最終更新日 2018年4月22日
とにかく平らで、いかにも中央ヨーロッパという感じの国。
1999年にワルシャワを訪問し、EUに加盟した後の2017年にクラクフを訪問。
国名 | Rzeczpospolita Polska、ポーランド共和国(日本語)、Republic of Poland(英語) |
国土 | ドイツの東側。平原の国。バスから見ても本当に平らだった。 |
気候 | 北西部はCfb、東部や南部の山岳地帯はDfb |
人口 | 約3,863万人(1996) |
民族 | ポーランド人98%。かなり民族的には均質のようである。 |
宗教 | カトリック。今の法王の出身国。 |
首都 | Warszawa、ワルシャワ、Warsaw(英語) |
経済状況 | GNP1,247億ドル(1996)、一人当たりGNP3,230ドル(1996)、23,273ドル(2013年、PPP) |
時間 | 中央ヨーロッパ時間(GMT+1)、ただし夏はサマータイムで1時間繰り上がる。 |
国番号 | 48 |
観光客 | 1,920万人(1995) |
ポーランド語。インド・ヨーロッパ語族バルト・スラブ語派の言語であり、基本的にはラテン・アルファベットだが、いくつか特殊な文字がある。
英語は、1999年当時はホテル、レストランでは通じる。それ以外はあまり通じない。その場の誰かは話せる人がいる、程度だったが、2017年時点では観光している限り何も問題なかった。
łはlに似ているが発音は全く関係なく英語のwの音であり、wは英語のv、ęはエンと発音する。złotyはズロティではなく、ズウォティ。
ありがとう | Dziękuję | レストランの観察によれば、ディンクウェン、のように聞こえる。チェコ語に似ていないか? |
切符 | Bilet | 切符の観察による。ビレット??? |
値段 | Cena | レシートの観察による。 |
合計 | Suma | レシートの観察による。 |
出発 | Wyjazd | ホテルのゲストカードの観察による。 |
到着 | Przyjazd | ホテルのゲストカードの観察による。 |
Vilnius | Wilno | ヴィルノ、という感じ? |
ズウォティ(Złoty,zł )、補助通貨単位(1/100)がグロシュ(Grosz, gr)。EUに加盟しているがまだユーロになっていない。
1999年7月にOkecie空港でUS$を両替したところ、1$=3.70ズウォティだった。2017年では1$=3.62ズウォティ、1ズウォティが約30円。
ズウォティは日本では両替できない。1999年当時はUS$かドイツマルクの現金を持っていくのがよいようだったが、隣国がユーロに移行してからはやはりユーロが便利のようだ。ユーロ統合前の他国と同様、街に両替所は多い。クレジットカードもかなり広く使える。
日本人は90日まで必要ない。
1999年当時は必要なくなってまだ間もなかったようで、古い情報だと必要だと書いてあることがあった。そこで、旅行前にポーランド大使館に電話したところ、いきなりポーランド語で(まあこれは当然か)話され、英語で日本語が出来るかと聞くと「できない」。しかたなく英語で「90日以内はいらない」ことを確認した。
個人旅行者への情報提供を目的としたユニークなサイト。東ヨーロッパの情報の中に、ポーランドの情報がある。
ポーランドの首都。
バルト三国縦断のスタートとして、1999年7月24日に飛行機で日本からオランダ経由で到着、2泊してリトアニアのVilniusにバスで出発した。
成田から、オランダのスキポール空港の乗り換えのKLMオランダ航空で、Warszawa Okęcie Airportに、現地時間の21:40着。あらかじめ到着が遅くなることがわかっていたので、荷物は全て客室に持ち込んでいた。そのため、飛行機を降りて直ちに入国手続きを済ませ、両替も済ませた。ここまでは流れるように進み、ちょっと自己満足。
