最終更新日 2005年1月16日
南米大陸の西側に、アンデス山脈と海に挟まれて細長くのびている国。気候も変化に富んでおもしろく、シーフードもおいしいし、人も親しみやすい印象を受けました。日本からは遠い国ですが、旅行先としてとても魅力的ではないでしょうか。
国名 | チリ共和国、Republic of Chile(英語) |
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国土 | 南米大陸の西側に位置し、アンデス山脈と海に挟まれて南北に細長くのびている。 |
気候 | 地域によって異なる。北部は砂漠BW。中央部は地中海性気候Cs、南部に行くと西岸海洋性気候Cfb、そして寒帯気候ETとなる。 |
人口 | 約1,581万人(2003) |
民族 | メスチソ79%、ヨーロッパ系20%、先住民1% 黒い髪をしている人がほとんど。 |
宗教 | カトリックが9割。 |
首都 | Santiago、サンティアゴ |
経済状況 | 一人当たり国民総所得4,590ドル(2001) |
時間 | GMT-4。日本から13時間遅れだが、サマータイムは12時間遅れとなり、アルゼンチンと時差がなくなる。 |
国番号 | 56 |
観光客 | 172万人(2001)。ただし、あまり観光客は見かけなかった。 |
スペイン語
インド・ヨーロッパ語族ロマンス諸語。南米では英語は通じないと良くいうけども、アルゼンチンと同様に、空港、ホテル、旅行代理店、レストランでは場所による。全然通じないこともある。
英語を話している場合でもなまりがきつかったり、相当早口だったりする。
スペインやアルゼンチンで話されるスペイン語と微妙に違うと言うが、私からはよくわからない。
はい | Si | スィー |
いいえ | No | ノ |
やあ! | Hola! | オラ! 目があったらこれを言う。 |
おはよう | Buenos días | ブエノス・ディアス |
こんにちは | Buenas tardes | ブエナス・タルデス |
こんばんは | Buenas noches | ブエナス・ノーチェス |
さようなら | Adios | アディオス |
お願いします | Por favor | ポール・ファボール |
ありがとう | Gracias | グラシアスとそのまま言えばOK。ただ、グラッシアスと言ったような発音も聞いた。 |
どういたしまして | De nada | デ・ナーダ。 |
パスポート | Pasaporte | パサポールテ |
水 | Agua Mineral Sin Gas | アグア・ミネラル・シン・ガス |
ビール | Cerveza | セルベーサ |
赤ワイン | Vino Tinto | ビノ・ティント |
白ワイン | Vino Blanco | ビノ・ブランコ |
大きい | Grande | グランデ |
小さい | Pequeño | ペケーニョ。これが言えないと、でかいものを飲まされたり、食べさせられたりするので危険。 |
会計お願いします | La cuenta, por favor | ラ・クエンタ・ポール・ファボール |
1 | uno | ウノ(1人?1個?など、よく確認される) |
2 | dos | ドス |
3 | tres | トレス |
コーヒー | Café con leche | カフェ |
デザート | Postre | ポストレ 最後にアクセント |
名前(名字でなく) | nombre | ノンブレ。日本のパスポートのgiven name、surnameという表記はどうも彼らにはわかりにくいらしく、どっちが名前でどっちが名字か、というようによく聞かれる。 |
チリ・ペソは$3,000とか、大きな数字になりがちなので、そこまで含めて数字を理解できるようにしておいた方がよい。
チリ・ペソ($)。$を使うのでアルゼンチン・ペソとも区別しにくい。米ドルのときはUS$として表記したりしている。
アルゼンチンと同様、値段がUS$で表記されていたり、支払をUS$でできたりする。
コインとしては、$10より小さい$5や$1があると言うが、見ない。また、$100としては茶色いものと縁取りがされた銀色のものの2種類を見た。
アルゼンチンと同様、日本円は両替できないとか、T/Cはあまり通用しない、と言うので、米ドルのキャッシュを持っていったが、ATMが地下鉄の構内にも、ショッピングセンターにもどこでもあるため、国際キャッシュカードだけで良かった気がした。ただし、米ドルは非常に簡単に両替できる。
日付 | 場所 | レート |
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2004年10月13日 | MendozaとSantiagoの間の国境 | 1US$=590$ |
2004年10月13日 | Santiagoバスターミナル | 1US$=600$ |
2004年10月15日 | San PedroのPlaza de Armasに止まっていた両替車 | 1US$=605$ |
2004年10月17日 | Puert Monttの旅行代理店 | 1US$=580$ |
問題なく使用できる。
必要なようです。レストランで10-15%程度。一方で、タクシーやレミースでは不要なようです。
アルゼンチンのMendozaからSantiagoに行ったときのバスでは、国境通過の手続きをしたとき、Santiagoに到着して、預けた荷物を受け取るとき、の2回にチップを集めていた。国境通過の時は通関で乗客が並んでいるときにプラスチックのカップを回して集めていたが、よくわからずに払い損なった。荷物を受け取るときには、鍵を持った手を開いて差し出されたため、鍵を見せられているのかと思ってよくわからなかった。後の人がチップを払っていたので、戻って少し払った。難しい。
Puerto MonttからアルゼンチンのBarilocheに抜けるツアーの途中、オーストラリア人夫妻と話す機会があったが、彼らも普段高級な店やホテル以外ではチップを払わないので、難しいと言っていた。
チリは日本人にとってありがたいことに、シーフードが食べられる。魚はもちろん、貝やウニまで食べられる。
塩味もおおざっぱだけではなく丁寧につけてあって、良い感じ。
サーモン(トラウト)は日本にも大量に輸出されているし、エリッソと呼ばれてウニも食べられている。ピコロコというフジツボのでかいやつもあるらしいが、これは食べる機会がなかった。コングリオと呼ばれる魚もポピュラーで、穴子のようなものらしい。ただし、シーフードは激安というわけでもない。クラントというシーフード鍋もある。
また、レストランでメニューを注文すると、最初にパンと一緒に、ペブレというもの小さな皿に入って出てくる。これは、トマトとタマネギを切り刻んだものを味付けしたサラダっぽいもので、最初は何かよくわからなかったが、パンなどに付けても食べるものらしい。
軽食としては、アルゼンチンのENPANADASと同様のものが、EMPANADA FRITAと言われて売られている。
飲み物は、日本でも有名なチリワインが飲める。ただ、コーヒーはアルゼンチンと同様インスタントコーヒーが幅をきかせている。また、チリだけではなくペルーでも飲まれているものらしいが、Piscoと呼ばれるブドウの蒸留酒もピスコサワーというカクテルにしたりして飲まれている。飛行機の中でも隣の女性達が飲んでいて、最初何かわからなかった。白い色をしていてちょっと甘いにおいもするが、結構強い。ピスコサワーと言って、レモンジュースなどで割って飲むのが普通のようだが、レシピはいろいろあるらしい。
なお、食事の時間はスペインと同じで遅い。昼食は13:00とか14:00くらいから、夕食は20:00くらいから。
チリの電話は難しい。競争政策がうまくいっているらしく、たくさんの会社があり、公衆電話もそれぞれの会社が設置している。しかし、ある会社の公衆電話だからと言って、その会社でしかかけられないわけではない。
料金表のようなものが貼ってあるので(薄くかすれていることもあるが)、かけたい先まではどこが安いか見て、最初に事業者番号のようなものを押してから、電話をかける。
このややこしさはホテルに間でついてまわる。ホテルによって、特定の電話会社と契約している場合と契約していない場合があり、前者の場合はその事業者番号を押さないで良いが、後者の場合は押さないといけない。そして、そのどちらかはたいていスペイン語で説明がある。ということで、聞くしかない。
回線も微妙で、ホテルからアメリカン航空の自動リコンファームに電話をしたところ、プッシュ信号をうまく送れるときと、送れないで切れてしまうことがいろいろあった。つながるたびに、信号を送れる回線でつながったり、そうでない回線でつながったり・・・なんて事はあるんでしょうか。
日本人は観光で3ヶ月までなら不要。
アルゼンチンと同様、入国するときには入国カードを渡した後に、その一部の写しのようなものを渡される。これは出国の時に必要なので無くしてはだめ。これはとても大切なものだ、とホテルや旅行代理店でも言われた。
あと、これもアルゼンチンと同様、入国だけではなく、ホテルのチェックインでもそうだが、"martial status"というものを記入する欄がある。
Santiagoはチリの首都で、南北に長いチリのほぼ中央部に位置している。市街は人通りが日本の都市のように多く、にぎわっている。
その街からアンデス山脈が見える。
アルゼンチン・チリの旅行で、2回滞在。まず、アルゼンチンのMendozaからはじめてチリに入った2004年10月13日(水)に1泊し、翌日San Pedro de Atacamaへ。
2004年10月16日(土)に再びSan Pedro de Actacamaから戻って1泊し、今度は翌日Puerto Monttへ出発。
17:00過ぎ、Santiagoのバスターミナルに入り、バスを降りる。運転手がバスの脇から荷物を下ろし、預かり証と引き替えで次々と渡していく。私も荷物を受け取ったが、預かり証を渡した後、運転手が私に右手を差し出し、握っている鍵を見せる。ほら、ほら、と言うように。なんだかよくわからなかったら、次の荷物の作業に移ってしまった。他の人が荷物を受け取っているのを見たら、わかった。荷物を受け取った後、チップを渡している。鍵を見せていると思ったのは、鍵を持った手で、チップを要求していたのだった。ようやく意味がわかったので、私もチップを運転手に渡した。
バスターミナルの建物にはいると、Tourist Information & Changeというようなカウンターがある。公的なものではなく私的な旅行代理店のようなものらしく、地図があるか聞くとないというので、両替だけした。
Santiagoのバスターミナルは3カ所あるらしいが、1つは街の中心にあり、私が降りたバスターミナルは街の中心部から少し離れたところにもう1つのバスターミナルと隣接してある。そのため、バスターミナルを出ると、小道を挟んで隣のバスターミナルが見える。この場所からは地下鉄1本で街の中心にいけるはずなので、地下鉄の入り口を探したがわかりづらく苦労した。
ホテルを探すために、地下鉄Línea 1で街の中心部へ向かった。地下鉄はきれいでびっくり! Santa Lucia駅で降りて、地上に登るとすごい人混み。
ガイドブックでいくつかのホテルに目星をつけていたので、大通り沿いの中級ホテルLibertadorへ向かった。
LAN CHILE 351便で18:50にCalama発。飛行機の乗り込んだまでは良かったのだが、私の後から女子中学生か女子高生の集団が乗り込んできて、客室の前半を占拠した。
これがうるさいのなんの。べちゃくちゃしゃべり、立ったり座ったり、歌を歌い出したり。さらには、客室乗務員を呼び出すボタンをほうぼうで押しはじめ、"ポーン"、"ポーン"という呼び出し音が鳴りまくる。客室乗務員もあきれた様子。さらには、男性のイケメン客室乗務員が数を数え始めると、名前を呼んで叫び始めて大騒ぎ。Santiagoに着くまでそんな調子だった。
乗っている最中で、客室乗務員が来て、クレジットカードの下4桁の番号を聞かれた。何でも間違って請求をしてしまったので、取り消しをするのだという。帰国すると確かに、1回請求され、同額が払い戻されていた。
21:40にSantiago着。ターミナルの中の店はすでに閉まっていて、ホテル予約もできないかと思った。暗い中、市街の中心部でホテルを探すのも大変だな、と思ったが、閉まった旅行代理店などを見ていたら、近くでしゃべっていた中年の男が、「ホテルを探しているのか?」と声をかけてきた。男はホテル予約というカウンターまで連れていき、知っているらしい日本語を休む間もなくしゃべりまくり、ホテルを探し始めた。
その間に預けた荷物を受け取りに行く。荷物が回ってくるのを待っていると、後ろで「もしもし」という声が聞こえる。あれ、日本語?と思って、見ると日本人は誰もいない。また、しばらくすると「もしもし」と声がする。見てみると、さっきのガキの一味だと思うが、女の子が携帯電話を耳に当て、「もしもし」と一言言っては、走って逃げていく。私が反応するのをおもしろがっていたのかも。
さて、荷物を引き上げてまたホテル予約のコーナーに戻ると、"Downtown Apartments"というものを予約してくれた。1泊朝食付き、空港からの往復の送迎付きでUS$70。予約料はいらないのか聞くと、「いらない。チップを除いて。」
で、ちょっと奮発して$200を出すと、「え?これがチップ?」と言うので、$500にすると、「これではUS$1にもならないよ。まあ、いいや。」
その後、送迎のミニバスのカウンターまで案内してくれ、ミニバスに乗り込むまで送ってくれた。しかし、なんだかチップ目当てのような押しつけのサービスはあまり好きになれないと思った。
暗い中をミニバスでSantiagoへ向かう。ホテルがとれて、今日もほっとした。
AV. LIBERTADOR BERNARDO
O'HIGGINS 853
phone (02) 632 31 37
シングルUS$38(朝食付き)
2004年10月13日(水)に1泊。
ビルの中に入ったところに入り口があり、入ると小さなレセプションがある。座っている女性に英語で話しかけたところ、ベルボーイのような色黒の男性を呼んできた。英語は彼が、ということらしい。空き部屋があると言うことなので1泊申し込む。US$で払うか、チリペソで払うか聞かれたので、どちらでも良いと言うと、US$のほうがお得だと言うので、そうする。どちらにしろ翌朝に払うのだが。英語ができるのがちょっと得意なのか、どこから来たか、とか、次どこに行くのか、とかいろいろ話しかけられる。タクシーを呼ぶかと聞かれたが、明日以降のことは全然手配していないので、遠慮する。
