zagreb、ザグレブ |
経済状況 | 一人当たりGDP3,800ドル(1996) 、一人当たり国内総生産20,222ドル(PPP,2013)。旧ユーゴスラビアではスロヴェニアについで経済が発展していたが、内戦の影響大。 |
時間 | 中央ヨーロッパ時間(GMT+1)、ただし夏はサマータイムで1時間繰り上がる。 |
観光客 | 132万人(1995)、911万人(2010)。観光が大きな産業になっている。 |
インド・ヨーロッパ語族のバルト・スラブ語派のクロアチア語。スロヴェニア語や、チェコ語などのスラブ系の言葉に似ているような気がする。ラテン文字で表記する。
クロアチア語は、セルビア語と話す分には全く同じらしい。ラテン文字で表記するとクロアチア語、キリル文字(またはラテン文字)で表記するとセルビア語ということらしい。
英語、イタリア語、ドイツ語などの外国語もよく通じるようだ。
こんにちは | Dobar dan | ドーバル・ダン 最初のドにアクセントをおいて早口で。もっと早く言うと、ドーバダン、のように聞こえる。 |
ありがとう | Hvala | ファーラ 最初にアクセントをおいてそのまま言えば良い。 |
ビール | Pivo | ピーヴォ |
第二次世界大戦中に成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国の6つの共和国から構成されており、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われていたが、90年代前半に崩壊し、それぞれ別の国となった。コソボも独立を日本を含む多くの国に承認されている。
クロアチア・クーナ(Kn、あるいはHRK)、補助通貨単位(1/100)はリーパ(Lipa)。14年経ってもあまりレートは変わっていない。
日付 | 手段 | レート |
---|---|---|
2002年9月5日 | ザグレブ市街の銀行のATM | 1Kn=16.6888円 |
2002年9月5日 | VISAカード | 1Kn=16.775円 |
2002年9月5 請求は2002/9/22 | VISAカード | 1Kn=16.981円 |
2002年9月6日 | VISAカード | 1Kn=16.183円 |
2002年9月8日 | VISAカード | 1Kn=16.183円 |
2002年9月8日 | VISAカード | 1Kn=16.273円 |
2002年9月9日 | VISAカード | 1Kn=16.272円 |
2002年9月9日 | ドブロブニク旧市街の銀行のATM | 1Kn=16.8020円 |
2016年5月5日 | クレジットカード | 1Kn=16.604円 |
あまり大げさに払う必要はない。端数を切り上げる程度でよいようだ。Zagreb In Your Pocketによれば、以下の通り。
悪いサービスならば、払うな。良いサービスならば10%くらい払え。通常であれば、近い5Knか10Knの単位に切り上げて払え。
日本人は90日間まで必要ない。
クロアチア観光情報。英語ページあり。
日本語ページも出来ている。
クロアチア航空の時刻表などを見ることが出来る。英語ページあり。
フェリーの会社で、運行スケジュールなどを見ることが出来る。英語ページあり。
リエカの観光協会。英語ページあり。
ザグレブはクロアチアの首都で、人口は約77万人。クロアチアの内陸部に位置する。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で2回訪問した。
2002年9月5日(木)にSloveniaのリュブリヤーナ(Ljubljana)から鉄道に到着し、1泊して、9月6日(金)に鉄道でリエカ(Rijeka)に向かって出発した。
2002年9月9日(月)朝にドブロブニク(Dubrovnik)から飛行機で到着し、日中滞在して、深夜にベネチア(Venezia)のVenezia S.L.駅に向かう寝台列車で出発した。
1回の旅行で2回通過した。
2002年9月5日(木)にLjubljana駅から鉄道に乗り込み、ザグレブに向けて出発した。切符は2,591SITだった。列車はユーゴスラビアのBeograd行きで、乗り過ごすと連れて行かれてしまうのでちょっと緊張した。この経路の列車は、内戦の影響で長く走っていなかったが、最近ようやく運行をはじめたものだそうだ。
車窓は、トウモロコシ畑、山や川が続く。比較的日本の山間部の風景に似ているかも知れない。
ザグレブ駅には午前中に到着した。
2002年9月9日(月)に、ドブロブニクのホテルから、前日の晩にフロントで頼んであったタクシーで、ドブロブニク空港まで行き、7:30に飛行機で出発した。チケットはザグレブで買ったもので、760.06Knだった。
ドブロブニクの空港はとても小さく、駐機している飛行機も2機くらい。ただ、観光客らしき人で結構混み合っている。
飛行機はやや小型のもので、なんとザグレブまで50分。前の座席のおっさんが、隣に座ったアメリカ人らしき若い女性の観光客2人にしきりに話しかけていて、何を話しているのかと思ったら、「ブッシュ大統領についてどう思うか?」だって。
ザグレブ空港はドブロブニクの空港よりもずっと大きい。時間があるので、絵はがきを書いて投函し、空港バスで市内に行こうと思ったのだが、時間がよくわからず、何本かミスしてしまった。ほとんど待っている客がいなくなってしまったので、時刻表を見て、乗ろうとしたら、なかなか発車しない。クロアチア人らしき若い女性が運転手となにやら話し、小さなマイクロバスのようなバスに乗り込んだ。空港からは、ザグレブの市街に行くバスと、リエカに行ってしまうバスがある。大きなバスはザグレブのバスターミナル行きと書いてあり、その小さなマイクロバスはリエカと書いてある。私はリエカに行くのではなく、バスターミナルに行くので、そのことを伝えたが、こっちに乗れといわれた。
この空港バスはバスターミナルへ直通ではなく、いろいろ止まる。どこがバスターミナルかわからなくて不安だったが、バスターミナルはかなり大きく、建物の中に入り込むようにして止まるので、やっとわかって降りた。
バスターミナルは結構大きな施設で、見て回ってから、建物の前からトラムでザグレブ駅まで行って、荷物を駅に預けて観光に出発した。
2002年の9月5日~6日に1泊した。1泊だけで次の日にも鉄道で出発なので、駅近くのホテルにした。駅を降りてすぐのところにあるホテル。
Branimirova 3 RP97 HR-10000 Zagreb
telephone (+385 1)484 11 22
fax (+385 1)484 13 04
駅を出て、すぐ右に行ったところにあるホテル。