空港内のいくつかのカウンターはやっていなかったが、到着口を出て、空港の出口の右のほうにあるORBIS(旅行代理店)はまだやっていた。ホテルには、市バスやタクシーではなく、AirportCity Busで行こうと考えており、このバスの切符はORBISでも帰ると聞いていたので行ったのだが、一人だけ居た受付の若い女性は電話をしており、いっこうに終わる気配がないのであきらめた。なお、ORBIS系列のホテルはここで予約できるようである。
AirportCity Busは、空港の出口を出て、バスターミナルのように平行して走っている空港前の道路を2本くらい渡ったところから発車する。一応バス停のような表示がある。そこに至るまでの案内には、AirportCity Busではなく、Shuttle Busのように書いてあったりする。それを探していると、男が近寄ってきて、タクシーでいかないかという。「AirportCity Busで行くのだ」と言うと、「土曜日のこんな時間にはないよ」と言う。この時間でもあることはガイドブックで確認してあったので無視。この男は、英語でTransport何とかというような写真入りの名刺をつけていたのだが、空港の職員ではないような気がした。帰国してから調べてみると、同様の情報がポーランド情報館の旅行者のための入国情報にも書いてあった。
切符は運転手から買うことが出来(8ズウォティ)、無事出発。切符の裏には、ワルシャワ市内に行って空港に戻ってくる順路と停留所が書いてある。が、客が少なかったせいもあり、全ての停留所に止まっていないようであった。暗くて外の様子もよくわからず、通り過ぎたのではないかと不安になって運転手に尋ねたところ、英語はできないようであったが、私の止まるホテルを指差し、次に止まることを教えてくれた。
ちなみに、AirportCity Busの切符の裏に書いてある、"HOTELS AT THE BUS ROUTE"による経路は以下の通り。一旦市の南部を回って、北上する。
1999/7/24-7/26に2泊。Warszawa到着は遅くなったので、日本から予約していった。
サスキ公園(Ogrod Saski)とクラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmiescie)の間という非常に便利な位置にある。
Okecie空港からはAirportCity Busで行くことが出来る。AirportCity Busは、一旦ホテルの前を通った後、クラクフ郊外通りに廻り込んで止まる。旧市街には歩いて行くことが出来る。新世界通り(Nowy Swiat)やワルシャワ中央駅、バスターミナルにはバスで行くことが出来る。
シングル8,900円(朝食付き)、週末料金だった。
良くも悪くも歴史のあるホテルという感じで重厚な雰囲気が漂っており、レセプションの人も含めて、愛想良いとは言えず真面目な顔を崩さない。入り口にドアマンが立っているホテルと言えば、感じが掴めるだろうか。部屋はこれまた歴史がある感じで、バスルームの隅などを見ると掃除が不十分のような気もしたが、私自身としては気にならない程度。朝食もハムやチーズなどが盛りだくさんの中から選ぶことが出来る。この週末料金で泊まるぶんには十分だと思った。
宿泊したEuropejskiの概観(南側から)の写真(59KB)
バスとトラムが走り回っている。観光地図に路線が書いてあるが、なかなかルートはわかりづらい。500番台は急行バスで、主要な停留所にしか停まらない、などのルールがあるようだ。また、結構混んでいる。
1回券は2ズウォティ、1日券は6ズウォティ。緑にRUCHと黄色で書いてあるキオスク(東ヨーロッパにありがちな歩道上にあるやつ)でも買えるし、バス停の近くにある自動販売機でも買える。1日券は、「地球の歩き方中欧」には24時間券と書いてあるが、説明を見るとやはりその日の24時までだと思う。どうなんだろう。
切符を持って乗ったら、車内の柱にあるパンチで改札する。パンチは銀色をしていて、切符を上から縦に入れて、パンチ全体を押すようにして改札する。そうするといくつかの穴があく。最初はよくわからなくて、近くの人に教えてもらった。なんだか切符を入れる方向もあるみたい。やり方を聞いたらそうしろというので改札したが、そもそも1日券も同じように改札するのか不明。これでどうやって有効な日がわかるのだろう?
