ボスニア・ヘルツェゴビナ

最終更新日 2016年9月3日

2016年5月に旧ユーゴスラビア旅行で訪問。

90年代前半の内戦から20年も経ちますが、街、そしておそらく人の中にもその傷跡が残っています。しかし、複雑な歴史や民族構成が、美しい山と川と共にこの国を魅力的にしているのも確かです。

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国について

国の概要

国の概要
国名ボスニア・ヘルツェゴビナ、Bosna i Hercegovina (ボスニア語、クロアチア語)、Босна и Херцеговина (セルビア語)、Bosnia and Herzegovina(英語)。大変にややこしいことに、ボスニア・ヘルツェゴビナは、ボシュニャク人とクロアチア人が中心のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア人主体のスルプスカ共和国(セルビア人共和国)から構成されている。
国土バルカン半島にあり、クロアチア、セルビア、モンテネグロと接する。アドリア海にも僅かに接していて、細長く伸びたアドリア海沿いのクロアチアを寸断してドブロブニクを飛び地にしているが、大きな港湾はない。歴史的に緩衝地帯としてこの僅かな海岸部分があるらしい。全体的に山がちであり、こうした複雑な地形が複雑な民族構成を生んだのだろうか。
人口約374万人(2012)。
民族ボシュニャク人48%、セルビア人37%、クロアチア人14%。特定の民族が支配的ではないところにも内戦の悲劇の原因がある。
宗教イスラム教40%、セルビア正教31%、カトリック15%。バルカン半島の国々の中でも、さらにはセルビア、クロアチアと比較してもイスラム教が大変に多く、モスクが目立つ。オスマン帝国時代に改宗が進んだらしい。
首都サラエボ/サラエヴォ
経済状況一人当たり国内総生産9,563ドル(PPP,2013)。周辺国に比べて出遅れている感がぬぐえない。しかし、サラエヴォを歩いている限り、人々の身なりはかなり良い。
時間UTC+1。日本より8時間遅れているが、サマータイムがあり、その時期には日本より7時間遅れとなる。
観光客37万人(2010)

言語

公用語はボスニア語、セルビア語、クロアチア語。ほぼ同様の言語で、ボスニア語とクロアチア語はラテン文字を使い、セルビア語はキリル文字とラテン文字を使う。

ボスニア語・セルビア語・クロアチア語
こんにちはドーバル・ダン。チェコ語、スロヴェニア語、ブルガリア語と似ている。
ありがとうフヴァーラ。

料理

煮込みのような料理が多い。日本人の口にも合う。うなぎも食べることが出来た。バルカン半島特有のラキヤという蒸留酒もある。

歴史(旧ユーゴスラビア)

第二次世界大戦中に成立したユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、セルビア社会主義共和国、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国の6つの共和国から構成されており、「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と言われていたが、90年代前半に崩壊し、それぞれ別の国となった。コソボも独立を日本を含む多くの国に承認されている。

通貨

コンベルティビルナ・マルカ(KMとの表記が多いが、ISOではBAM)、補助通貨単位(1/100)はフェニング/フェニンガ(複数)。コンヴェルティビルナ・マルカとは、兌換マルクの意で、ドイツマルクと1:1であったことからついた名称。

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)で若干肖像が異なるらしいが、相互に使える。

観光地ではユーロ表記もよく見る。2KM=1EURの換算がされている。モスタルでは、クロアチアのクーナ表記もよく見た。

両替

両替レート
日付手段レート
2016年5月7日クレジットカード1KM=64.116円
2016年5月7日クレジットカード1KM=64.500円

ビザ

90日以内なら不要。

交通

バス

都市間の移動は鉄道よりもバスが便数、所要時間の両面から便利。

市内にもバスは走り、モスタルでは援助による物だと思うが、ベオグラードと同様、日本の国旗が塗装されたバスも走っていた。

関連リンク

Wikipedia

ボスニア・ヘルツェゴビナ

モスタル(ボスニア語: Mostar、クロアチア語: Mostar、セルビア語: Мостар)

ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の山間の都市で、ネトレヴァ川を挟んで街が広がっている。この街は、ネトレヴァ川にかかった橋、スターリ・モストで有名で、ここに橋を架けられたことから街が発展した。ボスニア・ヘルツェゴビナ戦争ではこのスターリ・モストも含めて町が破壊されたが、ユネスコの支援で橋は再建され、2005年には世界遺産として登録された。しかし、現在ではバスターミナルがある川の東側はボシュニャク人、対岸の西側はクロアチア人と住み分けがなされてしまっている。

現在では中心部は観光地として土産物屋が並び、のんびりとしているが、周囲には弾痕が残った建物が沢山の超されていた。

旧ユーゴスラビア旅行で2016年5月5日(木)にクロアチアのドブロヴニクから到着し、1泊して5月6日(金)にサラエボに出発。

Wikipediaのモスタル情報

到着

最初はアドリア海沿いを走り、2回パスポート・コントロールを通って、一旦ボスニア・ヘルツェゴビナを通過し、再度パスポート・コントロールを通過して内陸に向かって走り、モスタルへ。

ホテルにチェックインしてからレストランで肉料理と野菜サラダとビール2杯で夕食とし、早めに就寝。

2016年5月5日(木)にクロアチアのドブロヴニクのバスターミナルから16:00発のボスニア・ヘルツェゴビナのZenica行バスでモスタルに向けて出発。バスは125.30Kn。荷物を預けるときに1ユーロ求められ、8Kn払った。

アドリア海の沿岸で、ドブロヴニクがある地域はクロアチアの飛び地となっていて、ボスニア・ヘルツェゴビナがほんの少しだけアドリア海に接している部分でクロアチアの他の部分と寸断されている。そのため、モスタルに行くためには、アドリア海沿いにクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、再びクロアチアと走り、そこから北上して再びボスニア・ヘルツェゴビナに入ることになる。つまり、3回国境を越える。

出発したバスはアドリア海沿いを西に走り、17:00頃、1つめの国境のパスポート・コントロールに。バスに乗り込んだ警察がパスポートを確認するだけ。クロアチアからアドリア海沿いのボスニア・ヘルツェゴビナに入り、すぐにNeumという街の手前のホテルで20分休憩。海が見え、小さな町が広がっているのが見える。なぜ、この小さな町だけがボスニア・ヘルツェゴビナに属しているのか不思議だが、ドブロヴニクのラグーサ共和国と、西のヴェネツィアの緩衝地帯という意味もあったらしい。

ホテル付設のスーパーにはなぜか日本語表記があり、せっかくなのでストン産の塩を買った。

さらに進むとすぐに再びパスポート・コントロールがあり、2つめの国境。一旦停車したものの係員が乗り込むこともなく再びクロアチアに入国。

再度パスポート・コントロールを通過したが乗務員が窓口に行ってきただけで何もなくてボスニア・ヘルツェゴビナに入国。結局ドブロヴニクを出てから1回もスタンプを押されず、クロアチアに入国したままになっているように思うのだが・・・。

バスは内陸に向かって走り、モスタルへ。モスタルに市街に入ると、建物に弾痕が残った建物が多くあり、緊張する。

バスを降りてATMでコンベルティビルナ・マルカ(KM)をおろし、20KMで翌日のサラエヴォまでにバスのチケットを買ってから、バスターミナルを出てホテルへ。セルビアやモンテネグロと違って、ここでもバスターミナルの乗り場から自由に出入りできる。

バスターミナルを降りて歩いて行くと、日本の国旗が描かれたバスが通り過ぎた。ここもセルビアのベオグラードと同じように、日本の援助による物なのかも知れない。

宿泊

Hotel Villa Hana

ボスニア・ヘルツェゴビナに到着した2016年5月5日(木)から5月6日(金)に1泊。

バスターミナルからスターリ・モストを対岸に渡って少し歩いたところにある新しいホテル。

中級ホテルといった感じで、バスルームの広さは日本のビジネスホテルのようで、朝食も簡素。

モスタルの観光

スターリ・モストを中心に観光地になっている。クロアチアに近いせいか、多くの観光施設でクロアチアのクーナも利用でき、土産物屋もユーロとコンベルティビルナ・マルカ(KM)の併記。