ずいぶんとお得な値段だったのでどうかと思ったが、部屋はきれいでなかなかよかった。
まだ明るい時間なので、明日以降の手配をすべく、部屋を出た。
311 Of. 310 San Martín St.
Santiago, Chile
Telephone: (562) 247 4410
シングルUS$70(朝食付き)
2004年10月16日(土)に1泊。
建物に着くと、受付があり、上の階へ行く。名前の通り、1つ1つの部屋が独立していて、その中の1つの部屋にデスクとパソコン、椅子があり、オフィスのようになっている。そこでチェックインの手続きをし、US$70を支払う。翌日の空港までの送迎も予約してくれた。翌日は1Fの受付に鍵を渡せば良いとのこと。
部屋は複数の部屋があってきれい。ホテルというより、長期滞在用のアパートのようで、キッチンや冷蔵庫も備え付けられている。朝食は冷蔵庫の中に準備してあった。
浴室で、San Pedro de Atacamaで汚れきった靴を洗って、少しきれいにした。
Santiagoの地下鉄はLínea 1、Línea 2、Línea 5の3本ある。数字が抜けているが、まだ作っている最中のよう。
路線はとてもわかりやすく、旅行者が利用するLínea 1はSantiagoの中心の通りであるO'Higgins、Av.Providenciaの下を通っている。
フランスの協力で作った、という話があり、電車、駅の構内、自動改札用の切符などパリの地下鉄とそっくり。電車は右側通行。できたばかりのようにぴかぴかで新しい。駅の構内にはSamsungのテレビが天井からつり下げられて設置してある。
駅の構成は極めて合理的にできている。どの駅でも、地下に潜ると、通路は2つの線路を見下ろす形で直角に横切るように渡っている。通路の真ん中にキオスクのように切符売り場がある。切符売り場の近くには必ずATMがある。
通路からホームへの階段はHの字のように4つある。それらが上りと下りのホームそれぞれへの登り階段と、降りる階段となっている。そのため、ホームに降りる客とホームから登る客はぶつからないようになっている。
なお、ラッシュ時には切符売り場の周りにも売り子が立ち、彼らから直接切符を買うことができる。
料金は距離に依存しない、というと簡単でわかりやすいように思うのだが、そうではなく、時間帯によって料金が決まっている。朝夕のラッシュアワーの時間はやや高めの料金となる。
新市街から旧市街に行こうとして、夕方の6時前に地下鉄に乗ったところ、ラッシュの時間にぶつかってしまった。東京の朝の9:15くらいという混み具合で、押しくらまんじゅうとは言わないが、体が触れ合うくらい混んでいる。私が乗ろうとしたManuel Monttという駅では、すでに満員状態。ここで、日本人ならラッシュに慣れているのでスムーズに乗れるか、というとそれは甘かった。東京であれば、電車が着くと、まずドアの前を空けて、降りる人を降ろしてから乗り込む。しかし、ここでは、ドアが開くやいなや乗り込んでいる。降りる人は必死にそれをかき分けて降りている。私も最前列に立ち、ドアが開くやいなや乗り込もうとするのだが、身に付いたソフィスティケートされた習慣によって、どうしても周りの人に一拍遅れてしまい、乗れないのだ。結局、そうして5本くらい乗れず、ラッシュが緩和してからやっと乗れた。
別の時に乗った際には、いかにもむさい若い男が床に座り、日本の漫画を読んでいた。せりふなどはスペイン語のようだが、タイトルなどは日本語。地球の裏側にもオタクがいた。
乗ってはいないのだが、バスはとてもたくさん走っている。みんな黄色で、前の窓のところにたくさん行き先が書いてあり、かなり路線は複雑そうである。
黒のボディに黄色い屋根と色が決まっている。これはアルゼンチンでもチリでも共通のデザインのようである。比較的値段は安く、たくさん走っている。チップはいらない、とのこと。
Santiagoの街は、東西に旧市街と新市街に分かれている。歴史的な建物がある西側の旧市街に対して、東側の新市街はオフィスやしゃれたレストランがあって現代的な印象。Av. Providenciaという通りが中心となっていて、Providencia地区と呼ばれる。
街を歩いていると、ビルの間から雪をかぶったアンデス山脈が見えたりする。
地下鉄の駅Manuel MonttとPedro de Valvidia駅の間にある。Santiagoに着いた10月13日に行ったところ、17:30までで閉まっていたので、10月14日の朝に再び行った。
通常の小さな観光案内所と違って、1つの立派な建物なので、最初は見過ごしてしまった。
入るとカウンターが並んでおり、中年の女性のところに行った。Santiagoの地図をもらい、いくつか見所を紹介してくれた。プレコロンビア博物館は行った方が良い、と言われた。どこから来たか聞かれたので、"JAPON"だと言ったら、最後のNの発音が良くなかったらしく、下を歯の裏につけるんだよ、と教えられた。
旧市街は、O'Higgins通りが中心となっている。この通りは、新市街に行くAv. Providenciaへとつながっている。店も多く、人も多い。
モネダ宮殿と呼ばれる大統領府。
旧市街にある広場で、広場に面しては大聖堂も立っている。人が多い。
10月14日の朝、旧市街のマポーチョ川(Río Mapocho)近くにある中央市場に行った。ここは魚介類が多く、日本人にはおもしろいところ。
中には食堂もあり、日本人は必ずここでウニを食べるらしく、私の顔を見ると、みんな「ウニ!ウニ!」と声をかけてくる。店で食事をしている従業員さえも目が合うなり「ウニ!」と一言。
入り口近くで陽気な男が店に勧誘してきて、結局そこに入ってウニを食べた。広島の女性を知っているとかいろいろ上機嫌で話していたが、どう見ても酔っぱらっているようだ。
ウニを食べた後、トイレはどこか聞くと、市場の中のトイレまで案内してくれた。紙を渡されたがいらないと言うと、$100のところが$50になった。
本当は行く予定はなかったのだが、観光案内所に行ったとき、薦められたので中央市場の後で行ってみた。どんな博物館かわからなかったのだが、要は、コロンブスが来る前の文明に関する博物館らしい。いろいろな生活や土器などが展示されている。南米の文明と言っても1つではなく、いろいろなものがあったことがわかる。
修学旅行か社会科見学らしき中学生くらいの集団と一緒になって、それはにぎやかだった。旅行者からの印象でしかないようだが、チリでは先住民の文化や歴史がとても大切にされているように感じる。今住んでいる人はそれこそヨーロッパ系の人が多く、先住民の文化とは不連続になっていると思うのだが、チリという国の歴史としてのアイデンティティのようなものがあるのかもしれない。
入場料$2,000。
Plaza de Armasへ続く通りで、舗装されており、いろいろな店が並んでいる。
Santiagoについてまず気がついたのは野犬がやたらに多いこと。IguazúやMendozaでは気がつかなかったが、その後の南米の街ではどこでもそうだった。
どうして多いのか。捨てる人が多いのか、駆除しないからなのか、わからないが、とにかく道をうろうろしている犬が多い。
日本と違って狂犬病が怖いので、できるだけ近づかないように注意していたが、じゃれ合っている人もいたりする。
しかし、何で南米の街は犬が多いのでしょう。ヨーロッパでは飼っている犬は多いが、野犬は多くなかったような気がする。逆に、南米では飼っている犬というのを見なかった気がする。
Santiagoの街は、きれいです。南米の街というととてもごちゃごちゃしている印象があり、確かに人は多いが、日本並みに掃除が行き届いていて、ヨーロッパの街のようにゴミがたくさん落ちていない。これは明らかに違いがわかる。
朝、掃除をしているのを見たが、かなり徹底的にやっていて、舗装された道の街路樹の根本にある金属製の網の下までゴミを熊手で集めていた。
小さな事のように思えるが、とてもSantiagoという街に良い印象を持った。
上述の掃除も一例だが、旅行中をしてみて、Chileは南米というイメージとは裏腹に勤勉、きれい好き、と言った印象があり、結構日本に似ていると思った。
ちょうどSantiagoに滞在しているときだったと思うが、WEF(World Economic Forum)が世界の競争力ランキングというものを発表していて、その結果をテレビのニュースでも大きく報道しており、新聞でも1面を使って徒競走に見立てたイラストや解説を含めて詳しく報道していた。それだけ関心が高いようだ。ちなみにチリは22位となっていて、スペイン、ポルトガル、ベルギー、フランスと言った国よりも上である。他の南米の国も一緒に報道していたが、アルゼンチンは74位と言ったようにチリは1つ頭を抜け出している印象。
ちなみに1位はフィンランド、2位はアメリカで、日本は9位です。
Santiagoに着いた10月13日の夕食は、Providencia地区で取った。レストランが集まっている通りがあり、どこにしようか歩いていると、女性がメニューを見せて進めてくれたので、そのレストランに入った。
席まで案内されたのだが、最初何か言われてよくわからなかった。テレビを見るか聞かれていたのだった。"watch TV"ではなく、"see TV"なんて言うから、わからなかった。
そのテレビでは、南米選手権らしき試合でチリとアルゼンチンが戦っていて、みんなそれを見ている。ちなみに、翌日の新聞はその試合ばかりだった。
まず、ビールを飲み、シーバスと付け合わせにほうれん草を頼んだ。
シーバスはホイル焼きのようになっていて、上に小エビがたくさん乗っていて最高の味だった。付け合わせのほうれん草はクリーム煮のようになってパイの中に入っていて、これも良かった。
最後にコーヒーを飲んで終了。味は最高だったが、ウェイターが渡したレシートには$12,400に20%相当のチップが勝手に書き込まれていて$15,000を払うことになってしまい、ちょっとこれは頂けなかった。計算も最初間違えていたし。先住民系の顔をした男のウェイターで、愛想は良かったんですけどね。
10月14日の昼に、中央市場でウニを食べた。市場の中にある食堂の中で、酔っぱらいの客引きに案内された店に入った。
メニューを見るといろいろあるのだが、やはり名物と言うことでウニを選ぶ。日本人が多いので、醤油もあるらしく、それを説明しようとするのだが、メニューにはSalsa Verdeと書いてある。これは何かを聞いてみると、それもおいしいのだとおばさんウェイトレスが説明する。せっかくだからここでしか食べられないものにしようとそれにすると、にっこりとした。
通路を挟んだところで魚介類を解体していている。解体しながら、ちょっと味見をしたりしている。調理場から若い女性従業員がそちらに行って、ウニを選んでいる。どれにしようか、というように選び、手のひらに1つ載せて、これにしよう、と決まったらしい。それをもって調理場に戻ると、しばらくして皿に載せられたウニが出てきた。
直径20cm位の皿にウニが並べられている。それに、Salsa Verdeと半分に切られたレモンがどさっと付いてくる。Salsa Verdeというのは緑のソースという意味で、みじん切りにしたタマネギと香草を混ぜたもの。どうやって食べるのか聞くと、まずウニにレモン汁をたくさんかけ、Salsa Verdeと一緒に食べるとのこと。やってみた。おいしいか聞くので、おいしいと答えると、とてもうれしそうな顔をしていた。