自動販売機で買った一日券(上)とキオスクから買った一日券(下)。両方とも改札したものの写真(51KB)
バスの中のほうに、バスの経路が日本の地下鉄にみたいに表示してあるので、それを参考にすればよいのだが、慣れないとやはりどこで降りてよいかよくわからない。
危ない、危ないといろいろなところに書いてあるが、バスターミナルに行く際に、ホテルのドアマンに呼んでもらって乗ったところ、全く問題はなかった。値段も日本の感覚から言えば安いし。料金を払おうとしたら、お釣りがないと言われてしまった。運転手がじゃあ端数はいらないよ、と言い出すので、ぼられるのではないかという緊張感が解けた反動で、いやお釣りはいいよといって多く払ってしまった。
特別な名物料理というのは見かけなかった。いかにもヨーロッパの料理という肉料理を食べた。行った範囲でメニューは英語のものが準備され、困るようなことはなかった。チップについてはよくわからないので、若干残す程度にした。
値段はそんなに高くない。コーヒーとケーキを食べたときのレシートを見ると以下の通り。コーヒーのほうが高いみたい。なお、レシートには税金の内訳が示されているようだ。
PTYS | 3,50 |
ESPRESSO.CUK. | 7,- |
Suma | 10,50 |
旧市街はそんなに広くなかった。旧市街広場(Rynek Starego Miasta)と王宮広場(pl. Zamkowy)の2つの広場が中心になるが、一瞬で見られる。観光客らしき人がとても多かった。
旧市街広場(Rynek Starego Miasta)を南東からの写真(59KB)
王宮広場(pl. Zamkowy)を南からの写真(60KB)
クラクフ郊外通り(Krakowskie Przedmiescie)とその延長である新世界通り(Nowy Swiat)はとてもきれいだが、これらの建物は第二次大戦で破壊されたものを以前の通りに復元したものだそうだ。文化科学宮殿(Palac Kultury)という高い建物があり、ランドマークになっている。大抵の地域は清潔な感じだが、ワルシャワ中央駅(Warszawa Centralna)の周辺は、浮浪者のような男がいたりもした。
新世界通り(Nowy Swiat)を南からの写真(50KB)
サスキ公園(Ogrod Saski)を東からの写真(35KB)
長距離バスが発着する中央バスターミナルは、ワルシャワ西駅(Warszawa Zachodnia)の近くにある。王宮広場(pl. Zamkowy)のツーリスト・インフォメーションで聞いたところ、517のバスで行けばよいと教わり、乗ったはよいが、Al. Jerozolimskie通りを外れてしまうので、慌てて降りてしまった。バス停で近くの男に、ここはどこなのか聞いたのだが、全く英語が通じず、要領を得なかった。仕方なく、他に居る人達に、英語が出来る人はいませんか?と聞いたところ、カップルでいたうちの若い女性が教えてくれた。地図で見ると、中央バスターミナルへの517のバスは、市街の中心部からAl. Jerozolimskie通りを一直線に行くように見えるのだが、ややこしいことに一回、GROJECKA、GRZYMALY KOPINSKAと迂回しており、今自分がいるのはHala Kopinskaというところだということが分かった。
バスターミナルには、インフォメーションがあり、切符を買う際にいろいろ教えてくれる。ホテルの予約もできるようだ。また、両替もあるが、24時間やっているわけではない。
いかにもスラブ系といったような人が多かった。髪の毛の色は様々だったが、体型はがっちりしている。女性も肩幅が広く、四角い体つきの上に丸顔が乗っているような人が多かった。
難しそうな顔つきをした男性も多く、それほど陽気だったり、ひとなつっこい感じではなかった。旅行者に対しては、親切でも不親切でもないといったところ。
17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではポーランド王国の首都で、第二次世界大戦の被害を受けなかった街並みが世界遺産になっている。街にはユダヤ人居住区があったカジミエシュ地区もあり、映画「シンドラーのリスト」の舞台にもなった。また、近郊のヴィエリチカ岩塩坑、アウシュビッツもそれぞれ世界遺産になっている。さらに、クラクフ歴史地区とヴィエリチカ岩塩坑は、史上初の8件の世界遺産登録のうちの2つである。
東欧・西欧旅行のスタートとして、2017年8月10日(木)に飛行機で日本からロンドン経由で到着、3泊して8月13日(日)スロバキアのブラチスラバに寝台列車で出発した。
The Tourist Information Networkのクラクフの情報