夕食

モスタルに到着した5月5日(木)は、ホテルにチェックインしてからレストランSADRVANで肉料理と野菜サラダとビール2杯。ドルマを頼もうとしたらウェイターが自信たっぷりにばしっとメニューを指しておすすめするので、その肉料理を頼んだ。普通においしい。全部で23KM払った。物価もクロアチアより安い。ホテルに戻って早めに就寝。

スターリ・モスト

一泊した5月6日(金)に、少し寝坊してからモスタルのホテルをチェックアウトして荷物を預けてモスタル観光。

モスタルと言えばスターリ・モスト。英語ではOld Bridgeと表示されている。ネトレヴァ川はこの地域で峡谷のようになっており、もともとは鎖橋がかかっていたが、トルコ統治時代にアーチによる橋が架けられた。1993年11月9日に内戦で破壊されたが、2004年に再建が終わった。

アーチなので、橋を渡るには登って降りるが、石はすり減って相当につるつるしていて、大変危ない。

下を流れるネトレヴァ川は水もきれいで、流れも結構速い。

旧市街(クユンジルク)

スターリ・モストの左岸は旧市街になっていて、狭い道にお土産などを売っている。橋を渡った右岸にもおみやげ屋やレストランが並んでいる。

スカーフをかぶった女性が行き交う。中東では見慣れた風景だが、顔つきは全くスラブ系の人達なので、不思議な感じがする。若い女性はまるでコスプレのようにも感じる。

クリヴァ・チュプイリヤKriva Cuprija

スターリ・モストの付近では別のラダポリャ川もネトレヴァ川に流れ込んでいて、スターリ・モストに似た橋が架かっている。1558年に建造されたが、1996年に水位が上がったために流されてしまったために再建されたようだ。

コスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤ

金曜日だったので、礼拝前にモスクの見学。まずはコスキ・メフメット・パシナ・ジャミーヤ。1618-1619年に建てられた。

ここはスターリ・モストがよく見えることが有名。モスクの裏からもよく見えるが、何よりもミナレットに登ると素晴らしい眺め。

モスクの中はトルコ風で、ステンドグラスまではめ込まれていた。モスクの前には水場があり、礼拝者が足を洗っていた。歴史的建造物というだけではなく、現在も使われているモスクだと言うことがわかる。

カラジョズ・ベゴヴァ・ジャーミヤ

続いてカラジョズ・ベグのモスクという意味を持つモスク。

ここでもミナレットに登ると、今度は街が見える。ドイツ人の若い女性観光客グループもいて、説明を受けていたが、ボスニア・ヘルツェゴビナはやはり経済状況が厳しく、人材の流出が問題となっているようだ。

トルコの家

18世紀に建てられた建物で、二階が大きくネトレヴァ川に大きくせり出している。

スターリ・モスト博物館

スターリ・モストの左岸に入口がある博物館。スターリ・モストの歴史や、特にユネスコによる再建の様子が動画で流されていて面白かった。

意外に中は広く、歩き回っていくと、出口は旧市街の真ん中で、出た瞬間どこにいるのかわからなかった。

WAR EXHIBTION

こちらはスターリ・モストの右岸の建物の中にあり、ニュージーランドの当時22歳の写真家Wade Goddardによる内戦時の写真を展示していた。

ウナギで昼食

昼食はレストランでウナギの炭火焼きとミネラル・ウォーター。タレこそついていないものの、炭火焼きの香ばしい匂いはウナギそのもので、予想以上に美味しかった。値段は他のメニューに比べてやや高め。

Hamam Museum

トルコ式の風呂であるハマムの博物館。16世紀の後半に建てたらしい。最初係員がおらず、中を見てから入場料を払った。

公共浴場

旧市街からバスターミナルに戻る途中でさっと外観だけ見学。オーストリア・ハンガリー帝国時代の1921年に建造されたもので、擬ムーア様式とのこと。

出発

ホテルに戻り、荷物を受け取って宿泊代を支払ってから歩いてバスターミナルへ。余裕を持っていったつもりが道に人が多くて時間がかかり、最後は走ってしまった。

途中で、前面にはいくつも穴が開き、戦争で破壊されたような建物がある。

15:00発のバス(20KM)にすべりこみ、サラエヴォに出発。バスは満席に近かった。

サラエボ/サラエヴォ(ボスニア語:Sarajevo 、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)