ただ、レモン汁もSalsa Verdeも香りが強くて、どちらかというとウニの生臭さを消して食べるような印象。あの磯臭さが良いと思うんですけどね。何もつけずにパンと一緒に食べると(これも日本人的には変な組み合わせだが)その磯臭さがしておいしい。でも、せっかくなので、Salsa Verdeですべて食べた。
$5,160で、これにチップを上乗せして払った。
Santiagoの次は、San Pedro de Atacamaに行くつもりだったので、10月14日の朝、新市街のLAN CHILEのオフィスに行った。カウンターにはぽっちゃり系の若い女性が座っていた。San Pedro de Atacamaに行きたい旨を伝え、SantiagoからCalamaまでの往復のチケットを買った。往復で$272,242。当日の切符なので正規運賃になってしまうとのこと。その代わり、帰りの日程は変更が可能と言われた。私の日程では、San Pedro de Atacamaに2泊だったが、「普通は4〜5泊で行くのよ。」ということであった。そのため、日程を変更したいときはこの電話番号に電話をするように、といやに念を入れて説明された。でも、日本人は忙しいんだよ。
飛行機のチケットを買った後、中央市場でウニを食べ、プレコロンビア博物館を見て、タクシーを拾って国際空港(Aeropuerto Intaernacional Arturo Merino Beníez)へ向かった。タクシーの運転手は若い兄ちゃんで、車内にはロックが流れている。空港に向かう道では、DURAN DURANが流れてきた。
空港に着くと、ターミナルの前まで車を回してくれた。メーターは$8,870だったが、$9,870取られた。あれ?と思ったので、聞いてみると、何かスペイン語で言っている。しょうがないなあ、というように、レシートをくれて、ほら、この値段だろ、と言う風に言っているが、やっぱり$8,870と書いてある。勘違いなのか、高速料金かわからなかったが、いずれにしても大体の相場から外れてはいないので、いいことにした。車を降りると、運転手は"Bon Viaje!"と声をかけてくれた。これは「良いご旅行を!」と言った意味のスペイン語で、この旅行中、何回も言われたフレーズ。
タクシーを降り、空港でCalama経由でSan Pedro de Atacamaへ向かった。
ホテルの部屋で朝食を食べ、荷物をまとめて部屋を出る。1Fの受付で鍵を渡し、建物の前で送迎を待った、
時間を過ぎて、送迎のミニバスが来て、空港へ向かう。
Santiago空港で降り、出発ターミナルに進むと、ミニバスに同乗していた若い男性が、便はどこかわかるか声をかけてくれた。チリの人はとても親切だと改めて思った。
私の便はLAN CHILE 271便。Puerto MonttへSantiagoを10:00に出発した。
San Pedro de Atacamaは、砂漠となっているチリ北部に位置し、単にSan Pedroとも呼ばれるとても小さな村だが、Atacama砂漠を観光する拠点になっていて、多くの観光客が訪れる。たどり着くための交通機関はバスか車だけで、砂漠の中を走るとぽつんとそこだけ緑が広がっている。
実は観光だけでなく、歴史的にも古くから人が住んでいたところだそうだ。
アルゼンチン・チリの旅行で、2004年10月14日(木)にSantiagoからCalamaまで飛行機で行って車でSan Pedro de Atacamaに到着。2泊し、月の谷(Valle de la Luna)、タティオ間欠泉(Geisers del Tatio)のツアーに参加した。10月16日(土)に再びバスでCalamaへ向かい、そこから飛行機でSantiagoへ出発した。
(参考)San Pedro de AtacamaのWebサイト
2004年10月14日(木)にSantiagoからSan Pedro de Atacamaへ向かった。
タクシーでSantiagoの空港に着き、荷物は持ち込みでチェックインする。Santiagoの空港は国内線と国際線の両方が1つになっていて、とてもきれいな空港。
午前にチケットを買った私の便は、LAN CHILEの354便で、Santiago14:20発、Calama17:25着。往復で$272,242。途中にチリ北部の都市Antofagastaを経由する。San Pedro de Atacamaへ行くには、さらにCalamaからバスで行かなければならない。スケジュールを有効に使うためには、この日のうちにSan Pedro de Atacamaまで行くことが目標。
LAN CHILEは初めてだが、チリの国旗の色である紺と赤でインテリアや客室乗務員のユニフォームも統一されており、落ち着いた雰囲気でよい。私の座席は窓側だったのだが、通路側の2席には女性達が乗ってきた。童顔?なので、最初は高校生くらいなのだろうと思っていたが、結婚指輪もしていて、うすく白く濁った酒のようなものも飲んでいたので、もっと年齢が上だったようだ。
その女性達はにぎやかで、ずーっとしゃべっていた。その二人だけというわけではなく、どうやら私のいる側の席を5列くらい占拠した集団で、私はその集団の端にまぎれこんではまってしまったような形。飛行機が中継地のAntofagastaで着陸しているときは、みんなで集合写真を撮りだし、私も入れ、と言われて入ってしまった。Japonésと写真を撮った、とかいって盛り上がっていた。さらに一人の年輩の女性が楽しい?らしい話をはじめ、私もところどころで、Yesと相づちを打つように指示されて、また盛り上がっていた。このときもそうだが、チリの人達は、とても人なつっこい印象を持った。
Santiagoを出発してしばらくすると、窓から見える風景は茶色の殺風景なものとなり、ひたすら荒涼とした砂漠が続く。チリの北部はほとんど砂漠となっているが、この地域の豊かな鉱物資源がチリの経済を支えているのだという。
飛行機はCalama行きなのだが、途中でAntofagastaという街を経由する。砂漠が海の上に張り出した台地状のところにAntofagastaの空港があり、そこに着陸して乗客の一部が降りていく。滑走路の横には戦闘機が並んでいるのも見えた。
Antofagastaを離陸して20分くらいして(となりの女性はスペイン語アナウンスの時間と英語アナウンスの時間が違う、とか言っていた)、飛行機は最終目的地のCalamaの空港(Aeropuerto El Loa)に着陸する。となりの女性は「バイバイ」と言って降りていき、私も飛行機を降りて空港の建物に向かう。
当初の予定では、空港からCalamaの市街の中心部までタクシーで行き、そこからSan Pedro行のバスに乗るつもりだった。しかし、空港の荷物受け取りを通り過ぎると、テンガロンハットをかぶってひげを生やした男がSan Pedroへ行くのか、と声をかけてきた。そうだというと、ここから直接運んでやるという。いくらか聞くと$6,000、所要時間90分程度とのこと。そんなに高くない。ちょっと警戒したが、Calamaを経由せず直接San Pedroに行けるのは時間の節約になって良いし、車も10人乗りくらいのきちんとしたものだったので、それを利用することにした。$6,000払うと、TRANSFER "LICANCABUR"
と名前の入ったチケットをくれた。書いてある電話番号は携帯だから、帰りには電話しろ、と言われた。車で待っていろ、と言われたので、荷物を積み込んでもらい、待った。すでに何名か乗っていたが、どうやら予約してある他の客もいるらしくそれを待っているらしい。私は横の入り口付近に座り、後ろには老夫婦が座った。
周りを見渡すと、緑のない茶色の殺風景なからからに乾燥した風景。こんなところで暮らしていると、毎日こんな風景なんだろうか、と思った。
乗客が揃うと、車は出発。砂漠の中の道を走る。労働者の宿舎だろうか、コンテナのような建物も見える。
しばらくするとCalamaの市街に入る。土か煉瓦でできた塀で囲まれた平屋の質素な建物が続いている。途中で交通事故?らしきものがあって、塀に車が突っ込んで穴があいていた。
市街を抜けるとまた何もない砂漠の中を道路が走っていく。しかし、しばらく走ると突然車は車道の右側に寄り、停車してしまった。なんだかわからないのだが、運転手も携帯電話で電話をして、何もせずに待っている。乗客が何か聞いていたが、しかたない、というような感じ。
どうやら、予約をしていたが乗り遅れた?らしい客を待っていたらしく、結構待った後、後ろから車が来て、中年の男性一人を降ろした。その男性の荷物をこちらの車に載せた。男性も一番後ろの席に乗り込んだが、なんだか尊大な感じのする男で、待った我々に一言もなく当然と言った雰囲気。車は再び出発。すると、すぐにその男性が大きな声で荷物が足りない、止まりなさい、と大声を出し始めた。他の乗客が運転手に声をかけて停車。チェックしたが全部あった様子。やれやれ。
他の乗客も私と目が合うと、しょうがないなあ、のような苦笑い。
結構時間を食ってしまったが、車は再び走り出すと快調に飛ばしていく。しかし、車内の他の乗客を見ているうちに、私は不安になってきた。他の乗客は、リュックサックを持ったり、ウインドブレーカーのようなものを来たり、トレッキングシューズのようなものを履いたり、ばっちり装備を固めているのだ。それに対して私は薄着で街歩きの普通の靴。こんな格好で行っても大丈夫なのだろうか。もっと準備してくればよかったかなあ、と思った。
車は平野から陸のようなところにさしかかり、そこを登り切ると徐々に降りていく。ちょうどそのころに日が沈み、夕日が辺り一面を赤に染めていく。下っていく先に砂漠の中にそこにだけ緑が広がる場所が見える。どうやらそこがSan Pedroらしい。
暗い中、San Pedroに入る。道は舗装されておらず、狭い。運転手は、それぞれの乗客にホテルの名前を聞いていく。どうやら小さな村なので、各ホテルまで送ってくれるようだ。私の順になったが、何にも手配していないので、"I haven't decided yet."と答えた。そうすると、決まってないの?しょうがないなあ、という感じで、まず最初に旅行代理店らしきところまで連れて行ってくれ、そこのおばちゃんに何かを説明すると、また戻ってくるから、と言って他の乗客を降ろしに行ってしまった。
そこは旅行代理店と言っても奥に机が1つあるだけで、そのほかには数台のPCがあって、インターネットカフェになっている。おばちゃんに希望を言うと、Hotel Santosというところを紹介してくれた。2ブロックしか離れていないところにあると言う。
先ほどの運転手が戻ってきて、Hotel Santosまで送ってくれた。部屋まで荷物を運んでくれた。部屋はベッドが3つもある広い部屋で、「ベッドが3つもあるぞ。広くて良かったなあ。」と喜んでくれた。いろいろお世話になったので、チップを渡そうと思い、コインを持った手を出したところ、握手と勘違いされて固く握手をされてしまった。そして、おっという感じでコインに気がつき、笑顔で受け取ってくれた。やはり、チップの仕組みはよくわからん。
シングル$20,000(朝食なし)
旅行代理店で紹介された宿。真っ暗な中でSan Pedroに着いたので、宿が決まってほっとした。