前日目黒で日本酒を飲んで少し残っていたが、早起きして吉祥寺駅からバスで羽田空港へ。夏休みシーズンなのか混雑していて乗り場は行列。乗れたものの補助席だった。
オンラインチェックインをして搭乗券を印刷してきたので、長蛇の列に並ばずに荷物を預けるだけで済んだが、せっかくトナーを代えて印刷してきた搭乗券は、「読み取りが出来ないことがあるので」と言うことで、新しく発見された物に交換されてしまった。空港で朝食にうどんを食べ、慌てて出てきたので家に置いてきてしまったガイドブックを購入。ブリティッシュ・エアウェイズBA008便のB777で8:50発、ロンドン・ヒースロー空港に13:00過ぎに到着。
ブリティッシュ・エアウェイズBA872便のA320で定刻の17:00より遅れて18:00ごろに出発。カタール航空の運航だった。満席だが、他に東洋人はいない。21:30にクラクフ空港(Kraków John Paul II Airport)に到着。入国審査は東洋人が珍しいのか滞在期間、目的、目的地などいろいろ聞かれた。ATMで通貨ズウォティを下ろし、荷物の受け取り。
22:18の電車でクラクフ本駅(Kraków Główny)まで行って、Mercure KRAKOW STARE MIASTOにチェックイン。
2017年8月10日(木)~8月13日(日)に3泊。
クラクフ本駅(Kraków Główny)からプラバ通りに出ると、左斜め前に見える。駅から近いのでとても便利。
クラクフにはいくつか駅があり、これが本駅。ショッピングセンターと一体化していて、裏手にはバスターミナルがある。
とにかく切符売場が混んでいて長蛇の列なので、早めに行かないと列車に乗れない。
中欧・東欧らしく、自分で切符にパンチする形式。
主要な停留所には切符の自動販売機があるが、ないところもあるので少し多めに買っておくと良いかも知れない。
停留所にはあとどれくらいでトラムが来るかも表示されるし、特筆すべきは車内の画面表示。現在路線のどこにいるか表示されるだけではなく、Googleマップのように地図の上を赤い点が移動していって現在位置が示される。旅行者にとっては手元の地図と照らし合わせることが出来るので、これは良い考え。
クラクフに到着した翌日の2017年8月11日は近郊のヴィエリチカ岩塩坑へ。現在は採掘されていないが、世界遺産になっている。
朝食を食べてからホテルを出て、クラクフ本駅(Kraków Główny)へ。切符売場が長蛇の列で、9:40発の列車に乗ろうとしたのに、10:08発になってしまった。料金は3.50złで、18年前に使い残したコインで支払った。Wieliczka Rynek Kpalnia駅に10:34に到着。
岩塩坑はガイド付きのツアーで回ることになるが、いくつかルートがあり、一番典型的に思われるTourist Routeというものを選んだ。Tourist RouteはDanilowicz Shaftから入る。入口は既に長蛇の列で、indivisual tourist, foreign languageという列に並び、チケットを購入。ポーランド語のツアーは59złだったが、外国語は89zł。さらに写真やビデオを使用する場合は10zł追加で、チケットと胸に貼る写真可のシールをくれる。
フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語のツアーは一日に3回くらいしかないようだが、英語のツアーは30分ごと。それでも11:30の回は人が多く、2つのグループに分かれることになった。オーディオレシーバーを全員に渡されてガイドと一緒に出発。
出発後はひたすら木の階段で穴を下りていく。54の折り返しがあり、全部で370段だという。ここから坑道を歩いて進んでいくが、坑道は木の枠で補強されており、ところどころで2つ続く木のドアで仕切られている。1つの木のドアを開いて進み、グループが全員中に入ったところで先のもう1つのドアを開けて進む。換気の都合のようだ。
坑道内は年間を通して14~16℃で、ずっと中にいると少し寒くなってくる。Tourist Routeは3km歩くが、それでも坑道全体の1%程度、全部を歩くと7か月かかると言っていた。
坑道は日本でイメージするものと違って結構広くグループがすれ違えるほど。塩が白く析出しているところもあるが、歩くところは茶色くつるつるしている。所々に広くなった部屋があり、それを訪れていく。鉱夫達が残した塩の像が残されているほか、当時の作業を表した人形が置いてあり、その説明を聞きながら進む。
かつての作業は棒の先に灯りをともして這いつくばって進むもので、火事やガス爆発が起きて大変危険なものだったとのこと。穴に降りて行くにも階段ではなく、鉱夫6人ほどを一組に、ロープで吊して降ろした。降ろされるときには恐怖を紛らわすために歌を歌っていたという。