シングル387Kn(朝食付き)だが、電話を使ったので435.16Knとなった。
駅から歩いて、ホテルに行って、1泊の部屋があるか聞くと、愛想の良い若いフロントが、3つの大きさの部屋があると言った。値段も大して変わらなく、どれでも良かったので、真ん中のやつにして欲しい、と言ったら、午前中であることもあり、すぐには空くかわからなかったようで、「小さな部屋でよいか?決して狭くないよ、見せてあげるから。」と言われた。部屋まで案内して見ると、こじんまりとしているがきれいなので即決した。
案内してくれたフロントの人に、このシーズンは観光客は多いのか、というと、多くて、1か月前なんて大変だったよ、とのことだった。
非常階段に窓から出られるようになっており、開けてみた。すると、鍵がかからないことを発見した。男一人なので、どうでもよいのだが、いくらなんでも階段から鍵がなくて入れるのは、と思ってあせったが、外側には取っ手がなく、入れないようになっていた。
ザグレブは、結構大きな街である。観光客が行くようなところは歩いて回れることも確かだが、トラムを使えればそれなりに便利だと思う。
鉄道の中央駅は結構立派な建物で、レストラン、切符売り場、荷物預所などがある。
駅前に地下に降りるエスカレーターがあり、多くの人が出入りしているので、何だろうと思ったら、地下に結構大規模なショッピングセンターがあり、駅の反対側まで通路で抜けられるようになっていた。
バスターミナルは市街、鉄道駅からは結構離れているが、トラムですぐに移動できる。
結構大きな建物で、レストランや売店、待合所などがある。
市内はトラムがたくさん走っている。結構混んでいて、最初に乗るときは躊躇したが、乗るとそれなりに便利。
切符は、乗ってから運転手からも買えるがやや高い。キオスクなどでも売っていて、そこだと8Knで6.50Knで買える。乗ったら車内の改札機でパンチする。
旧市街のGORNJI GRADは、結構高くなっている。新市街のIlica通り沿いに、ケーブルカーがあって、一気に上ることが出来る。
料金は3.00Knで、あまり混んでいないが、結構な頻度で動いている。乗ると、1分くらいであっという間に上まで着く。そこからはSv. Marka Crkvaという教会まで歩いていける。
ザグレブに多いもの。カフェ。
とにかく、これでもかというほどカフェがある。旧市街はおしゃれ系のカフェがあり、新市街は中心が歩行者天国になっているのだが、その部分の路上はほとんど座席で覆われている。それに比べてレストランはずっと目立たず、建物の中などにある。
カフェは非常に多く、ビールを飲んでいる人も多い。昼時も、夕食どきも非常に混み合っているが、食事をしている人はいない。日本人なら、食事をしにいくのが楽しみだが、ザグレブの人は食事をしないで話すのが好きなのだろうか?全ての市民が1日に1回行っているのではないかと思われるほど、数が多く、混んでいる。
アイスクリーム屋も非常に多く、食べている人も老若男女問わず多い。ドブロブニクもそうだった。イタリアでも多かったが、それよりもずっと多いようだ。
観察するところ、全ての市民が1日1回食べているのではないかと思われる。
内陸であるせいか、肉料理が多いようだ。ヨーロッパで食べる肉料理は、堅い肉を油で焼いただけで味があんまりしない、というようなものが多い気がするが、比較的おいしいと思った。
イタリアが近いせいか、イタリア料理も食べられる。ピザの店もあるし、リゾットなども食べられる。
最初にザグレブに着いた昼は、あまり空腹ではなかったので、「ピザでいいや」という軽い気持ちで、共和国広場を少し上った青果市場の下にあるピザ屋に入った。
この「ピザでいいや」が大間違いで、直径30cmくらいのものがまるごと、どん!と出て来て、全部食べるのが苦しかった。しかし、こちらではこれが普通のようで、他の店や、ドブロブニクでも、みんなこの直径30cmのものを、1人1枚食べていた。
最初にザグレブに行った日の夕食のレストランは、Ilica通り沿いにあるレストランで、入ると内庭のようにパラソルが並んでいた。味もサービスもまあまあ良かった。量はやっぱり多いが。
2回目にザグレブに来たときは、やはりIlica通り沿いだったが、より庶民的なカフェっぽいところでリゾットを食べたが、なかなかおいしかった。
ザグレブは、Ilica通りを境にして、やや高い位置にある旧市街と、平らに広がる新市街に分かれている。
ただし、旧市街もGORNJI GRADとKAPTOLに分かれていて、GONJI GRADの方がより高い丘のようになっているので、歩いていると明確にわかる。
共和国広場Trg bana Jelacicaから、奥の道のどれを上っていっても、KAPTOLに出る。青果市場はもちろん、たくさんフリーマーケット風の店が並んでいるとおりがあったり、カフェがたくさんある。でも、レストランは見つからなかった。
共和国広場Trg bana Jelacicaから右側の上ると、Sv. Stpinac Katedralaがある。結構高い建物なので、ザグレブの街からよく見える。
共和国広場Trg bana Jelacicaから階段を上っていくと、青果市場に出る。野菜や果物をたくさん売っている。地下は肉などを売る市場になっている。
共和国広場Trg bana Jelacicaの左側を登って、ここで左に折れると石の門Kemenita Vrataを通って、GORNJI GRADへ行ける
共和国広場Trg bana Jelacicaから左側の道を上っていくと、石の門Kamenita Vrataがあるが、とてもわかりにくい。小さな広場のあるところに引っ込んである。小さなトンネルのようなもので、像があって、向かいに小さなベンチがある。
非常に小さなところだし、通路だが、通行する人が十字を切ったり、跪いて祈っている人が多く、敬虔な雰囲気だった。
旧市街のもう1つの部分がGORNJI GRADだが、こちらはカフェがあって繁華街、というのではなく、住宅地のように静かで、人通りも少ない。
KAPTOLからは、Kamenita Vrataを通って、行くのが一番簡単だが、狭い路地のような通路もいくつかある。
新市街からは、ケーブルカーで行く。ケーブルカーを上で降りたところからは、市街がよく見える。
GRONJI GRADにある教会。たまに観光客は来るが、結構静かに立っている。
2回目にザグレブを訪問した際、相当時間があったので、行ってみた。ところが、建物は普通の家で、扉が閉まっており、出入りする人もいないので、入りにくかった。中に入っても誰もいない。2回に上ると、人がいて、英語で展示物を説明した紙を貸してくれた。入場料は今入らないと言われた。展示物を見たが、フロアの半分だけで少なかった。それなりに興味深いものだったが。見終わると、展示場所の照明を消していた。誰も来ないのかな?