平屋の建物で、入り口を入ると受付のようなところがあり、その横の扉を出ると、屋外に面した入り口が並んでいる。その中の1室となった。
部屋に入って、ジーンズの1つを洗濯した。
受付に座っていた先住民系の若い女性は全く英語が通じず。受付の横の、部屋に向かう扉は受付側から鍵が閉められてしまい、いったん部屋に入ると、自分で建物の外に出ることができない。鍵はないのか、などと身振り手振りだけで聞いたが、ない、とのこと。
これまた身振り手振りでレストランはどこらあたりにあるか聞くと、大体の方角を教えてくれた。
部屋はとてもきれいだったが、なぜか蝿が何匹かいた。こんなに乾燥しているのだが。
Domingo Atienza 441
phone (56-55) 851033
E-Mail katarpe@sanpedroatacama.com
シングル$20,000(朝食なし)
Hotel Santosに2泊する予定だったのだが、1泊した朝、出かけようとすると受付の男性が部屋を変わってくれないか、と言う。自分は英語が得意ではないのだが、といいながら英語で、別のホテルだがここから近く、値段も同じで良いという。泊まった部屋はベッドが3つで無意味に広いので、構わないと答えると、新しい部屋を見てくれという。
そうして連れてこられたのがこのHostal Katarpeで、Hotel Santosの道路を挟んだ斜向かいにある。
入ったところが中庭のようになっており、それに面して独立した形で各部屋の入り口がある。部屋を見せてもらうと、Hotel Santosの泊まった部屋の半分くらいの広さしかなかったが、ベッドはダブルベッドであり、一人で泊まるにはこちらのほうが快適そう。再度部屋が変わっても良い旨を伝えると、笑顔になった。
Caracoles 195
Phone (56-55) 851939
E-Mail enkanto@sanpedroatacama.com
San Pedroに到着した2004年10月14日(木)の晩、ホテルも決まったので夕食を食べに「目抜き通り」のCaracolesを歩いた。いろいろなレストランが呼び込みをしているのだが、「いらっしゃいませ、おいしいものがありますよ。」と日本語で声をかけられた。コンニチハとか、片言の日本語で話しかけられることは良くあるが、妙に文章として整った日本語なので入ってみた店がこのEnkantoという店。
ウェイターの若い男性は、関西のイワセ?岩出?というところに留学して住んでいたことがあるそうだ。チリのビールを注文し、少し話をする。
店は居酒屋みたいでしょう、と言うが、なかなか雰囲気が良い。San Pedroに日本人はそれほど多くは来ないらしい。日本人は忙しく働くけど、チリ人はみんなリラックスだよ、と笑っていた。
食事はメニューを頼んだのだが、魚も出てきて、肉も出てきて、とてもおいしかった。おすすめ。魚はチリの代表的な魚で、日本語の名前はわからないと言っていたが、たぶんCongrioという穴子のような魚だと思う。
飲み物については赤ワインも頼んで飲んだが、ピスコがおすすめだという。Calamaまで来る飛行機の中で隣の女性が白い酒を飲んでいたことを話すと、それもたぶんピスコとのこと。そこで、ピスコサワーも頼んで飲んでみた。さわやかだが結構強い酒である。
食事を終えるころになって、日本人の男性グループが横を通って、店の奥に入っていった。こんなところで日本人は珍しいので、食事を終えた後に行ってみた。
観光ですか、と軽く聞いたところ、なんと仕事だという。彼らは天文学の研究者で、アタカマ砂漠に望遠鏡を設置しに来ているとのこと。砂漠は乾燥しているので、観測には理想的な場所だと言うこと。しばらく話をしてから、ホテルに戻った。
San Pedroを発つ10月16日(土)の昼、バスに乗る前に再びEnkantoで昼食。セットで、ビールとチキンとライスを食べた。ご飯の味付けはちょっと味噌か醤油を連想させるような味付けで、これまた非常においしかった。
チリは全般的に料理がおいしいと思ったが、シーフードも含めて、塩味の加減がとても良いと思う。
10月15日(金)、朝ホテルを出て、San Pedroの街を歩いてみる。Caracoles通りに朝食をやっている店があったので、そこで目玉焼きとコーヒーの朝食を食べた。インチキスペイン語で注文したが、結構通じてウェイターにも受けていた。
10月15日(金)の昼は、夕方に出かけることもあり、Casa Piedraという店で軽くスパゲティ・ミートソースを食べた。うーん。ちょっと麺が煮込みすぎ。$3,300。「値段にチップは含まれていない。」と念を押されたので、多少色を付けて払った。
San Pedroはとても小さな街、というか村。日干し煉瓦の家が建ち並び、道路は舗装されていない。乾燥していて「砂埃のにおい」がする。観光客も含めて、同じ人に何回も会ってしまう。
観光客や、レストランや旅行代理店の従業員はヨーロッパ系の人がいるが、それ以外、San Pedroの町中で会う人はほとんど先住民系の顔立ちをしている。
観光客がいるところはにぎやかだが、いないところはとてもひっそりとしている。
一番の目抜き通り、というべきところはCaracolesという通りで、レストラン、土産物屋、旅行代理店などが並んでいる。特にレストランはこの小さな通りに集中している。
Caracolesから少し入ったところにPlaza de Armasという中央広場があり、そこには白いIglesia San Pedroという教会が面している。また、考古学博物館(Museo Arqueológico)も広場の角を入ったところにある。
広場の地下には水が勢いよく流れている水路があるようだ。周りは砂漠だが、San Pedroは水があるようで、雨も降らないのに不思議。
10月16日には何かのイベントかもしれないが、テントの下で多くの人たちが髪の毛を切ってもらっていた。
ベンチもあって、休憩するのによいが、昼間はとても日差しが強かった。
おもしろいと思ったのは、両替所ならぬ両替車が広場の横に泊まっていたこと。パラボラアンテナが着いていて、衛星で通信しているようだ。観光客の列ができていて、私も両替をした。お札のチェックは結構厳しくて、出した中の1枚のUS$20は札の上部が傷ついているので、両替を断られてしまった。
Plaza de Armasの角を入ったところにある平屋の博物館で、入場料$2,000。入ると大きな部屋に展示がなされていて、昔の生活の様子や、ミイラが展示されている。
Plaza de Armasから北には土産物屋が集中した狭い路地が伸びており、覗くのがおもしろい。店をやっているのはほとんど先住民系の人たち。値段はとても安い。
ツアーに参加するため、耳まで被る毛糸の帽子、マフラー、手袋を買った。ついでにおみやげも買った。それぞれ$2,000とか、日本の感覚から言うと、とても安い。デザインもいかにもインディオと言った色鮮やかなもの。
手袋などを買った店では、店先で商品を見ていると、麦わら帽子を被り、マントをまとった「いかにも」という感じの小学生くらいの少年が出てきた。店で買い物をして、$10,000札を出すと、なかなか釣りを持ってこない。細かい金はないか聞くので、とっさにわからなかったのでないというと、周りの店を1つ1つ走って回って両替できないかどうか交渉している様子。なんだかいじらしくなってしまった。
手持ちの細かいコインがあったのでそれを渡すと、また店の奥に入って出てこない。ずっと待っていると再び小さな両手を合わせて戻ってきて、手を差し出すと両手いっぱいのコインを返金された。一生懸命数えていたのだろう。とても確認できるようなコインの数ではなかったが、なんとなく足りないような気がした(後で数えたら確かに足りなかった)が、なんだかかわいそう、というか笑い出しそうになってしまい、そのお釣りを頂き、無理矢理財布にコインをねじ込んだ。
月の谷はアタカマ砂漠の人気ツアーで、砂漠の日没を見ることができる。
San Pedroからアタカマ砂漠の観光をするためには、旅行代理店の催すツアーに参加しなければならない。値段はカルテルをしているかのように変わらないのだが、スペイン語だけのツアーがあったり、時間も微妙に違ったりするので、いろいろ見比べてみる。
結局CaracolesにあるCOSMO ANDINO EXPEDICIONESというところに入った。そこで、当日10月15日の月の谷(Valle de la Luna)のツアーと、翌日10月16日のタティオ間欠泉(Geisers del Tatio)のツアーに申し込んだ。2つのツアーを合わせて$20,000だったので、カードで支払った。月の谷のツアーは砂漠なので水を準備すること、日焼け止めを塗ること、タティオ間欠泉のツアーは早朝で-10度まで気温が下がるので暖かいジャケットを持ってくるように言われた。ジャケットがないので、買わないとなあ、と言ったら、用意できるよ、と言ってくれたので頼んだ。翌日のタティオ間欠泉のツアーは、早朝なので各ホテルに迎えに来るとのことで、泊まっているホテルを聞かれたが、とっさに新しいホテルの名前が出なかったので、後で伝えると答えた。
月の谷のツアーは15:30に店の前から出発するとのことだったので、昼食を食べに行った。
昼食後ホテルで休憩し、水も追加で買って、旅行代理店の前に集合。翌日のタティオ間欠泉のツアーのために、宿泊しているホテル名も伝えた。
ミニバスで、運転手の他に、助手席にガイドが乗り込む。他にも客が乗り込み、車はいっぱいになる。ガイドが、説明はスペイン語が良いか、英語がよいか聞くが、今回はスペイン語希望者ゼロ。全員英語を希望。
車はSan Pedroからしばらくは道路を走っていくが、途中で舗装された道を外れ、砂漠を走る。まずは、見晴らしの良い崖の上に出る。車を降りて、しばらく眺望を楽しむ。結構風が吹いて来た。
続いて車で移動し、今度は火星の谷(Valle de la Muerte)、あるいは死の谷と呼ばれる場所を歩く。一方向に歩いていくのだが、間違えて戻ると死ぬ、とガイドが冗談で脅かす。山の間の坂道を降りていくのだが、風がますます強くなってきた。道がちょうど風の通り道となっているせいもあり、強い向かい風で正面を向くことができない。横を向いて、帽子を押さえて降りていくのだが、耳にたくさん砂が入ってきて溜まる。ガイドにいつもこんなに風が強いのか聞くと、そんなことはないと言う。靴は一瞬にして砂だらけになって、白くなってしまった。
また車で移動し、今度は国立公園の中に入る。移動中、隣に座ったアメリカ人らしき女性から、私のジーンズをつついて、「You're so sensitive.」と言われた。他のツアー客は、タンクトップと半ズボン、と言ったかなりラフな格好をしている。日焼けを避けたいからね、と答えた。が、正確に言うと、ズボンが暑くてもこれしかないのだ。ただ、日差しが相当強く、日焼け止めを塗る必要があるので、その意味でも悪くはない選択。日本のように湿度が高いわけでもないので、暑くても服がべたべたになるようなことはない。砂でざらざらになるが。でも、後でこの格好で良かったことがわかった。
国立公園に入る前にガイドが入場料金を全員から$1,500ずつ集め、まとめて入り口で支払った。
今度は狭い小道を歩いていく。周りの奇妙の形をした岩は、表面が砂で茶色いが、削ると中が塩であることがわかる。洞窟のように空洞になったところもある。途中でガイドが全員を止め、静かにして耳を澄ませるように言う。静かに聞いていると、パキッ、ピシッ、という音が聞こえてくる。これは寒暖の差によって、岩塩にひびが入って行く音なのだそうだ。