掘り出した岩塩は転がしやすいように円柱状にして運ばれた。かつては人が運んでいたが、そりのようなもので引きずったり、工事現場で使う台車のようなものになり、馬を使って引くようになる。さらに、大きな滑車で持ち上げるようになり、この滑車を動かす動力も17世紀には人から馬になる。
日本の石見銀山、生野銀山や鍾乳洞に比較すれば大変乾燥しているように感じるが、所々で水がしみ出しているところがあり、そこではスパゲティと呼ばれたり、カリフラワーと呼ばれる鍾乳石のような塩の結晶が見られる。また、人工の地底湖もあるが、当然ながら非常に塩の濃度が高く、泳いでも浮力が強いとのこと。
所々に教会がある。全部で17ほどあるらしい。なぜわざわざ教会があるかと言えば、事故が多いため、鉱夫はここで祈ってから作業を始めたという。ひときわ大きな教会があり、キリストの誕生から最後の晩餐まで彫刻や壁画が残されている。これは3人が順番に引き継いで完成させたもの。
ツアー後半には飲食物やお土産を売っている部屋もいくつか休憩しながら通り、このツアーの最深部130m(岩塩坑自体は300mほどの深さがある)に達してからツアーは終了。ここまでで3km歩き、2時間ほど、
ここからは解散して自由に歩いて出口に向かう。途中に食堂やイベントで使われる広い部屋もある。
そのまま出ても良いが、希望者はさらに博物館を見学できる。これもガイドについて回るが、ここではガイドと客2人の3人になってしまった。さらに1.5kmほど歩いて説明を受ける。これまでに説明された採掘方式の他、古い文書や坑道の全体図、かつての街の姿、地学的な説明がある。ガイドの女性の黒い服は、かつての鉱夫のユニフォームを模したものだそうだ。
海から塩を得ている日本人には岩塩というのは不思議だが、当然ながらかつては海だったので、塩が堆積している。新石器時代から表層で塩が利用されていたが、掘り始めたのは10~13世紀頃から。どんどん深くまで掘っていき、掘り尽くして1996年に採掘を終えた。ただし、ポーランドのこの付近には他にも塩の鉱脈?が大規模にあり、採掘されている他の場所もあるとのこと。塩は調味料としてだけではなく、食べ物を保存するためにも不可欠なものであり、大変に貴重なものであった。
博物館まで見たら、15:00頃になっており、かなり空腹になったが、駅に電車が来ていたので飛び乗り、中で切符購入。クラクフ本駅(Kraków Główny)に着いてから、構内のバーガーキングで補給。
少し落ち着いたところで長蛇の列に並び、翌々日のブラチスラヴァへの寝台列車(クシェット)の切符を買い、暑いのでホテルに戻った。
夕食はクラクフの旧市街まで歩き、中央広場(Rynek Główny)を見てから、スープ、豚肉。
クラクフに到着した三日目の2017年8月12日(土)は、近郊のアウシュビッツへ。ポーランド語ではオシフィエンチムと呼ばれ、2つの強制収容所が博物館となっており、負の世界遺産として有名。
朝から雨。朝食を食べてからホテルを出て、バスターミナルへ。また長蛇の列で、切符を買うまで10分以上かかったが、10:10のバスでオシフィエンチムに11:35過ぎに到着。14ズウォティ。途中で夕立のような雨となり、大丈夫かと思ったが、着いたときには晴れていた。オシフィエンチムの鉄道駅の次の停留所がアウシュビッツIとなる。
ホロコーストまでは世界の70%のユダヤ人がポーランドに住み、ポーランド文化に影響を与えたが、20世紀に入ってもユダヤ教の古来の教えを実践しながら生活していた伝統的なユダヤ人たちの多くはホロコーストにより虐殺された。
アウシュビッツと呼ばれる強制収容所は3つあり、最初にアウシュビッツIが設置された後、アウシュビッツ・ビルケナウ(アウシュビッツII)、アウシュビッツ・モノヴィッツ(アウシュビッツIII)が建設された。博物館として見学できるのは前者2つである。
アウシュビッツは無料で入場できるとされているが、ガイド(Educator)をつけたツアーが推奨されている。特に、夏期の朝から16:00まではガイド付きのツアーでないと入れない。ガイド付きのツアーは個人でも参加できるが有料で、ウェブから事前に予約してチケットを購入することが出来る。というか、訪問者が多いので、事前に予約しておかないと長蛇の列に並ぶ羽目になる。最初は前日の金曜日に行こうと思っていたが、それに気がついたのが旅行に出発する直前で、土曜日14:30の英語ツアーが1人分しか空いていなかったので予約した。実際に当日の長蛇の列の受付を見ていると、いくつかの時間の英語ツアーもある程度の人数が売られていた。当日分を残しているのかも知れない。並べばもっと早い時間に入れたかも知れないが、長蛇の列に並んで、買うまでどの時間になるのかわからないことを考えると、事前に予約しておいた方が良いように思った。