ザグレブの駅を出ると、正面にいきなりTrg Tomislavaという広場が開け、両側に建物が並んでいて、とても開放感がある。この緑が、新市街の中心部まで続いていて、街全体を美しいものにしている。
非常に広い広場で、噴水があったり、トラムの停留所があったりして、人だかりがしている。観光案内所もこの広場の西側にある。
この広場の新市街側にあるIlica通りも、人通りが大いにぎやかな通りである。
とにかくカフェが多くてにぎやか。街全体が話声がひびきわたっているような感じである。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、2002年9月6日(金)にリエカへ向けて出発した。
同じくスロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、2002年9月9日(月)に寝台列車でVeneziaへ向けて出発した。
リエカはクロアチアの西部に位置し、アドリア海に面した港町である。クロアチアで3番目に大きな都市で、人口14万人。
日本のガイドブックにはリエカと書いてあるが、あちらの人の発音を聞くと、リエッカというように聞こえた。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、Zagrebからドブロブニクへ行く途中に滞在した。
2002年9月6日(金)に鉄道でザグレブ(Zagreb)から到着し、その日の20:00にフェリーでドブロブニク(Dubrovnik)に出航したので、半日くらいしか滞在しなかった。電車が遅れて大変だったし、とにかく体調が悪く、見て回るというよりもベンチなどでじっとしていた。
リエカへの移動は本当に大変だった。
2002年9月6日(金)、ホテルをチェックアウトしてからザグレブの駅まで行き、リエカまでの切符を買った。クロアチアではあんまり鉄道がひんぱんに走っていないようだが、ザグレブとリエカの間は比較的本数が多いようだ。移動に選んだのは、ICではなく、鈍行のもの。77Knだった。
ホームに出て、表示に従って端まで歩いていくと、列車が2本止まっていた。駅員に、どちらがリエカ行きか聞くと、落書きだらけの汚いほうを指さされた。
乗り込むと、ほとんど乗客はいなくて、乗った車両にも4~5人程度。壊れている座席があったり、二重になっている窓ガラスの間に水がたまっていたりする。
列車が出発してからしばらくは順調だった。鈍行なので、結構頻繁に駅に止まるのだが、各駅で必ず駅員が2名、ホームに立って列車を見送る。2名は帽子の色も違い、役割も違うようで、女性も多い。何か決まりがあるのかもしれない。
そうこうしているうちに、なんだか腹痛がしてきた。これが今回の旅行中ずっと悩まされた体調不良の始まりだった。原因は良くわからない。
周期的に調子が悪くなり、本当にまずかったら降りようと思ったが・・・。乗っているのは鈍行で、鉄道の本数もそんなにあるわけではないので、変な駅で降りてしまうと、ICなどに乗れず、動けなくなる心配もあった。
しばらくすると、車掌が来て、改札した。もうしばらくすると、また車掌が着て、クロアチア語で何か言われた。「あうとぶす」しかわからなかったが、鉄道の工事で、バスの振り替え輸送が行われるらしい。フィンランドでも経験したことがあるのでピンと来た。近くに乗っていた若い男性にも確認した。
小さな駅で停車すると、みんな降りたので、ついていった。とても小さな駅で、裏庭のようなところに2台バスが止まっていた。どちらも行き先が同じかわからなかったので、「Rijeka?」と聞きながらバスに乗り込んだ。
バスはきれいなバスだったが、駅からの道は畑の中の本当に狭い田舎道で、1台分の幅しかない。ずっと走ったのに対向車が来たら、2台そろって何100mもバックして、対向車を通した。
バスはダイレクトに隣の駅について終わりかと思ったら、いろいろなところに止まって、人が降りていく。時刻表も何にもないので、ますますどこに連れて行かれるかわからなくなってきた。
途中、結構人が降りたところで、近くの若い女の子のグループが、英語で「Rijeka?」と聞き、他の乗客があいまいな答えをしたので、降りそうになったが、違った。
結局、最後までバスに乗り、これまた田舎駅で降りた。雨が降り始めていたが、また列車に乗り込んだ。今度は比較的きれいな列車で、コンパートメントに分かれている座席だったので、おじいさんが1人乗っているコンパートメントに乗った。
やれやれ、これで落ち着いた、と思って静かに車窓を楽しみながら乗ってしばらくすると、隣のおじいさんがいきなり私をつついて、何かクロアチア語で言ってきた。ついて来い、というので着いていくと、次の駅に列車が着いたところで、乗降口から指を指した。そちらの方を見てみると、離れたホームに別の列車が止まっている。身振りで乗り換えるのか聞くと、そうだという。列車を降り、その駅の駅員に「Rijeka?」と聞くと、そちらの列車を指すので、大雨の中をダッシュして、そちらの列車に乗り換えた。
こんな乗り換えは、全然トーマスクック時刻表には載っていない。そもそもこんな小さな駅は載っていない。たまたまこのおじいさんの隣に乗らなければ、どうなったんだろう。別におじいさんに、リエカに行くと言ったわけではない。外国人は、リエカからフェリーに乗るもの、と思われているのかな?