道を歩き終わるとトイレの建物があり、入りたい人が順番に入る。待っていると、ツアーで一緒の他の若い女性から、写真を撮ってくれ、と言われた。カメラを受け取ると、「使い方は、ああ、わかるわよね。」と言われた。日本人というとやはりカメラなんでしょうか。
最後は、夕日を見るために移動する。車を降りたところは、大きな砂丘があるところ。砂丘の麓にたくさんツアーの車が集まっている。この砂丘に登り、日没を見るのがこのツアーの終わりになる。砂丘は向かって左側に上る坂があり、そこ以外のところは危険なので上り下りしては行けない、とガイドから注意を受ける。
日没を見る場所は、坂を上って左に行くところ、右に行くところがあるとのことで、右に行くところは狭いと言われたが、みんなが行くので右に行く。砂丘の尾根の細い道を歩いていく。突き当たりに階段があり、そこを登ると見晴らしがよい高台になっている。場所を確保し、座り込む。周りには手段の女子中学生?らしき集団がたくさんいて、叫んだり写真を撮ったり非常にやかましい。風はものすごく強く、気温が下がってきて寒い。ジーンズを履いていて良かったが、さらにセーターを出して着込む。それでも寒い。周りに人に頼まれて写真を撮ったりする。
見ている間にだんだん日が沈んでいく。谷に映る影がどんどん伸びていき、砂漠がピンク色に染まっていく。太陽が沈み始めたところで、周りの人はどんどん戻りだした。まだ日が沈んでいないのに、寒いからかな、と思ったが、よく考えたら日が沈みきると暗くなってしまうことに気がついた。そのため、集団に着いて私も戻り始めた。国立公園の係員らしき人が砂丘の尾根の上に何人かいて、人を誘導している。手には懐中電灯を持っていた。暗くなってしまった場合に備えているのだろう。
私は元来た道を通って戻ったが、ガイドの注意を守らずに砂丘の途中から降りた人がいて、ガイドに注意されていた。靴が砂だらけなので、焼け石に水だが砂を払って、車に乗り込む。すっかり体が冷え切って、San Pedroに戻った。
San Pedroに戻ったのは20時頃で、夕食の時間でもあったが、翌日朝が早いことと、疲れていたことから、ホテルに戻り、目覚ましをかけて寝てしまった。
タティオ間欠泉は、月の谷と並んでアタカマ砂漠観光のハイライト。朝早いツアーしかないので、参加するか迷ったが、結果的には参加してとても良かった。月の谷より絶対おすすめ。
月の谷に行った翌日10月16日(土)、セットした目覚ましで午前3時に起きる。眠い中、荷造りをし、トイレで用を足す。今回のツアーはトイレがないのだ。
迎えの車は4時に来るとのことだったので、4時前に部屋を出る。外は暗く、空には満点の星が見える。ホテルの入り口に居たガードマンに鍵を渡し、荷物を持って、ホテルの前で車を待つ。小さくのんびりした村なのに、寝ずの番をするガードマンが必要というのも不思議な気がする。
何回か車が通ったが、違う車。4時を過ぎてしばらく経った頃に、ようやく車が来て、運転手が降りて私の名前を呼ぶ。運転していたのは、昨日の月の谷のガイドだった。チェックアウトしてしまっているので、大きな荷物を車に載せてもらう。前に乗りたいか?と聞かれ、答える前に助手席に座ることになった。私が乗ったのは一番最後のようで、空いているのはそこしかなかった。お願いしておいた「ジャケット」を渡されたが、ニットのチョッキのようなもので、予想していたものとは違った。手袋やマフラーを買っておいて良かったと思った。
今回は運転手とガイドは兼任の様子。村を出て、街灯のない暗い道を走っていく。暗くて周りの様子はわからないが、やや登坂になっているようだ。道はそもそも舗装されていないのだが、車はしばしば道を外れて砂漠を走る。ショートカットしているようだ。
間欠泉はSan Pedroから結構距離があるようで、2時間くらい走っただろうか。ようやく着いたらしく暗い中に白い煙が見える。車もお湯が流れている川を渡ったりしている。
山の中の盆地になったようなところで車は止まる。毛糸の耳まで被る帽子を被り、「ジャケット」を身につけ、マフラーをして、手袋をして、完全武装して外に出る。確かに寒い。
ガイドから説明を受ける。まず、標高が4,000mを超えているので、走ったりせず、何をするにもゆっくりと動くように。下は凍っているが、氷が割れてお湯の中に落ちたりする場合があるので、カメラを持ちながら歩いて落ちないように注意すること。ここで、私の方を向いて、「特に日本人は注意すること。」 はいはい、気をつけます。
近くの1つの間欠泉に行き、説明を続ける。いったん噴出した後はしばらく噴出しないので近づいても大丈夫だが、あまり近づきすぎないように、とのこと。この後、朝食の準備が整うまで自由に歩いて散策して良い、とのこと。また、トイレはないが、後ろにある斜面は大きな岩がいくつもあり、"Natural Toilet"だとのこと。
暗い中、いくつもある間欠泉を見るが、ものによって大きさもサイクルも違う。噴出の勢いによってか、噴出口の周りがフジツボのような形の鍾乳洞のように盛り上がっているものもある。止まっているときは地面に穴が空いているだけなのだが、しばらくするとごぼっ、ごぼっとお湯が沸いてきて、そのうちに身長より高くお湯を吹き上げるようになる。噴出口によっては、煉瓦らしき壁で囲われてそこから見学するようになっている。
私もせっかくなので、"Natural Toilet"に行って、大きなほうは遠慮したが、日本男児として大きな岩にマーキングしてなわばりを主張してきた。明るい中で斜面を見ていると、たくさんの"跡"があり、トイレットペーパーが植物にたくさん引っかかってひらひらしている。これならトイレの場所を作った方が良いのに、とも思う。歩くときは足下に要注意だ。
寒い中、見学しているうちに日が昇ってきていて、明るくなっていく。気温も少しずつ上昇していく。朝日をバックに間欠泉が吹き上げる様子も美しいものがある。
朝食の準備が整ったので、車に戻る。車の前に広げた簡易テーブルを前に、コーヒーとサンドイッチを食べる。コカの葉もあったが試さなかった。
朝食後、ガイドがまた説明をする。間欠泉になるのは、噴出口の下の地中に空洞があるからだそうで、その空洞の大きさの違いによって、噴出のサイクルが異なってくるそうだ。また、ミネラルを多く含むので、かつては鉱物資源を採取することも試みられたが、析出物が多くてパイプがすぐに詰まってしまうために断念したとのこと。今でも機械が放置されている。また、間欠泉を見るツアーがみんな早朝となっているのは、日の出の中で見るのが映えるだけではなく、日の出頃の気温が低い状態でないと、間欠泉が高く吹き上がらないからだそうだ。
食事を終え、車で坂道を降りてしばらく走ると、また少し開けたところに出る。大きな間欠泉が2カ所ほどあり、それ以外に小さなプールのようなところがあり、みんな水着で温泉につかっている。
温泉は大変興味があったが、気温が低い割にあまり水温が高くないので、寒そうだったことや、水着、タオルを持っていなかったので遠慮した。入っていた人は1/3くらい。着替所などはないので、入る人は最初から服の下に水着を着ていたよう。
ここにある間欠泉は、かなり大きく、噴出口の周りに小さな池のようなものを作っている。その周りは煉瓦で囲まれており、絶対その中に入らないように注意を受けた。フランス人、チリ人がここでお湯の中に落ちて命を落としており、特にチリ人は1ヶ月ほど前に死んだという。
噴出口から沸き出したお湯はプールに流れ込んでいるのだが、その流れ込む川にはゲンゴロウのような水生昆虫が居るのが見えた。
間欠泉を見た跡は、車で再び走り、帰途につく。しばらくは走ると車が止まった。Vicuñaという動物の群れが居た。車から降りて写真を撮る。距離をとっている限り、逃げたりしないそうだ。「チリ人のように」1匹のオスがたくさんのメスを引き連れているのだそうだ。
続いて車は小さな村で休憩する。季節によって人がいないそうだが、有料のトイレがあり、用を足す。バーベキューやEnpanadasのような軽食や飲みものも売っていて、食べている人もいる。村の中を歩いたが人気はない。歩いていくと犬がものすごい勢いで吠えて威嚇したが距離を保ったままにらみ合いを続けているとじきに寝てしまった。犬の横を通り過ぎて行くと、村のはずれに小さな教会がある。周りを見ると、春のせいか、花が咲いている。
車で村を出ると、今度は飼われているもののようだがラマが大量に居る。これまた写真を撮る。
さらに走ると池があり、フラミンゴが居て、また写真を撮る。フラミンゴは遠くにいるものが小さく見えるだけだが、警戒心が強く、近づくと逃げてしまうそうだ。また、この場所はフラミンゴが常時いる場所ではなく、移動する際に途中で一時的に休む場所なのだそうだ。
さらに車で降りていくと、川をせき止めた小さな池にカモがいる。ガイドによると、つがいで暮らし、片方が死ぬと、残された方もすぐに死んでしまうそう。本当かな。
さらにSan Pedroに近づいてくると、また動物が見えたり、棒のようなサボテンが生えているのが見える。また、San Pedroがある平野を見下ろす景色がすばらしく、助手席に座れて良かったと思った。
出発したSan Pedroの旅行代理店前まで着いて、解散。間欠泉はもちろんのこと、動物がたくさん見られておもしろかった。普段でもこんなに動物に遭遇したりするものなのだろうか。
2004年10月16日(土)午前中にタティオ間欠泉のツアーを終え、降りた旅行代理店でCalamaに行くバスに乗りたいというと、時間を調べ、TUR BUSのオフィスの場所を教えてくれた。その場所に行って、14:15発のCalamaまでのバスのチケットを買う。席は指定だが、選ぶことができたので、一番前にした。値段は$1,200でかなり安いと思った。
昼食をとってから再びTUR BUSのオフィスの前で列に並んでバスを待つ。他の会社のバスが何台か通り過ぎたが、そのうち1台のバスは、運転手がスパイダーマンの格好をしていた。バスが通り過ぎて、列の前に待っていた人と「今の見た?」というような表情で互いに顔を見合わせる。
しばらくするとバスが来て、荷物を預け、預かり証を受け取り、バスに乗り込んだ。
Calamaはチリ北部の砂漠の中に位置する都市で、チュキカマタ銅山を擁している鉱山の街である。オアシスになっているようで、砂漠の中でここだけ緑がある。といっても非常に乾燥した風景ですが。
観光客にとってCalamaはSan Pedro de Atacamaへ行くための中継地点として重要で、私もそのために短時間だけ経由して見学。
アルゼンチン・チリの旅行で、2004年10月16日(土)にSan Pedro de Atacamaからバスで到着し、2時間ほど滞在し、Santiagoに飛行機で発った。
2004年10月16日(土)、San Pedro de Atacamaで昼食をすませてから14:15発のバスに乗った。運転席と反対側の一番前の席なので、前がとてもよく見える。
バスには運転手だけでなく、もう一人係員が乗車していて、出発してすぐにチケットの確認に来た。バスはとてもきれいで乗り心地がよい。
San Pedro de Atacamaを出ると、丘を越え、来るときも通った砂漠の中の一直線の道が続く。窓の外に竜巻のようなものが見えたが、気のせいだっただろうか?