バスの時間はこのサイトで検索できる。
12:00前について、14:15のツアー開始まで時間があったので、本を買ったり、説明板を読んだり、昼食を摂って時間をつぶした。荷物は20cm×30cm×10cmのものしか持ち込めないので、荷物を預け、14:15に英語のツアー開始。イヤホンを借り、ガイドについてグループでアウシュビッツI、アウシュビッツ・ビルケナウを回る。自分以外はイタリア人という英語ノン・ネイティブのグループだったので、ガイドは「はっきり、ゆっくり話しますね。」とのことだったが、早口で、年や日付や人数の数値が連続するので、しばしば着いていけなかった。"selection", "final solution", "gas chamber"はともかく、"execution", "extermination", "cyclon B", "Shoah"と普段使わないような単語が頻発する。
見学はアウシュビッツIから開始。1939年にポーランドが侵攻されてドイツとソ連に分割され、この地はドイツの占領下となった。そして1940年、アウシュビッツ収容所が設けられた。このとが選ばれたのはドイツの勢力圏の中心であり、鉄道の便が良く、ポーランド軍の本拠地があった場所だったかららしい。1945年の1月にソ連軍によって解放されるまで、強制収容所として利用された。
当初は新たに占領したポーランドの聖職者や知識人などの影響力が強い政治犯を大量に収容する目的で設置されたが、後にはユダヤ人、ソ連捕虜、ロマ、エホバの証人、同性愛者、その他の国の逮捕者を収容するようになった。
アウシュビッツ収容所3箇所全体で、130万人が送り込まれたが、110万人がユダヤ人、14-15万人がポーランド人、2.3万人がロマだったという。ユダヤ人がほとんどだったということになるが、実際に収容されていた人数でみると、アウシュビッツIで、1944年8月に全体で16,000万人、うちユダヤ人9,000人、ポーランド人4,000人という構成であった。この構成比の違いは、ユダヤ人の多くがガス室で殺害されたためと思われる。
有名なARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)と掲げられた門を入ると、横に厨房の建物があり、少しのスペースがある。ここで演奏隊が演奏し、朝外に働きに行く収容者、夕に外から帰る収容者を行進させ、人数を数えやすくした。
電流を流した鉄条網で囲われているものの、赤れんがの建物が整然と並ぶ敷地は収容所という深刻さを感じさせないが、季候が良い夏だからだろうか。各建物の中にはパネル展示、文書や犠牲者の遺物の展示がある。めがね、くし、カバン、食器と様々なものがあるが、一番ぎょっとするのが髪の毛。様々な色の髪の毛が混じっており、これが実際に人から生えていたものだと思うと生々しくてぎょっとする。犠牲者の多くは移住するのだとだまされて連れてこられたので財産を持ってきており、それはすべてSSに奪われてしまうことになる。現金はもちろん、金歯でさえ金塊に鋳造して利用された。略奪品はKANADAと呼ばれる倉庫に保管された。こうした財産の略奪はナチスに収入をもたらし、ユダヤ人の殲滅にはこうした経済的な側面もあった。
亡くなった人の顔写真と記録が壁に貼られた一角があるが、ガス室に送られなかった人も食事、労働、防寒、衛生が劣悪な環境だったため、ほとんど数か月で亡くなってしまっている。与えられた食べ物は劣悪で少なく、厳しい労働条件下で生存するためのカロリーを下回っていた。しかし、なぜ生存者がいるかと言えば、ユダヤ人以外など比較的自由が認められた収容者が外とのやりとりから食べ物を入手し、それを中で分け合っていたからだという。
施設には病院もあるが、ここでも「選別」は行われ、生産性の観点から見込みがないと見られれば即殺された。また、新薬の治験などの人体実験も行われた。
立ったまま収容される懲罰牢も復元されていた。
最後にガス室(クレマトリウム)を見学する。半地下のようになっているが、ガス室自体は狭く、あっという間に通り過ぎて、隣の焼却炉の部屋に進んでしまった。多くの人が実際に亡くなった場所の重みがあり、撮影は禁止されている。15-20分で亡くなったという。その後、焼却炉で灰にされた。アウシュビッツ・ビルケナウにはより大きなガス室が作られたため、最終期にはここは防空壕として使われた。その結果として施設がそのまま残されたとのこと。