盆地のミリャツカ川の沿いに広がるボスニア・ヘルツェゴビナの首都。1984年に冬季オリンピックが開催されたことも記憶している。第一次世界大戦はこの街で、オーストリア・ハンガリー帝国のフランツ・フェルディナント大公とその妻が暗殺されたことがきっかけとなった。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、セルビア人勢力に数年間に渡って包囲を受け、現在でも弾痕が残る建物がある。そして、街も北部と中心部はボスニア・ヘルツェゴビナ連邦側、南部はセルビア人共和国側と分かれてしまっている。しかし、観光客も多く、人々の身なりも良くなっているように感じる。

ヨーロッパの都市でありながら、イスラムの色が濃くモスクがある。さらにカトリックや正教の建物も混在し、どれもが現在でも使われている。それがこの街に不思議な魅力をもたらしている。

旧ユーゴスラビア旅行で2016年5月6日(金)にモスタルから到着し、1泊して5月7日(土)に成田空港に出発。

Wikipediaのサラエヴォ情報

到着

2016年5月6日(金)に、モスタルからサラエヴォの連邦側バスターミナルに到着。鉄道駅前にあるが、地方都市のバスターミナルより簡素で、バス乗り場といった風情。

バスターミナルや隣接した鉄道駅の辺りは治安がよくないというので緊張したが、なんだかのんびりしている。

駅前に止まっているトラム1番に乗ってホテルに向かったが、トラムはものすごいおんぼろで落書きだらけ。

宿泊

Hotel Colorsinn Sarajevo

鉄道駅・バスターミナルと、中心部のバシチャルシャの中間辺りにある。新しいだけではなく、内装も凝っていておしゃれなホテル。

サラエヴォの観光

サラエヴォに着いた5月6日(金)は、夕方だったのでバシチャルシャに出てざっと見てから夕食。そして翌日の5月7日(土)にゆっくりと観光した。

バシチャルシャ

サラエヴォに着いた5月6日(金)は、夕方だったので夕暮れのバシチャルシャを見学。ここが旧市街で言わば観光の中心。お土産物やレストランが並んでいる。中東の職人街のような雰囲気があり、少し路地に入ると店の中で皆水タバコを吸っていたりする。

ラテン橋と暗殺場所

ミリャツカ川に架かる橋で、この橋のたもと、写真で右側のあたりがフランツ・フェルディナント大公が暗殺された場所。暗殺場所には道の横に小さなプレートがあるだけで名所という感じではない。サラエヴォの人達にとっては、暗殺で有名な街というのは良い気分ではない、というように感じた。

夕食

レストランでボサンスキ・ロナッツというボスニア・ヘルツェゴビナの煮込み料理と、サラダとビールで夕食。

ホテルに戻って、ミニバーの中身を少し飲んで就寝。

サラエヴォ冬季五輪スタジアムの近くの墓地

一泊した5月7日(土)、ホテルをチェックアウトして荷物を預け、北に歩いて行った。小さな市場を通り過ぎて歩いて行くと、オリンピックの会場跡に出る。

ここはオリンピックの会場跡というよりも、墓地として有名になってしまっている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の際、セルビア人による砲撃で死者の埋葬も出来なかったため、早朝か日暮れにオリンピックの競技場に死者を埋葬した。オリンピックのタワーの前に殺風景な墓碑が並んでいるのは異様な光景。ここだけではなく一体が延々とこうした墓地になっている。

旧正教会

旧市街に戻っていて、まずは旧正教会。16世紀に建てられたもので、窓が小さいロマネスク風の建物。中にはイコンなどがある。

GAJERIJA 11/07/95

バシチャルシャ方面に戻り、カトリック大聖堂の横の建物でGAJERIJA 11/07/95を見学。これはスレブレツァ(Srebrenica)で起きたセルビア人勢力によるボシュニャク人の虐殺事件に関する展示。国連の保護が及ばず、8,372人が殺された。