バスはCalamaの市街に入っていく。入ってすぐに道の横にバスが寄って、停車して乗客がいくらか降りた。私も着いたと思って降り、荷物を受け取ろうと受取証を係員に渡すと、ターミナルまでじゃないのか?と言われてまたバスに戻った。これだからバスは難しい。行き先が最終地点なら良いんですけど。
バスは再び街を走り、今度はしっかりとしたバスターミナルに入った。ここでバスを降り、荷物を受け取った。バスターミナルの建物の中に入り、トイレを住ませ、地図などを探したが何にもない。仕方ないので、建物を出て、適当に歩き始めた。
持っていたガイドブックでは、Calamaにはバスターミナルなどなく、街の中心部に止まるとのことだったが、そんなことないようだ。歩いていても全然街の中心部に出ない。街の北側に居ると思ったので、南に行けば良いはずと思った。方角を確認しようと思い、晴れていたので太陽の方角を見る。通常北半球であれば、太陽は東から上り、南を通って西に沈む。真南に来るのは正午頃で、向かって左から右に動いていくから時間を見て考えればよい。しかし、ここは南半球。どうなるんだろう?太陽は、東から上り、北を通って、西に沈む?今は正午を大分過ぎた午後だから・・・。よくわからなくなってきたので、通ってきた男性にインチキスペイン語で街の中心部の広場Plaza 23 de Marzoはどこか聞いた。すると、このまま10分くらい歩き続ければ良いと言うことが身振り手振りで判明した。良かった。ちなみに、衛星放送のアンテナがあれば太陽がわからなくても方角は一発でわかるのだが、今回は見あたらなかった。
10分くらい歩くと、人通りが多くなってきて街の中心部、Plaza 23 de Marzoに着いた。
Calamaの街はとても小さく、鉄道駅からPlaza 23 de MarzoまでのRamírez(ラミレス)通りが中心街。
Plaza 23 de Marzoにはカテドラルが面している。広場には人が多く、ベンチにもたくさん座っている。ここから続くRamírez通りは歩行者天国になっていて、店が両脇に並んでいる。
ぶらぶらと歩いていると、若い女性が"Hello!"と言って、通り過ぎていった。良い街じゃないですか。
またしばらく歩いていると、今度は自転車に乗った初老の男性がわざわざ止まり、どこかを探しているのか?と言ってくれた。「歩いて見て回っているだけ、ありがとう。」と答えると自転車で去っていった。良い街じゃないですか。
駅の近くまで歩いていくと、おばあちゃんの二人ずれが"Hello!"と言ってきたので、挨拶を返すと、「わあ、返事してもらった!」のように喜んでいた。この短時間で、Calamaの好感度急上昇。
大体街の中心部を見たので、タクシーで空港に行くことにした。先ほどから例の黒と黄色のツートンカラーの車をたくさん見ていたので、簡単に拾えるかと思ったら、ようやく気がついた。タクシーは黒と黄色のツートンカラーの車なのだが、Colectivoという車も同じデザインなのだ。ColectivoというのはBuenos Airesでは普通のバスだったりするのだが、チリでは小さなバスか共用のタクシーとでも言うもので、タクシーと同じ車で行き先や経由地が書いてあり、それをどこでも止めて乗り込む。当然3〜4人くらいしか乗れないのだが、結構みんな乗り降りしている。
行き先など書いていないのがタクシー、ということだがほとんどない。どこでも、暇そうに止まっているタクシーというのは柄が悪く、あまり気が乗らなかったが、時間がないので、鉄道駅前のタクシー乗り場から乗ることにした。
タクシー乗り場に近づくと男が道に座っており、それがタクシーの運転手だった。空港までと告げると、荷物をトランクに載せるかというので、それは断り、後ろに乗り込んだ。
出発してすぐに、タクシーメーターが動いていないことに気がついた。動いていない、というか電源も入っていない。動かすように言おうと思ったが、ふと、このままだとどうなるんだろう、と思った。良くぼったくりタクシーの話はあるが、実は私はまだあったことがない。運転手は中肉中背のめがねをかけた男性だし、あまり危険そうにも見えない。また、空港までの料金は定額になっている都市もあるので、動かさないからといってぼったくりとも限らない。
さて。空港に着いてターミナル前でタクシーは止まる。すると、運転手が急に目が据わった顔になって、$5,000を請求した。私がタクシーのメーターを指さして動いていないことを示すと、急に両手を上げてびっくりしたふりをした。って、そうならその前に請求するなよ、という感じ。やっぱりぼったくりだった、といってもプチぼったくりぐらいだが。
そのまま払わないで、discountを要求したら、簡単に$4,000になった。調子に乗って、$3,000を主張したら、首を振って、キーに手をやり車を出そうとした。その手があるのか。砂漠の中でどこかに連れて行かれてはいやなので、$4,000で手を打った。実際には$2,000札を2枚持っていたものの、$1,000札はなかったので、しかたなかったところもあるが。
経験して思ったが、荷物をトランクに載せられてしまうと、運転手の意志によっては返してもらえないので、ぼったくりにあったとき抵抗できないと思った。逆に、車中に荷物を持っていれば、今回は不意をつかれたが、さっさと降りてしまうと良いのかもしれない。勉強になった。ちなみに、Calama市内から空港までの通常の料金は、ガイドブックによるとUS$5程度、つまり$3,000程度であり、$1,000くらい多く払ったことになる。\200くらいということだが。
空港の建物に入り、チェックインする。さらに、翌日10月17日(日)のために、SantiagoからPuerto Monttまでの飛行機のチケットも買った。
空港で飛行機を待っていると、San Pedro de Atacamaに行ったときに利用したミニバスの運転手が居た。目が合うと、やあ、というように挨拶をしてくれた。こちらからもさようなら、と挨拶をした。
短時間でいろいろな事があったCalama滞在だった。
飛行機は18:50発のLAN CHILEの351便。Antofagasta経由でSantiagoへ向かって出発した。
砂漠ばかりのチリ北部と一転して、チリの南部は森と湖の世界。Puerto Monttはチリにある13の州の10番目の州Los Lagos州の州都となっている(州には北から順番に番号がついているらしい)。
小さな美しい港町という印象で、1泊しかしなかったが、会った人々も気持ちの良い人ばかりだった。
アルゼンチン・チリの旅行で、2004年10月17日(日)にSantiagoから飛行機で到着して1泊し、翌日バス&船でアルゼンチンのSan Carlos de Barilocheへ出発した。
(参考)Puerto MonttのWebサイト
2004年10月17日(日)にSantiago空港からLAN CHILE271便でPuerto Monttへ向かった。チケットは前日にCalamaで買ったもので、$118571だった。飛行機は10:00発。出発後、うとうとしていると着いてしまった。飛行機の中から外を見ると、前日までいた砂漠の世界とは異なり、緑が広がる世界。雨が降り、いかにも寒そうだった。
飛行機を降りると、Transfer ETMというミニバスのカウンターがあり、セントロまで$3000ということだったので、それを利用することにした。
ミニバスから外を見ると、やはり寒々とした雨。緑が広がる中に、黄色い花のようなものがたくさん咲いている。
セントロの広場でミニバスを降りると、雨もあがってきた。
Av. Costanera Diego Portales 450
Puerto Montt, Chile
phone (065)432 900
fax (065)437 699
電子メール granhotel@surnet.cl
シングルUS$79.01
セントロの広場から歩いて見つけたホテル。とても気持ちの良いホテルだった。お湯以外は。
山小屋風の建物で、入り口も階段を上ったところに回転ドアがあり、ちょっと敷居が高い雰囲気。中に入り、フロントに向かうと、若い女性が一人座っていた。1泊したいと言うと、何種類か値段の違う部屋があるとのこと。違いはどこか聞くと、広さなどが違うようだが、1泊だけでは大して変わらないように思ったので一番安いものにした。
チェックインの手続きをしていて、パスポートを出すと、入国カードの切れ端も求められた。「これはとても大切なものなのよ。」と言われた。フロントの左には机の上にナプキンが敷かれた高級そうなレストランが見える。名物料理のクラントがそこで食べられる、と言われたが、飛行機の中で昼食は済ませてしまったので、夕食ではないのか聞くと、「そう、昼食だけなの。」とのこと。ホテル内のバーのウェルカムドリンクの券を渡され、ピスコというのがおすすめだという。何かわからないことがあったら、何でも聞いてください、と言われ、気持ちよくチェックインは終了した。
部屋は少し高さがある1階で、窓からは通りが見える。部屋にはいると、早速帰りのアメリカン航空の便のリコンファームに挑戦した。しかし、電話の使い方がわからない。チリの電話はいくつも会社があるので、まず会社番号を押してから電話番号を押す。しかし、ホテルの場合は、特定の電話会社と契約している場合があり、その場合はいきなり電話番号を押せばよい。しかし、そのどちらかわからない。電話帳らしきものを見るといろいろ書いてあるが、スペイン語でわからない。
そこで、フロントに戻り、先ほどの女性に聞くと、紙に電話のかけ方を教えてくれた。最初に電話会社らしき番号を押すようなので、これは何かと聞いたが、「うーん。あまり気にしなくて良いのよ。」
部屋に戻り、再びアメリカン航空のリコンファームの電話番号(米国)に電話をする。すると、なんとこれが音声の自動認識。自分の名前、便名、月日を言うのだが、これがうまくいかない。まず、リコンファームのメニューに行くために番号を押して選択しないと行けないのだが、これが無反応で、しばらくすると電話が切れてしまう。何回か試すと、どうやらつながったときの回線によって、プッシュ信号を送れたり、送れなかったりするようだ。
さらに、うまいいく回線になっても、私の英語の発音がうまく認識されない。twenty-firstとtwenty-fourとか。普通、こういう自動応答の場合、うまくいかないと人間が対応する電話につながるものだが、アメリカン航空の場合、「Webでやってみろ」というようなアナウンスが流れて、切れてしまう。
何回か四苦八苦して、ようやく終了した。いつもは英国航空で、リコンファームがいらないので、こんなに面倒なことはないのだが。
ホテルが決まったので、午後、Puerto Monttの観光をしようと思い、街に出た。
ガイドブックにのっていたTourist Informationの建物はもう使われておらず、広場の端に建物があった。中にはいると、学生のような若いめがねをかけた女性が対応してくれ、Puerto Monttの地図をもらった。翌日にBarilocheに行きたかったので、日曜日でも開いている旅行代理店はないか聞くと、ほとんど休みだが、Eurekaという旅行代理店は開いていると言うこと。場所を地図に書いてもらい、出ようとすると、どこから来たのか聞かれた。そこで、Santiago仕込みのスペイン語で"Soy Japonés"と答えておいた。