アウシュビッツIから3km離れた場所にさらに巨大なアウシュビッツ・ビルケナウが1941年秋に作られた。こちらはポーランド人の村民を強制追放して建築し、1944年の夏には9万人が収容され、6.9万人がユダヤ人、1.3万人がポーランド人であった。最終的には20万人の構想であったが、これは完成しなかった。
門を入ると敷地を左右に二分するように鉄道が延びている。入口を入って中程まで運ばれた収容者達は降ろされ、小屋のような建物の前で選別を受ける。同じ場所で撮られた写真が奇跡的に残されているが、SSの係員が一人一人あっち、こっちと指さして行き先を示している。右側(奥側)に歩いて行く一群は、そのままガス室に向かって殺された。後ろに歩いて行く一群は収容され、強制労働に着いた。ガス室行きとなるのはほぼ8割で、収容者が多く到着した時期はすべてガス室に送られた。子供、高齢者、身体障害者など生産性が低いと考えられた者は直ちにガス室行きとなった。写真を見るとおとなしくガス室に向かって歩いて行っているように見えるが、彼らはその後の運命を知らなかったため。僅かだが脱走者がいたこともあり、ここで行われたことが外部にも漏れてはいたようだが、あまりにも非現実的で、噂だと思われたりしていたため、送られている収容者達はガス室による虐殺を知っていることはなかったという。外に手紙を書くことも検閲下で可能だったが、時間をおいて送るなどしたため、家族がそれを受け取ったときには本人は既に灰になっていた。
線路上に一台の当時の貨車が止まっている。これはあるユダヤ人が後に購入して置いたもの。彼の父は、貨車を降りて荷物を置くように命令された際に、宗教上大切なものが入っているといってカバンを置くことを拒否し、その場で射殺された。彼は父の死因を知らなかったが、戦後にその場面を目撃した生存者に話を聞き、虐殺への抵抗者とも言える父を偲んでこの貨車を購入したという。
一番奥まで行くと、両側にガス室の跡と低いピラミッドのようなモニュメントがあり、真ん中にモニュメントがある。これはイタリア人の設計によるものだという(イタリア人の参加者が多かったこともあり、ガイドも言及したのだろう)。石を積み上げたようなモニュメントの意図は説明されていないが、ガイドによればこれは墓を意味しているのではないか、ということ。ガス室で殺された人達は焼却して灰にされて撒かれ、墓すらなかった。その人達の無念に捧げるものなのかもしれない。
焼却された灰は周囲に捨てられたり、肥料とされた。自分が歩いているこの土地に多くの人の灰が撒かれたのだと思うと気味が悪いし、タンポポが咲くこの美しい土地自体が人々の灰がしみこんだ土地だと思うとここは永久に呪われた土地になってしまったのだとも感じた。
ガイドが、数週間前にこのツアーに参加した生存者から聞いたとのことで紹介してくれた話によると、子供だった彼は理由はよくわからなかったが誰かにそうしろと言われたので、選別時に指示を無視して収容側に紛れ込んでガス室送りを免れたが、灰を撒く仕事に従事させられているときに灰の中に形が残った人骨を見つけ、ここで何が行われているかを悟ったという。
その後、収容されていた施設を見るが、蚕棚のような三段棚で、棚の床はレンガが残っていたが、それ以外は土で床がない。まるで動物を収容するような作りで、-20℃になるという当地の冬には全く暖房が足りなかった。
脱走を試みた者もいたが成功率は低かった。男女別に分けられて収容されているが、脱走者の家族は収容所内でさらし者にされた。数少ない成功者もいた。収容者とわかれば捕まってしまうが、SSの制服を奪って身につけて逃げたという。検問に引っかかって、必要な書類が無く、万事休すと思われたが、大声で叫び、罵ったために通過できたという。彼の奪った制服は上位のものだったかららしい。
収容所の建屋の間に庭は草に覆われているが、当時は土だったという。収容者が飢えに苦しんでいたため。
最後にガイドがまとめの話。戦前はポーランドの人口の1割もいたとされるユダヤ人は、現在ではほとんどいなくなってしまった。アウシュビッツが1947年という戦後間もない時期に博物館とされたのは、行われたことがあまりにも想像を絶するものだったため、「そんなことがあったはずはない」ということにならないようにするためだったという。
すべての人がここに来られるわけではないが、来たあなたたちは考えて欲しい。戦後、収容所に関わったもの達は、口々に「自分は命令に従っただけだ」と言ったという。一般のドイツの人達も洗脳されていた。いろいろなメディアが発達した今だからこそ考えて欲しい。そんなことだったと思う。
ビルケナウの見学が終わったのが17:50頃。シャトルバスでアウシュビッツIに戻って、預けた荷物を受け取り、18:15発のバスでクラクフのバスターミナルへ19:50に到着。
旧市街のレストランで、ビール、ジュレック・スープ、牛肉巻で夕食。ジュレックというのはポーランドの郷土料理のようで、様々なアレンジがあるらしいが、ゆで卵が丸々一つ、そのまま入っていた。