なにやら列車はだんだんきれいになったが、体調も悪く、ほとほとくたびれた。時間も当初の直通列車のダイヤから極端に遅れていて、何がなんだかわからなくなった。
かなり時間に遅れて、ようやく海が見えてきた。クロアチアの海岸は、景色が良いが、山がちで、あまり木が生えていない。直線で海岸に行けないので、山肌を伝うように列車はジグザグに走りながら、高度を下げていく。
やっとリエカか、と思ったら、近づくほど列車はスピードを落とし、近くの駅付近で、全く止まってしまい、時間がまたどんどん過ぎていく。みんなも窓から顔を出して、いったいどうなっているのか、という雰囲気。
かなり時間がたって、再び列車は走り出した。おもしろいことにリエカの街の海沿いを列車が走る。線路がきちんとあるのではなく、港沿いの道の端に、路面電車のように線路があって、臨時の柵で囲ってある部分を走っていく。自動車や歩行者がすぐ横にいるので、非常に徐行して走っていく。フェリーや、フェリー会社のJadrolinijaの建物が見える。
街を通り過ぎて、倉庫街のような雰囲気の場所に入って、やっと駅に着いた。それも簡単に着くのではなく、いったん少し離れた線路を通り過ぎて、切り返してホームに着いた。やれやれ。
結局、「Rijeka! Rijeka!」と叫び叫び、2時間以上遅れて、リエカに着いた。体調最悪。
駅からは歩いて、町中に向かった。
駅からリエカの町中へ歩いていくと、途中にバスターミナルがある。建物ではなく、広場のようなところにいっぱいバスが止まっているだけだが、結構混み合っている。
とにかく体調が悪いので、マックでいいや、と思って、目抜き通りのKorzo通りにあるマックに入って、セットを頼んだ。非常に混み合っているが、お姉さんの愛想は良くて、時間がかかったハンバーガーを、席まで持ってきてくれた。ハンバーガーは普通だが、コカコーラは巨大。750mlも入っていた。ポテトも巨大。全部食べたら、かなりおなかいっぱいになった。
クロアチア3番目の都市と言っても、ザグレブに比べるとずっと小さい。少なくとも観光客にとっては。目抜き通りは、歩行者天国になっているKorzo通りだけである。この通りはかなり人通りが多く、ショッピングセンターなどもある。
街に着いてからまず、この通りにあるTourist Informationに行くと、リエカのパンフレットをくれた。かなり観光には力を入れている雰囲気である。
Jadrolinijaでフェリーのキャビンのチケットを買った後は、港沿いのベンチで、ほとんど座ってぐったりしていた。フェリーに乗り始められる18:00までが長かった。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、2002年9月6日(金)にザグレブ(Zagreb)を出発し、リエカに日中滞在して夕から船に夜乗ってドブロブニクへ出発した。
ドブロブニクはクロアチアのアドリア海沿いの東端近くに位置した港町である。観光地、リゾートとしてかなり有名なようです。ドブロブニクに行ったというと、「それどこ?」と聞かれるのですが、きっと今後は人気が出るんでしょうね。
特に、要塞で囲まれて海に突き出した旧市街はユネスコの世界遺産らしい。この旧市街の写真を知人に見せたら、宮崎駿の「魔女の宅急便」の街みたいだ、と言われましたが、実は逆で、この町がアニメのモデルになっているようです。2002/2003の地球の歩き方の中欧の表紙もこの旧市街のイラストですね。最近ではニューズウィーク日本版の表紙にもなっていました。
新市街は海が見えるリゾート地になっています。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、2002年9月6日(金)ザグレブ(Zagreb)を出発し、リエカ(Rijeka)から船に夜乗って船中泊して翌日9月7日(土)に到着した。2泊して、飛行機でまたザグレブ(Zagreb)へ出発した。今回の旅のハイライトで、きれいだったのに、体調があまりすぐれなくて残念。
さらに、14年経って、旧ユーゴスラビア旅行で2016年5月4日(水)にモンテネグロのコトルから到着し、1泊して、ボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ。14年ぶりに訪問したドブロブニクはすっかり有名な観光地になっていました。2002年時点の文章もその頃の街の雰囲気や自分自身を反映しているので、当時の記述も一部残しながら追記しています。
アドリア海沿岸の都市はかつてヴェネツィア共和国に支配されていましたが、ドブロヴニクはラグーサ共和国という独自の都市国家を形成してヴェネツィア共和国と対抗していた時期があります。
ドブロブニクにはフェリー、飛行機、バスといろいろな方法で行くことが出来る。
ドブロブニクにはリエカからフェリーで行った。
フェリーの日程については、日本からJadrolinijaのWebサイトをチェックしていった。
切符はどこで買えばよいかわからなかったのだが、ザグレブに滞在していたときに、時間があったので、Jadrolinijaの支店に行って購入を試みた。
入り口を入ると薄暗い中に女性が2人座っていて、「ここでドブロブニクまでのフェリーの切符が買える?」と聞くと買えるとのこと。
二人ともあんまり愛想が良くなくて、年配の女性の方で買え、とのことだったのだが、年配の女性はあまり英語が得意じゃないみたいだった。
行き先、日にちを聞かれているとき、突然「デック?」と言われ、何のことだかわからなかったので、「Pardon?」と聞き返したら、そのまま反応がなく、金額を請求されてしまった。
「船の中で部屋(room)を予約を出来ないの?」と聞いたら、わからない様子。「夜はどこで過ごせばいいんだい?」と聞いたら、冷たく、「On the Deck.」と言われた。体調が悪いのでそれは避けたい。絶対に避けたい。船室くらいないのかよ。「どこで過ごすかは今決められないのか。」と聞くと、「船に乗ってから聞いてみろ。」との話。
とりあえず、190Kn払って、切符を買った。
買った後よく考えてみたら、重要な単語「cabin」を思い出した。そうだ、この単語を言えば良かったのだった。最初に聞かれたのは、「Deck?」だったのだと理解した。そこで、roomがどうとか聞いたので、こちらはcabinの事を話していて、あちらはdeckのどこで寝るかを言っていたらしい。やれやれ。英語ももっと勉強しないと。
翌日リエカまで行ったとき、船に乗るまではだいぶ時間があったので、Jadrolinijaの本社にある代理店でリターンマッチ。今度は切符を見せながら、「Cabin」という言葉を使って、予約が出来るか聞いてみた。
そうするとこんどはあっさり。ただ、「当日なので4人部屋しかなく、・・・・」と言われた。another manがどうのこうのと言うので、「So, I have to share cabin with another person?」と聞いたら怪訝な顔で、「What?」と聞かれた。まあ、いいやとおもって予約して217Kn払い、その場を離れた。
乗ってみたら、やっぱり他の人と相部屋だってことじゃないかー。体調が悪いと英語も不調なのかな。何か間違ったことを言ったかな?