Eurekaというのは小さな旅行代理店で、入るとやや年配の夫婦がいた。Barilocheまで行きたいというと、空きがあるかどうか調べてくれる、とのこと。空いていないことがあるとは考えていなかったので、少しどきどきして待った。両替もやっているようなので、待っている間に、US$をチリペソ$に両替した。
幸いにして空きはあったようで、申し込むことにした。US$140とのことだが、クレジットカードで払う場合は若干高くなるとのこと。表記はUS$だが、支払いはチリペソ$のようなので、カードで$89,523支払うと、手書きのバウチャーをくれた。また、パスポートにくっついている入国カードの切れ端が重要だと言われた。
バスは時間通りに出発するので、翌日は出発場所に遅れないように行くことが大切だ、と言われた。出発時間の朝8:00の15分前に行く必要があるとのこと。ちなみに、チリは南米諸国のイメージと異なり、交通機関なども時間通りに出発する国だそうだ。
旅行代理店の主人は、わざわざ集合場所まで歩いて案内してくれたが、そこは泊まっているホテルのすぐ裏手だった。その主人によれば、明日はもう少し天気が良くなるのではないか、とのことだった。
翌日の手配が一通りできたので、Angelmoに行くことにした。Angelmoとは、Puerto Monttの中心から2kmくらい歩いたところにある街で、魚市場とCurantoという名物料理で有名。
Puerto Monttの中心から、海沿いの道を歩いていく。道から見える風景は、なだらかな山が海にせり出していて、以前行ったノルウェーに少し似ている。
道を歩いていくと、道沿いに露店がたくさん並ぶようになる。日本のコマのようなおもちゃやラピスラズリなどいろいろなものを売っている。これも観光客には人気があるスポットらしい。そこを過ぎていくと、魚市場と、そこに隣接したレストランの入った建物への入り口がある。
魚市場は平屋の建物だが、そこに入ろうとすると、おばさん達がレストランに連れていこうとする。「後で行くよ。」と言って中に入ろうとするのだが、言葉が通じないので、結構強引だった。
魚市場自体はそれほど広くないが、ところせましと魚が並んでいる。日本でもおなじみの魚が多く、鯵や巨大な虹鱒もある。
外に出て、隣接したレストランの建物を見ていたら、今度は若い女性二人が来て、レストランにまた勧誘する。結構強引なので、しかたなくついていく。しかし、困った。二人とも同じ店の従業員だと思ったら、どうやら違う店の従業員で、それぞれ自分の店の入り口で"FISH!FISH!"と言って勧誘するので困ってしまった。さらには近くの男の従業員まで声をかけて来たが、結局メニューまで持ってきた店に入った。
中は結構狭くて、長いテーブルがあり、そこにベンチのような椅子がある。そこに座り、少し迷ったが、やはり名物料理のCurantoとビールを頼んだ。
Curantoというのは、巨大なシーフード鍋のようなもの。しばらくすると皿に山のように盛りつけて持ってきた。貝や魚だけでなく、鶏肉や大きなソーセージも1本入っていて、じゃがいももごろりと入っている。
がんばって食べはじめたが、相当苦しい。味は相当あっさりしている。近くに大柄な太った若い男とその親らしきグループが来ていたが、その男はCurantoをばくばく食べていた。
食べていると、流しらしきギターを抱えた小柄な男と小学生くらいの男の子が店に入って、歌を歌い始めた。小さな男の子もたまに歌ったり、踊ったりしている。歌の内容はCurantoの歌のようだ。歌ははっきり言ってうまくないし、子供を使っているのもいやらしかったので、周りは拍手などしていたが、無視して食べ続けた。しかし、ある程度歌うと、金も集めずに出て行ってしまった。金目当てではなかったようだった。
Curantoは結局、全部は食べられずにギブアップ。苦しいまま、また歩いてPuerto Monttの中心に戻った。
Puerto Monttの中心に戻り、海沿いを歩いていると、下に釣りをしている人達がいる。見ているととても変わったやり方で、竿がない。いわゆる手釣り。糸は、手に持った空き缶に巻き付けている。投げるときは分銅のようにぶんぶん回して、空き缶を縦にしてスピニングリールのように投げている。
そんな方法で釣れるのか、と思うのだが、釣れるらしく、足下に魚が積み重ねられている。
それを見ていたら、若い男が横に来て話しかけてきた。しかし、彼はスペイン語しか話せないので、身振りと単語での片言。以下は推測。
「あれは釣りをしているんだよ。釣れているだろう。」
「おいしいのかな。」
「すごくうまいよ。」
「どこから来たんだ?」
「日本から。遠かったよ。」
「俺も日本に(言ったことがある?仕事をしている?)」「ここから、魚をたくさん輸出しているんだよ。」
「そうなんだ。」
「南米までどれくらいかかった?」(後で考えると南米にどれくらいいるのか聞いていたようにも思う。)
「2日くらいだ。」
「ところで、たばこ持っている?」
「ごめん、吸わないんだ。」
男に別れを告げて、さらに歩いていくと、ちょうど広場の前のあたりに、海に突き出した桟橋がある。カップルがいたりする。
そこから海をのぞき込んでみると、水はかなりきれいだと思った。
雨上がりのせいか、虹が見える。
街の中心にはとても大きなショッピングセンターがある。デジカメのメモリがなくなってきていたので、SDカードを探したが、あまり数がなく、値段も高い。やっとKODAKの店で128MBのSDカードを$46,500で買った。店員はこれはSDカードだが良いのか、というようなことを言っていたがスペイン語なのでわからず。なんとかカードでサインして買った。
ショッピングセンターの中にはゲームコーナーもあり、日本製らしきゲーム機が動いていた。コインを投入するところは\100と書いたままだった。
絵はがきを書くために赤ボールペンも買って、ホテルに戻った。
ホテルに戻り、Curantoを食べて夕食も食べられそうにないので、入浴することにした。しかし、いざ入ろうとするとお湯が出ない。寒いのに。
ずっと待っても水のままなので、フロントに言いにいくと、フロントの若い男性は部屋まで来て確かめてくれたが、水のまま。調べると言って戻っていった。
しばらくすると電話があり、15分くらいかかる、とのこと。そこで、出しっぱなしにしていたが結局15分過ぎてもぬるいくらいにしかならなかった。極端に導管が長いのだろうか?
寒い風呂に入ったあと、気分転換にウェルカムドリンクを飲みに、ホテルのバーに言った。
バーには先客が1人だけ。若い金髪のバーテンにピスコサワーを頼んで待った。テレビではスティーブン・セガールの映画をやっていた。
シェークされて来たピスコサワーを飲むと、結構強い酒だが、口当たりが良くておいしい。気に入ったので、もう1杯頼んだ。
先にいた客は帰ってしまったが、私はさらにピスコサワーをもう1杯頼んだ。バーテンがうまいか聞くので、うまいというと、小さくガッツポーズをした。何でも、少し卵を加えるのだそうだ。
「僕はあまり英語がうまくないのだけど」とバーテンが話しかけてきた。
SantiagoからCalamaに行くときに飛行機で隣の女性が白い飲みものを飲んでいたことを言うと、やはりそれもピスコだろうという。
バーテンによると、このバーは別名「sushi bar」というのだそうだ。メニューにも寿司らしいものがある。生ガキもある。半ダースか1ダースで$1,000くらいだったと思うが、日本では1つだけでそれくらいすると言ったらびっくりしていた。
酒もあると言い、味を見てくれというので持ってきてもらった。カリフォルニア製のもので、辛口のもの。こういうドライなものが最近ははやりなんだよ、というと、この「Ki-Ippon」というのはどういう意味なのか、と聞かれた。すみません。知りません。
日本からの客は多いのか、と言うと、結構いるらしい。ただし、観光ではなく、ビジネスらしい。魚の輸出関係なのだろう。
テレビの意味がわかるか、と言うので、「意味はわからないで見てるだけだよ。でも、僕はあれと同じ格闘技を習っているんだよ。」と言うと、「合気道かい?」というので、「そう、黒帯なんだ。」と答えた。よく知っているので、こちらがびっくりしたが。
チリについて聞かれたので、気候がいろいろでおもしろいという話になった。人の顔付きも来たと南で違うというと、地域によって移民が来た国が違うからだそうだ。彼自身は近くのクロエ島出身とのこと。しかし、顔つきが違っても、「僕たちはみんなチリ人なんだよ。」と拳で自分の胸を叩いて言う。ここがわからないところなのだが、周りの国もスペイン語で、カトリックで、移民の国なのに、自分たちの国と他の国という違いが彼らの意識の中には明確にあるらしい。
アルゼンチンにも行って来たが、アルゼンチンの人は金髪だけど、チリ人は黒い髪の人がほとんどだね、というとやはりそれも移民が来た国が違うかららしい。アルゼンチンの話になると、彼はさらに饒舌になってきた。彼によれば、アルゼンチンは「サッカー以外に取り柄がない。」のだそうだ。「あいつらチェとか言う言葉使うし、アクセントも変なんだよ。」とのこと。さらに、「昔は南米の南の方がチリの領土だったのに、チリが他の国と戦争をしている間に、南の方をチリからとってしまったんだ。」と言っていた。そのときに、チリもペルーやボリビアからかなり領土を奪ったような気もするのだが。
結局ピスコサワーはウェルカムドリンクを超えて3杯飲んで、部屋に戻って寝た。
2004年10月18日(月)にPuerto MonttからアルゼンチンのSan Carlos de Barilocheへ出発した。この移動は、Cruce de Lagosというバスと船を乗り継いでいくツアーを利用した。
これは単なる交通機関ではなく、多くのスタッフが要所要所で働いていて、客を次々と運んでいく非常に大がかりなもの。そのかわり、費用はUS$140と少し高め。
番号 | 出発 | 移動 | 到着 |
---|---|---|---|
1 | Puerto Montt | バス 約2時間 Puerto Varas経由 |
Petrohué |
2 | Petrohué | 船 約1時間40分 | Peulla |
3 | Peulla | バス 約2時間 | Puerto Frias |
4 | Puerto Frias | 船 約20分 | Puerto Alegre |
5 | Puerto Alegre | バス 約15分 | Puerto Blest |
6 | Puerto Blest | 船 約1時間 | Pañuelos |
7 | Pañuelos | バス約30分 | Bariloche |
集合時間は朝7:45なので、早めに起き、ホテルで朝食をとった。ホテルの朝食は7:00からだったため、軽く済ませることとし、コーヒーも勧められたが遠慮した。