目を覆う展示が並ぶが、動画が流されており、大きく掘られた穴の横に住民を一人ずつ立たせ、銃で打って穴に落としていく様子は、強い衝撃を受けた。

戦後こうした記憶が薄れるどころか、むしろ戦後こうした事実が明らかになってきて降り、セルビア人共和国が公式に謝罪したのは2004年11月10日になってである。

Wikipediaのスレブレニツァの虐殺情報

ガジ・フスレヴ・ベグ博物館

ガジ・フスレブ・ベグ・ジャミーヤを見ようとしたところ見学時間外だったので、先にこちらを見学。メドレセだったが、現在は博物館になっている。

ブルサ・ベジスタン

絹取引所の後で、現在はサラエヴォの歴史に関する展示をしている。

昼食

ソーセージとコーラで昼食。ナンらしきものも出てくる。メニューにはハラルと記載されているが、ソーセージのような豚肉料理も出しているように見える。その国、その地域なりのやり方があると言うことかな。

自分では試さなかったが、隣のテーブルを見ると、独特の容器を使って珈琲を飲んでいる。

ガジ・フスレブ・ベグ・ジャミーヤ

いよいよガジ・フスレブ・ベグ・ジャミーヤ。1531年に建てられた、中心部にある大きなモスクだが、これも含めてガジ・フレスグ・ベイがワクフとして作った施設が複数ある。掃除中だったが切符を売ってしまったからか?見学することができた。説明までマンツーマンでしてもらった。

入口でもお祈りをしていて、男女に分かれている。

旧市庁舎

ミリャツカ川沿いに立ち、オーストリア・ハンガリー帝国時代に市庁舎として建てられた後、国立図書館となっていた。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で砲撃を受けて蔵書も含めて燃えてしまった。その後、2014年に修復工事が終わった。

一見ヨーロッパ風の建物だが、細かいところを見れば見るほど中東風というかイスラム風で不思議な建物。地下の歴史展示も含めてを見学。

入口にはプレートがあり、この建物はセルビア人勢力によって、1992年8月25~26日の夜に焼かれたことが記載され、"DO NOT FORGET, REMEMBER AND WARN!"と結ばれている。和解にはまだまだ時間がかかるのだと感じさせられた。

歴史博物館

トラムで移動して鉄道駅の近くの歴史博物館を見学。この建物自体、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の影響か壊れた部分があり、屋根も開放式になっている。

やはり内戦の展示が目につく。いかに犠牲が多い紛争であったか。また、休戦にはアメリカをはじめとした外交がいかに努力したかが示されている。残念ながら日本は大きな役割を果たせていない。しかし、休戦のデイトン合意は境界線で各勢力を分離して衝突を避けるものであったため、休戦後の復興を行うとなると、国の統一を妨げてしまい、海外からの投資も進んでいないという。

スナイパー通り

歴史博物館から西はスナイパー通りと呼ばれている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争時、この通り沿いの高層ビルに潜んだセルビア人勢力は、道を横断するものを女子供であろうと老人であろうと狙撃した。当時の、必死の覚悟で道を走って渡る住民の写真が残されている。

アヴァズ・ツイスト・タワー

鉄道駅方向に歩き、アメリカ大使館前を通って、駅近くのアヴァズ・ツイスト・タワーに。これは2009年に完成したボスニア・ヘルツェゴビナで最も高いビルで、新聞社が入っているが展望台に上ることが出来る。

35Fの展望台に上ってサラエボを一望すると、盆地に広がるサラエヴォの街を見られるが、よく見るとぴょんぴょんとモスクのミナレットが突き出ていて、イスラム教徒が多い街だということを感じさせる。

出発

2016年5月7日(土)、アヴァズ・ツイスト・タワーからトラムで移動してホテルに戻り、預けた荷物を受け取り、タクシーを呼んでもらった。

サラエヴォ空港について、予めホテルで聞いていたとおり20 KMを払ったら、おつりを渡そうとするのでそのまま受け取ってもらった。。

Turkish Airlines TK1026のA320-200でサラエヴォを21:00に出発し、イスタンブールに24:00ごろに到着。

翌5月8日(日)にTK52でイスタンブールを1:20発、成田空港に18:40ごろに到着。予定より早く着き、成田エクスプレスで帰宅。

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