リエカについてからずっと体調が悪かったので、乗船時間の18:00が来るとすぐに乗船に向かった。船自体は昼からずっと停泊していた。
大きな船なので、乗客は横から乗船するかと思ったら、後ろの車の乗降口から乗客も入っていく仕組みだった。乗船すると、船のフロントでチェックインをする。チェックインが終わる毎に、船員が部屋まで案内している。こういうのって、チップがいるかいらないかわからないので気をつかったりする。
私の番でチェックインすると、カード型で穴が空いた鍵を渡され、若い男の船員に案内された。部屋まで通されると、窓のない4ベットの部屋で、トイレ付き。船員に、「この鍵は下りるときに返さないと行けないの?」と聞いたら、なんだか英語が得意じゃない様子で、うまく言えないで困っている。なんとかやりとりして、「ドブロブニクで返すんだね」と通じると、笑顔で戻っていった。チップ払わず。
部屋は暗いが、お腹の調子も悪いので、トイレ付きの部屋に一人でいるとほっとした。
出船が近くなってくると、さらに2人部屋に入ってきて、合計3人で1部屋となった。2番目に入ってきたおじさんは、結構元気だったが、こちらはきわめて弱っていたので、あまり愛想良く対応できなかった。
20:00になると、町中に響くような汽笛を鳴らして出航。船の出航というのはいつでも独特の雰囲気がある。
出航したときはまだ薄明るかった。甲板に出て外を見ると、曇った中にアドリア海が広がっているが、風邪が強くて寒い。
船内にはレストランがあったり、カフェがあったりするのだが、あまりに体調が悪いので、夕食は抜くことにして早々にベットに入って寝てしまった。
翌日未明、まだ寝ているうちに、1人下船した。朝になると、もう1人が下船したので、「Have a nice trip」と挨拶して、自分も起きた。外に出てみると、ちょうど Korcula(コルチュラ)の港を出港するところだった。急に天気が悪くなって、暗くなり、雨がぱらついている。
Korculaは島なのだが、狭いところに建物が集積していて、とてもきれい。日本のガイドブックには載っていないが、観光地としても有名なようで、今度は是非行ってみたいと思った。船内にはいろいろクロアチアの場所のポスターが貼ってあり、それぞれに「small country for great holiday」といったようなスローガンが入っている。ザグレブのホテルの食堂にもあったので、観光局か何かが作っている共通のものだと思う。このKorcula島もそのポスターの1つに写っていた。
相変わらず調子が良くないので、朝食もパスして、外を見たり、ロビーのようなところのシートに座って過ごした。トランプをやっている人が結構いる。そういえば、この前テレビで、ミルコ・クロコップが試合前にトランプをやっているのを見た。
外を見ると、曇ってはいるが、クロアチアの海岸がよく見える。山がそのまま海に沈んでいるような地形で、砂浜のようなものはあまりない。ところどころに街が見える。クロアチアの海岸線は、きわめて島が多い。
お昼になると、いよいよドブロブニクらしき街が見えてきた。ちょうど新市街の湾に着くので、旧市街は見えないが、ずっと街や、新市街にあるホテルや海岸を見ていて、着岸してから船室に戻って荷物をとり、フロントにキーを返し、乗ったときと同じように車の乗降口から降りた。
2016年5月4日(水)モンテネグロのコトルのホテルで荷物を受け取ってバスターミナルへ。15:00発のバスで出発。
バスはアドリア海沿いを走る。海を見ると、何かを養殖しているらしきブイが見える。
モンテネグロとドブロヴニクの国境では、まずモンテネグロの出国手続を行う。係員がバスに乗り込んできて、パスポートを集めて出て行く。スタンプされたパスポートがバスの乗務員にまとめて返され、配られる。
バスで少し走ると今度はクロアチアの入国手続で、同様に乗り込んできた係員にパスポートを再び回収され、スタンプされたパスポートがバスの乗務員に返される。どうせ回収するのだから、バスの乗務員は出国手続の後にいちいち本人に返さなくて良いのに、と思ったが、係員がパスポートを集める際に顔写真をチェックしているようだ。
ドブロヴニクのバスターミナルからバスでホテルに行こうとした。バスターミナルでバスを待っていると、中国人の中年女性グループが来て、路線図を見ながらイーとかアーとかスーとか賑やかで、そのうち傍らにいる私に気がついて、中国語で話しかけてきたので、"我是日本人"と言ったら、"Japanese!"と受けていた。待てど暮らせどバスターミナルからバビン・クック地区に直接行くバスが来ないのでいったん旧市街に行ってからバビンクック地区のホテルValamar President DUBROVNIKへチェックイン。
Iva Dulcica 142 20000 DUBROVNIK HRVATSKA
2002年の9月7日~8日に1泊、2016年5月4日~5日に1泊した。BUBIN KUK地区にある5つ星ホテル。
一見、観光の中心である旧市街から距離があるように思うが、6番のバスが、このホテルの前と、旧市街のPile門の間を結んでいるので、始点から終点まで乗れば良く、実は旧市街の観光にも便利。
シングルで泊まって1057.5Kn(朝食付き)だが、滞在中に電話を使ったので1067.90Knとなった。リゾートなので、時期によって大きく値段が変わるようだ。料金表を見ると、1年が7つくらいのシーズンに分かれていて、1番高い時期だと1400Knくらいのようだ。いずれにせよ、高級なホテルには違いない。
「half board?」などと聞かれて、最初は何のことだかわからなかったのだが、朝食だけではなく夕食付きのプランもあるようだ。
今回の旅行の中で、ドブロブニクへの船、宿、帰りの飛行機の確保は、現地で手配しなければならないものの中でも、難しいものだった。宿については、到着が土曜日であることから、旅行代理店が開いていない可能性もあったし、観光地の週末はホテルが混んでいる可能性もあった。
そのため、ザグレブの旅行代理店でドブロブニクからザグレブまでの飛行機のチケットを買った際に、ドブロブニクのホテルも予約しようとしたのだが、なんと満室で予約できなかった。代理店の受付の年配の女性が言うには、「代理店を通すとマージンをとられるので、代理店経由では満室と言っているだけだと思う。一人で、2日だけなら必ず現地で見つけられるよ。」とのことだった。
そういう経緯もあって、ホテルを見つけるまでは落ち着かなかった。
ドブロブニクについて、フェリーから下りると、ガイドブックに書いてあるとおり、プライベートルームの客引きがたくさん寄ってきた。ただ、ガイドブックに書かれているように「おばさん」ばかりではなく、男性もいれば、若い人もいるので、それほど怪しい雰囲気のものではない。プライベートルームも良いが、短期の滞在だし、なんと言っても体調が悪いのでゆっくり体を休めたかったため、ホテルを探したいと思い、勧誘を断って歩くと、すぐに観光案内所があった。観光シーズンだけの臨時のようなものかも知れないが、混み合っている。列に並び、地図をもらった。ホテルのリストはないのか、と聞くと、観光用の小冊子をくれて、その後ろに載っているとのこと。