クラクフ最後の日2017年8月13日(日)は、朝食後ホテルをチェックアウトしてクラクフの旧市街を見学。旧市街はStare Miastoと呼ばれて、城壁で囲まれている。ここももちろん世界遺産。
このファサードはバロック様式に分類されるそうだが、何よりもイタリアで見るような建築で、一瞬自分が中央にいることを忘れてしまいそうな印象を受ける。ポーランドはカトリックの国だが、建築もイタリアの影響を強く受けているのだろうか。
Stare Miastoの一番南、ヴィスワ川に面して高台があり、その上にヴァヴェル城が立っている。歴代ポーランド王の居城となっていた。
いくつかの建物が固まっていて、竜の洞窟以外はまとめてチケットを買う仕組みになっている。含まれている見学対象によっていろいろなチケットがあり、かつとても混雑して長蛇の列になっているので、時間に余裕を持っていく必要があり。クラクフでは鉄道駅も含めて良く列に並ぶ羽目になった印象がある。
高台のヴァヴェル城の裏側の端に入口がある。ヴィスワ川に竜が住んでいたという伝説がある。えらく反応が遅い自動券売機でチケットを買って入ると、それほど規模は大きくない洞窟になっている。通り抜けると高台の下に出て、前に竜の像があって、皆写真を撮っている。
竜の洞窟を見た後、チケット売場で長蛇の列の末、チケット購入。State Roomsは14:15と時間が決められているので、ヴァヴェル城遺構(Wawel Zaginiony)、オリエンタル・アート(Sztuka Wachodu)、皇室の展示(State Rooms)の順に見るよう、指示された。オーディオガイドを借りて出発。
ヴァヴェル城遺構(Wawel Zaginiony)は博物館で、普通の展示室が並んでいるが、奥に遺跡の地中部分を回る部分がある。
名前の通り、東方の影響を受けた展示がある。西アジアの影響を受けた鞍や武器のようなものが飾ってあったが、奥の部屋には立派な陶磁器が並べられており、中国のものと並んで日本の陶磁器も多い。伊万里焼が並んでいる様を見ていると、自分が今中欧にいることを忘れてしまいそうになる。
城内にある大聖堂。観光客で一杯の狭い階段を上っていくと、鐘がある。
ヨーロッパの立派な部屋という感じの展示だが、大きなタペストリーが飾られている。Envoys' Hallという大きな部屋の天井には、マス目マス目にいろいろな職業らしき顔が彫ってあって、面白い。
ヴァヴェル城を見た後に歩いてヴィスワ川を渡り、日本美術・技術博物館”マンガ館”へ。日本の浮世絵がたくさん展示されていると思って楽しみに行ったが、企画展らしき書の展示があったのみ。浮世絵は常設展示が難しいからか。見学者も少なくて、ちょっと残念だった。
トラムで中央広場に戻って聖マリア教会。中央広場は何度も通過していて、この教会もまだっていたが、ようやく見学。まあ一応、というくらいの期待で中に入ったところ、素晴らしい装飾に驚いた。青く装飾された天井が美しい。
入るときに日本語の説明紙も渡された。聖マリア教会は13世紀の終わりから15世紀の初めにかけて建てられたゴシック教会。巨大なヴィット・ストウオシ祭壇は1477-1489年にクラクフの市民の基金で作られたもの。中央広場の近くに小市場広場があって、ピエロギ屋台村になっていた。ピエロギというのは「餃子」。餃子に類する食べ物は中国はもちろん、ロシアや中央アジアでも見るが、こうした食べ物を見ると、ユーラシア大陸につながった中欧、という感じがする。中身はチーズが入っていたり、キノコを入れたり。焼いたり揚げたり煮たりといろいろある模様。クラクフの人達の、このピエロギへの情熱はすごくて、列を成して買って食べている。中央広場の屋台でも売っていた。
ピエロギを食べてから、再びトラムで今度はカジミエシュ地区へ。アウシュビッツで触れたように、ポーランドにはユダヤ人が多く、このカジミエシュ地区はユダヤ人街だった。以前に見たことがある「シンドラーのリスト」の舞台はこの街。駆け足ではあったけども、街の雰囲気を感じられて良かった。しゃれたカフェもあり、重厚な屋内でエスプレッソを飲んだ。
再びトラムで旧市街に戻り、「重量課金」のカフェテリア形式の食堂で3,80zł の軽く食事。しかし結局、かなり時間が余って、中央広場で持て余した。
2017年8月13日(日)、夕食後中央広場で時間をつぶしてからホテルに戻り、預けた荷物を受け取ってクラクフ本駅へ。
クラクフ本駅から22:02発のブダペスト/ウィーン行きの夜行列車IC/ENでスロバキアのブラチスラバに出発。
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