港近くには低価格のホテルもあるのだが、ちょっと良いところに泊まりたいと思い、街の中心に向かって歩き始めた。日差しがとても強い。
新市街中心まで行くとバスターミナルがあり、またプライベートルームの客引きがいた。日本人か、と聞くおばさんがいて、日本語で「○○さんの宿をおすすめします。」と書いた体験談のようなチラシを見せてくれる人もいた。旅行代理店のようなものは見つからないか休みだったので、ホテルに飛び込みで行くことにした。
ホテルは、市街から離れたリゾートっぽいところに散在している。ガイドブックで調べ、一番近いところまでてくてくと歩いていった。
フロントに入り、空き室があるかと聞くと、「ない。」と言われた。体調も悪いので、相当くじけた。「今の時期、ホテルを探すのは難しいのか?」と聞くと、「そんなことないよ。」とのこと。「車で来たのか?」と言うので、「歩いてきた。」と言うと、観光案内所でもらったものと同じ小冊子をくれ、「このホテルの前から6番のバスに乗って、終点まで行くと、いくつかホテルがあるよ。」と教えてくれた。
ホテルの前でしばらく待ち、来た6番のバスに乗って移動した。坂道の山の中を結構走り、これは徒歩ではとても探し回れないんだな、と思った。終点までついて降りると、BUBIN KUK地区と呼ばれる場所のようで、目の前にPresidentと書いてあるホテルがあった。他にも近辺にホテルはあるようだが、それぞれが結構離れているようだったので、もうここでいいや、と思って、フロントに入っていった。
フロントにはいると、愛想良く挨拶された。2泊できるかと聞くと、ちょっと待てと言うので、緊張して待った。すると、「1泊ならあるが、2泊は現時点ではだめだ。」と言われた。もういい加減疲れていたので、まずは1泊することにした。
部屋はエレベータで下った5階だと言われ、???と思ったが、このホテルは海に向かった斜面に沿って建てられており、入ったフロントが7階となっている。エレベータも斜面に沿って上下するので、ケーブルカーと言った感じ。ちなみに、このエレベータもガラス張りでシービューだ。
5階で降りて、通路を結構歩いた端に近い部屋が割り当てられた部屋だった。
部屋に入って・・・、びっくり。とても広くてきれいな部屋だった。
部屋はツインのもので、ベッドが2つあり、その奥にはちょっとしたスペースがあって、ソファーと机が置いてある。その先は、専用テラスがあって、花壇がおいてあり、その奥にはアドリア海が広がっている。
テラスだけでも、バスルームだけでも私の東京の部屋くらいある。部屋を見ただけでなんだかとても幸せな気分になって、体調も良くなった気がした。
荷物を置き、シャワーを浴びて、着替えるとかなりさっぱりして、海をみながら机に座って、関係諸氏に絵はがきなどしたためた。ソファーに寝っ転がると、ああ、ずっとここにいたい!という感じだった。1泊しか出来ないのだけど。
テラスから下を見ると、ホテルのプライベートビーチになっている。他の客はドイツ人の老夫婦が多いようで、滞在も長期の人が多いようだった。こんなところでのんびり1か月でも過ごせればいいだろうな、と思った。高いけど。
外に出かけるとき、チェックインをしてくれた女性に、「びっくりしたよ。きれいな部屋だね。」といったら、「気に入った?」といってにっこりしてくれた。
・・・と、気持ちの良い会話をして、かっこよく外に出ようとしたら、ロビーに若い女性がやたらたくさんいて、何だろうとよそ見をしながら、歩いていたら、いきなりドアに激突して、とてもかっこわるかった。
観光をしてから戻るとなにやら騒々しい音楽が流れていた。フロントに、イベントをやっているので、階段が使えない、と言われた。
すごい人だかりがしていて、何をやっているのだろうと思って、見たら、カフェテリアへ降りる階段を使って、ミスコンか何かの収録をしていた。当地のタレントと思われる人がいたりして、司会の人が一生懸命やっている。
なんだろうと思っていたら、近くにいた見ていた人がもっと見えるところで見ろよ、と開けてくれたのでよく見える位置まで行けた。
おかげで、20名くらいの美女が次々と水着姿やドレス姿で一人一人歩いたり、ダンスをしたりするのを全部見られた。つくづく、なんて良いホテルなんだろうと思った。
再訪したドブロブニク、前とは違うホテルに泊まろうと思ったが、何となく感傷的な気分になって、14年前と同じホテルに泊まってみた。
改装されたようで、入口から入るとレセプションの位置が変わっている。14年前、「ここに泊まったんだよ」と話すと「あら、何も変わっていないでしょう?」という返事。
部屋に案内されると基本的な作りは変わっていないが、若干落ち着いたインテリアになっている。部屋で過ごしていると、騒々しい新市街と違って、波の音、鳥の鳴き声、船の警笛以外、何も聞こえてこない。この14年間、自分は何をしてきたのかな、と物思いにふけってしまった。
ベランダからは、海に沈む夕陽が見えた。
Iva Dulcica 38 20000 DUBROVNIK HRVATSKA
2002年の9月8日~9日に1泊した。BUBIN KUK地区にある3つ星ホテル。
2016年時点ではValamar Club Dubrovnikという名称に変更されているようだ。
Hotel Presidentも含めて、この一帯のホテルは同じ資本系列で運営されているようだ。これらホテル間では、部屋どうしが内線で電話できるようだ。近くには、小規模だがショッピングセンターもあって、長期に滞在する人にも便利そう。
シングルで泊まって620.7Kn(朝食付き)だが、電話を使ったので624.20Knとなった。ここもやはりリゾートなので、時期によって大きく値段が変わるようだ。
Hotel Presidentが1泊のみしか滞在できなかったため、近所でホテルを探して見つけた。バス停からもちょっと離れている。Presidentと比較すれば、もっとカジュアルな雰囲気ではある。
まずはArgosy Hotelというところを当たったのだが、いっぱいだったため、このMINCETAにした。明日泊まろうと思うが空いているか?と聞くと、空いていると言うことで、予約します、と言ったら、近くの紙になにやら名前を書いただけだった。
翌日、Presidentをチェックアウトして、午前中にMINCETAまで来ると、その時点でチェックインできた。シー・ビューがいいか、と言われたのでもちろんだとこたえると、鍵をくれた。
部屋にはいると、これまたシー・ビューの部屋で、快適そう。Presidentには及ばないが、椅子が1つ置けるくらいのテラスも着いていた。Presidentからは外海が見られるのに対し、このホテルからは新市街の湾内が見える。
しばらく落ち着いてから外に出ようとすると、フロントの年配の女性がしかめっ面でなんか言っている。なんでも、「鍵を間違えて渡してしまった。テラス付きの部屋の鍵を渡してしまった。1泊だけだよ。」とのこと。なんだか感じ悪いがラッキー。
ちなみにこの年配の女性は、このときは感じが悪かったが、後でホテルに戻ってくる際、帰るところだったのか、すれ違った車から手を振ってくれた。基本的にはいい人みたいです。
夜にフロントにいたおじさんも、翌日朝早く空港に行きたいことを伝えると、手際よくタクシーの手配をしてくれた。
ホテルが多い地区と、観光スポットがある旧市街は反対側にあるし、ホテルは森の中に散在しているので、LIBERTASという会社が運営しているらしいバスsに乗ることになる。
路線自体は、バス停や観光案内所で渡される小冊子にわかりやすく掲載されている。
2002年の時点では、バスの中で料金を支払う場合は10Kn。KIOSKや、一部のホテルのフロントでもチケットを売っていて、7Knで買えた。
2016年にはそれぞれ15Kn、12Knになっていた。ただし、あまり知られていないようだが一日券をKioskで買うことが出来、これは30Knでかなりお得。
6番のバスを例にとると、1時間に4本程度、深夜まで走っているので、とても便利である。
海に面して大型のバスターミナルがある。バスターミナルの前から路線バスが出ていて特に旧市街のピレ門には頻発している。タクシーの場合、2016年にValamar President DUBROVNIKからバスターミナルに乗った際は、端数を切り上げて110Kn払った。
空港は結構街から20kmくらい離れたところにあって、バスもあるが、市街から空港へ行く場合は、タクシーで行くのが良いようだ。
旧市街には、観光客相手のレストランがたくさんある。シーフードを売りにしているところが多く、大きな伊勢エビを飾っているところもある。
2002年時点では中心のプラツァ通りの一本北側の通りがレストラン街のようになっていたが、2016年にはプラツァ通りやその一本南の通りにも店が目立っていた。結局、ドブロブニクではリゾットばかり食べている。
体調が思わしくないこともあり、2晩とも、シーフード・リゾットを食べた。
一晩目食べた店では、なかなか貫禄のある女性店主が、道行く人を勧誘していた。聞いているだけで、クロアチア語はもちろん、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語を話していた。リゾットはまあまあおいしく、量もあまり多くないのが良かった。
二晩目食べた店はややカジュアルだが、陽気な店員に、知っている日本語を言われまくった。どうだ見てくれ、というので店の前まで行くと、日本語のメニューまであった。日本語に限らず、ありとあらゆる言語のメニューが店の前に張ってあって、スウェーデン語やポーランド語まであった。座るとすぐに、サービスだと言って、食前酒を持ってきた。相当に商売熱心なようだ。しかし、セルビア語らしきものはなく、やはり仲が悪いのかな、と思った。
リゾットもなかなかおいしかった。「召し上がれ。」と出され、「おいしい?」などと言われ食事を終えた。
2晩とも、チップを入れて、100Knくらいだった。観光客になれているせいか、チップの習慣もかなり普及しているような感じだった。
バスターミナルからバスでホテルに行こうとしたが来ないのでいったん旧市街に行ってからバビンクックのホテルへチェックイン。
再びバスで旧市街に行ってCAPTAINでビールとマッシュルームスープとシーフードリゾットで夕食。140kn。
バスでホテルに戻って就寝。
到着した5月4日(水)は、ホテルにチェックインした後、再びバスで旧市街に行ってレストランでビールとマッシュルームスープとシーフードリゾットで夕食。バスでホテルに戻って就寝。
翌日の5月5日(木)の昼は、昼食はガラスのしゃれた皿(白い皿の下に隠れているけど)のレストランで小エビのリゾットとコカコーラだった。
新市街の南西には半島が延びているので、ちょうど湾の奥に港やバスターミナルがあるような形になっている。この半島は、山のようになっていて、森の中にホテルが散在している。南部はLAPADと呼ばれ、西部はBUBIN KUKと呼ばれている。ホテルは高台や海沿いにあって、海が見えるようになっているものが多い。この静かな海沿いのホテルに泊まってくつろぐのがドブロブニクでの滞在方法の1つのようだ。
ドブロブニクの観光と言えば、やはり旧市街。城壁に囲まれていて、門を通ってはいると、雰囲気が全く変わる。大きさも非常にこじんまりしていて、まるでテーマパークのようだ。
旧市街は城壁で囲まれているので、入り口からはいることになる。ピレ門の前は、バスの停留所があって、観光客がたくさんいた。門に入る前から、アドリア海の青い水を見ることが出来る。
門の中は、歩行者は階段で進めるが、スロープもあって、昔は何らかの車もここを通ったのかも知れない。
2016年訪問時には、随分と東洋人観光客が増えていた。
ピレ門をくぐると外の雰囲気と全く変わり、タイムスリップしたような町並みが目に飛び込んでくる。すぐに、通りがまっすぐ延びている。これが旧市街の中心のようで、観光客であふれている。門を入ってすぐのところには噴水があり、その先の通りの両側は土産物屋で埋まっている。レストランなどは、この通りから少し入った裏通りに多い。
床はこういう通りを見てしまうと、お台場のヴィーナスフォートで喜んでいる人はなんなんだろう、と思ってしまう。やはり本物と偽物は天と地ほど違う。
この通りの突き当たりにはLuza trgという広場があって、教会があり、さらには城壁を抜けて、港になっている。
ここもやはり2016年には東洋人が増えた。ATMも増えた気がする。相変わらずきれいな街だけど。すり減ってぴかぴかになった路面の石が美しい。
2016年の5月5日(木)にロープウェイから降りて来て見学。中は結構広く、宗教画などが展示されている。
ドミニコ会修道院に続いて見学したが、街を囲む城壁の突き出た部分に相当する聖イヴァン要塞にあり、入口を探すのに苦労した。港沿いに回ったが入口がなく、上を見ると城壁を歩く人が出入りしている。かといって城壁への入口も付近に見当たらない。ややこしいがイヴァン要塞に向かって城壁の内側を歩き、途中で城壁と反対側に登ってさらにイヴァン要塞に向かうと入口があり、城壁に入場するか、海事博物館に入るか分岐している。
中の展示は簡素。港町であるドブロヴニクがラグーサ共和国として発展してきた様子が分かる。
ラグーサ共和国の総督の住居であり、1階はルネッサンス様式に見えるし、2階の窓はゴシックアーチのように見える。残念ながら工事中なので外からのみ見学。
総督邸の近くにある教会。残念ながら有名なティツィアーノの聖母被昇天は工事中で覆われていて見られなかった。
内部は中庭のようになっている。中国人観光客多し。
旧市街を海側に登っていくとある大きな教会。外見も大きいが、内部もまさにバロックという豪華さ。
聖イグナチオ教会からピレ門の方角に歩いて行くとある。建物も入口も普通でちょっとわかりにくい。ドブロブニク地域の農業や漁業の道具が展示されていた。
旧市街の中心部は平らだが、そこから離れるとかなり坂がある。
Ulica od Placa通りから門を背にして右側の地域に入っていくと、通りの何本かは、観光客向けの店やレストランがあるものの、それ以上は登りの階段になっていて、住宅になっているようだ。人通りも少なく、洗濯物がたくさん干してある。
逆に通りから左側の地域は最初から登りになっている。最初の通りはレストランがぎっしりと並んでいる。それから上はまた住宅のようだ。
これだけ歴史的な建物が残り、観光地になっているのに、生活をしている人がいるのも非常に不思議な感じもするが、生活そのままが残されていると言うことは、すばらしいことでもあると思った。
きれいになってしまったドブロブニクだが、2016年訪問時も裏道に洗濯物が干してあり、少しほっとした。
旧市街をぐるっと囲んでいる城壁の上は、歩いて回ることが出来る。海、旧市街がよく見えて、非常に景色がよい。ほとんどの写真もここから撮られているようだ。ゆっくり歩くと1時間くらいかかる。
一周するには15Knのチケットを買う必要があるが、一周の中の全てが有料なわけではないため、ところどころで無料のところに出て、再び有料のところに入るというようになるので、買ったチケットを見せる必要があった。
2016年にはなんと料金は120Knになっていた。
登る入り口は何箇所かあるようだが、ピレ門にはいってすぐの左側にあるところから登った。正午近くで日差しがとても強く、暑かったので、ミネラルウォーターを買ってから、チケットを買って登った。
城壁の上は、高いところを通ったり、家のすれすれを通ったり、海側を通ったり、変化に富んでいておもしろい。角の部分は要塞になっている。日本人の旅行者も何人か見かけた。
まず、山側に、Minceta要塞に向かって登っていく。この要塞から後ろを振り返って街や、その背景の海を見るととても景色がよい。
Minceta要塞を過ぎて、旧市街の山側を、山を左にして歩いていくと、前方の、旧市街の港側が見える。
城壁を回っていくと、ピレ門と反対側に港がある。港にはたくさんの小さな船が泊まっている。水が澄んでいるので、小魚が泳いでいるのが見える。観光客相手の遊覧船も出ているため、混み合っている。
城壁の海側を回ると、上から海をのぞくことが出来る。水の色は、バスクリンを入れたように青くて、済んでいる。ところどころ、泳げるところがあるようで、泳いでいる人がいた。本当に日差しが強くて、暑かったので、気持ちよさそうでうらやましかった!
ドブロブニクの後ろのスルジ山に登ることができるロープウェイは内戦時に破壊されていたが、2010年の夏に復活した。もちろん、ジグザグの道を通って徒歩で上り下りすることも出来る。
2016年の5月5日(木)、ドブロヴニクのホテルをチェックアウトして荷物を預け、バスで旧市街へ。前日とは打って変わって晴れていて強い日差し。
旧市街の裏のロープウェイ乗り場に近づくと、いろいろな売店でケーブルカーのチケットを売っているが、普通にケーブルカー乗り場で帰る。
ロープウェイで登ると、展望台になっていて、ドブロブニクの旧市街と海を見下ろすことが出来る。
山頂の展望台からすぐ近くに、要塞を利用したユーゴ戦争時のドブロヴニクに関する展示を行う博物館がある。ドブロブニクも戦場になり、旧市街も攻撃されてしまったことが分かる。
全体的にクロアチア軍が旧ユーゴ軍から解放のために戦ったという一方的な記述で、クロアチアがセルビア人を追い出したという負の面には触れられていない。
この要塞自体も上に登るととても眺めが良い。
観光地なので、観光客がたくさんいる。しかし、どことなくのんびりとした雰囲気があって、日本人も含めた観光客にも暖かい雰囲気だった。
あんなに観光客の多い旧市街でも、ちょっとはずれた道を歩いていると、おじいさんが、手を挙げて、日本人か、とあいさつしてくれたりする。
あと、ここでもアイスクリームが非常に人気があり、みんな食べている。私も体調が悪く、昼食は抜いていたが、アイスクリームだけは食べていた。
ピレ門に入る手前の右側にはインターネットカフェがあるのだが、そこのPCには日本語フォントがインストールされていて、日本のWebを表示することが出来た。以前に日本人観光客がインストールしたらしい。ただ、入力はできなかったが。キーボードについては、クロアチア語特有の文字は、左右の両側に配置されており、中央部は普通の配列なのだが、なぜかZとYだけは場所が入れ替わっていて、やりにくかった。つまり、QWERTYではなく、QWERTZになっているわけ。
このインターネットカフェ(死語)は、当然2016年にはなく、おしゃれなレストランが建っていました。
日本人観光客も、ツアー客こそいないものの多いようで、男性の一人旅がほとんどだが、何人か見た。もちろんイタリアほどではないが。
すれ違うときにあいさつしたし、インターネットカフェで隣に座った女の子とは、少し話もした。彼女は学生で、イタリアのBARIから船でドブロブニクまで来たという。イタリアへは、ロンドンからバスで来た、という。すごい話。学生は時間があってうらやましい。
スロヴェニア・クロアチア・イタリアの旅行で、2002年9月9日(月)に、ドブロブニクのホテルから、前日の晩にフロントで頼んであったタクシーで、ドブロブニク空港まで行き、7:30に飛行機でザグレブ(Zagreb)へ出発した。
旧ユーゴスラビア旅行で2016年5月5日(木)にボスニア・ヘルツェゴビナのモスタルへ出発。
旧市街からバスでホテルに戻って荷物を受け取り、時間がなくなってきていたので、ホテルからはタクシーでバスターミナルへ。端数を切り上げて110Kn払った。
16:00発のボスニア・ヘルツェゴビナのZenica行バスでモスタルに向けて出発。バスは最初はアドリア海沿いを走り、クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナ、ボスニア・ヘルツェゴビナからクロアチアの国境を越え、再度クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナの国境のパスポート・コントロールを通過して内陸に向かって走り、モスタルへ。
=====================================================
このページに関するご要望は高谷 徹(toru@takayas.jp)まで