荷物をまとめ、フロントでチェックアウトの手続きをしたが、新人?か何かの2人の女性がいて、その2人に説明しながらやっているので、少々時間がかかった。フロントからホテル裏手の集合場所にバスが来るのが見えたので、思わず声を出したら、女性達に「まあまあ落ち着いて。」のようにジェスチャーをされた。はいはい。
チェックアウトを済ませ、集合場所に行くと、確かに出発時間前なのに、多くに人がすでに集合している。CRUCE DE LAGOSの制服を着たスタッフも何人かいるので、バスに荷物を預け、引換証を受け取り、バスの右前方に座る(本当はこのバスは左側に座った方がちょっといいかも)。
バスは出発すると、Puerto Monttの街を出て走る。スタッフが簡単な旅程の説明と共に、ガイドを行う。パンアメリカンハイウェイという南北アメリカを走る道は、Puerto Monttで終わっているのだそうだ。
なお、ツアーの説明は必ずスペイン語と英語でされるので安心して良い。
最初の目的地はPuerto Varasという小さな街で、「花の街」と呼ばれているそうだ。ただし、Puerto Varasでは少しの間停車して何人か乗り込んだだけで、乗客はバスに乗ったまま。
Puerto Varasを出ると、バスは大きな湖の畔を走る。湖は左側なので、左側の席に座った方がよかったかな、と思った。この地域はLos Lagos州と言われ、たくさんの湖があるという意味だそうだ。この湖は産業面でも重要で、これら湖を利用してチリ全体の90%鮭がこの地方で生産されるという。湖の向こうには、Osornoという巨大な火山が見える。Osornoは日本の富士山そっくりで、湖越しに見える姿は、本当に富士五湖と富士山のよう。
バスの中では、なにやらスタッフがチケットを集めているが、私はバウチャーしかないと言うと、ちょっと待っていろということで、後で立派な"PASSENGER TICKET"というのを持ってきた。ここには今日乗り継ぐ船やバスのチケットが綴じられている。
ガイドの説明によると、ちょっと複雑で、ツアーには3種類のグループがあるのだそうだ。1つは、本日Barilocheまで行くもので、私はここに含まれる。2つ目は、Peullaまで行ってまた戻るというチリ国内で完結するもの。3つ目は、途中で1泊して、明日Barilocheまで行くもの。間違えないようにしなければ。
湖を過ぎると、バスは今度は川沿いを上っていく。川の様子はとても美しく、魚釣りをしたら気持ちいいだろうな、と思うが、人の様子はない。
しばらくすると、バスは停車する。なんだかわからないが、何かを見るようだ。戻ってこなければならない時間と、入ったら左の道を行くように、と言った説明がされる。
バスを降りると、入り口の小屋があり"PARQUES NACIONALES"と書いてあり、国立公園らしい。入場料として$1,200支払う。ガイドもおらず、来ているのは私たちのバスだけではないので、自分のバスの乗客とはぐれないように山の中の歩いていく。
山の中の散策かと思ってしばらく歩いたら、川岸に出た。すばらしい風景で、滝がある。これがSaltos del Petrohuéという滝だそうだ。
遊歩道が渡してあって、近くまで行って見ることができる。みんな写真を撮っていて、私も撮っていたら、頼んでもいないのに、私のカメラで私の写真を撮ってくれた。私も結構頼まれて写真を撮った。
山と川と滝の風景はとてもすばらしく、これを見ただけで、もうこのツアーに参加して元が取れた気がした。風景はまるでカナダのよう。おとといまで居た砂漠の世界とは全く違う。
随分見とれてしまったが、時間なので、元来た道を引き返してバスに戻り、再び出発。
Petrohuéに着くと、船が泊まっており、バスを降りる。荷物はどうするのかな、と思ったが、勝手に運んでくれるようなので、船に乗り込む。席は自由なので、窓際の席を確保した。
しばらくすると、船は出発する。私の隣には、ここ空いている?と聞いて年配の女性達が座ってきた。
隣に座った女性が「英語ができるか?」というので応えると、彼女たちはブラジルから十数人で来たグループだそうだ。
なんでもグループでいろいろなところに言っているらしく、中国やシンガポールにも行ったと話していた。一人で旅行するのは寂しくないかと聞かれた。となりに座った女性はなぜか私を気に入ったようで、あなたは今日は私の息子なので、わからないことがあれば何でも聞いてくれ、と言われた。ポルトガル語がわかると、スペイン語の放送はだいたいわかるそうだ。
船は湖の真ん中を進んでいき、後ろにはOsorno山が見える。ちょっと曇っているので風景がはっきり見えないのが残念。外に出ると風が強くて寒いし。
さらに進むと島が見えてくる。隣の女性は私と同じ名前の島だ、と言っていた。Margaritaと言うそうだ。
島を過ぎると、今度は湖沿いの滝の1つに近づき、しばらく船が徐行するので、みんな外に出て写真を撮る。このように山の上から注いでいる滝はこれ以外にもいくつか見られた。ノルウェーのフィヨルドと同じ感じだ。
Margaritaさんと一緒に写真を撮ったりしていると、この船の旅は1時間40分ほどで、岸に着く。先ほど書いたように行き先の違うグループがあり、グループ毎に順番に船を下りていく。Margaritaさんは明日Barilocheに行くとのことだったので、今日Barilocheに行く私は先に船を下りる。バスがたくさん並んでいて、どれに乗って良いかわからない。聞いてみたが、ちょっと上まで行くだけなので、どれによっても良いみたいだった。
バスで少し登ると、Peullaのホテルに着き、バスを降りる。
ホテルの入り口に、Peullaを出発するバスの時刻とその乗客のリストが貼られている。バスは30分おきに出発していくが、私のバスは15:30出発となっていた。ちなみに、私だけ性と名が逆のような感じがするが。
どういう基準で分けているのだろう、と思ったが、言語別かも知れない。私のバスはすべて英語だった。
ホテルに入ると、1階は軽食、2階はレストランとなっているようだったが、軽く済ませようと思ったので、1階にした。空いているテーブルに座り、注文をしようとしたが、年配のウェイトレスは忙しく、なかなか注文を取りに来ない。サンドイッチとかその類しかなかったが、ビールとエンパナーダスを頼んだ。
しばらくすると後から来た客も加わり、満席になった。すると、4人がけのテーブルに1人で座っている私の机に、3人の客が来て、座っても良いかと聞くので、構わないと答えた。彼らのうち二人はオーストラリアから来た夫婦で、引退後に旅行を楽しんでいるよう。もう1人はプエルトリコから来た女性でアメリカに留学した経験があるそうだ。
メニューに逡巡していたが、彼らも注文。プエルトリコから来た女性はスペイン語で交渉し、メニューにはないスープをゲットしていた。
食べながら彼らと話す。オーストラリア人夫妻はもちろん、プエルトリコからの女性も完全な英語を話すので、私にあわせてくれたような感じだが。オーストラリア人夫妻の英語は完全なオーストラリア英語の発音のようで、「ビジネスになるとみんなアメリカ英語なんだよね。」と言っていた。
オーストラリア人夫妻は2ヶ月か何かのツアーと言うことで、南米を回っているそう。釣りをしてピラニアを釣ったり、マチュピチュに行ったりしたそうだ。ペルーのマチュピチュやクスコはとても良かったと言っていた。
日本人の場合、いつも海外に行くとチップで苦労するんだ、と言ったら、オーストラリア人夫妻もそうだ、と言う。チップは好きじゃないし、オーストラリアでも高級なレストラン以外では払わない、と言っていた。
という感じで、$3,500に少し上乗せして私も支払いを済ませた。
ホテルを出て、外を見渡すと、天気がやや改善してきていて、山と湖が美しい景色。ホテルの横には池があって、そこでは虹鱒が飼われていた。
15:30になり、私の乗るバスに乗り込む。今度のバスはとても小さなバス。
少し走ると小さな小屋で泊まり、一人ずつ手続きをする。チリの出国手続きのようだ。並んでいると、周りの観光客の一人から「良いセーターを着ているな。どこで買ったのか?」と言われた。「日本だよ。でも、最近はこういうのはみんな中国製なんだよね。」「そうだよなあ。」
出国手続き自体はスタンプを押すだけですぐに終わり、またバスで出発する。今度の道は山道で、舗装されていない。冬になると通れなくなってしまう事もあるようだ。景色の良いところで、降りて写真を撮り、またバスで進む。途中では、工事中の橋のようなところもあり、安全のためと言うことで、全員バスを降りて、車と乗客が別々に橋を渡った。この橋のために、今回は小さなバスなのかも知れない。
隣に座って居た男性はまたオーストラリア人で、観光かと聞いたら、彼はツアーコンダクターで、周りの客を連れている仕事中なのだそうだ。やはり南米のツアーらしい。確かに、オーストラリアと南米は近いかも。
バスはチリとアルゼンチンの国境にかかる。ここでは、簡単な門のようなものがあり、バスから降りて写真を撮ったりする。私も写真を撮ってもらった。
湖のほとりまで着き、ここでバスは終点。今度はやや大きな小屋があり、アルゼンチンの入国手続を行った。
次の船はまた目の前に待機している。
次の船の旅は20分くらいの短いもの。中は広い1つのスペースになっていて、そこの椅子に座る。前で女性が「私は英語はあまり得意でないけど。」と言いながら、スペイン語と英語で説明をしていた。
再びバスに乗り換えるが、このバスの旅も短く、15分くらいで降りる。降りたところにはレストランと簡単な博物館のようなものがある。寒いのでコーヒーを飲みたかったが、これまた非常に混んでいるので、隣の建物の博物館のようなところを覗いた。この地域の植生などの説明のようだった。アンデス山脈の影響で、チリ側は湿潤だが、アルゼンチン側は乾燥していると言うようなことだった。
ここからしばらく道を降りていくと、船着き場があるが、まだ船は来ていない。かなり寒いので、船着き場の横にあるホテルに入って船を待った。船が到着したのは、19:00くらい。だんだん暗くなってきた。
いよいよ最後の船。今度は結構大きな船で、中も広い。寒いので中の店でコーヒーを頼んで飲んだ。外はまた湖と山だが、さすがにちょっと飽きてきた。
だんだん暗くなる中、1時間ほどでPuerto Pañuelosに到着する。
船を下りると、荷物が並べられており、引換証と共に荷物を受け取る。今度は行き先のホテル毎にバスに乗るようだ。私も当然ホテルを聞かれたが、例によって決まっていない。もう暗いのに。
そうすると、あるバスに乗るように指示された。
出発したバスは、暗くなった中を走る。道も舗装されており、横にレストランなどがぽつぽつと見られ、軽井沢のような雰囲気。
いくつか大きなホテルを通り過ぎ、Barilocheの中心部に入る。ホテルの前に止まり、何人か降りる。私はまだ乗っているように言われた。
最後にまた大きなホテルの前に止まり、乗客はすべて降りる。他の乗客達は、このホテルに泊まるようで、次々とホテルに入っていく。
しかし、ここでトラブルが起きた。私の後に降りた1人の年配の男性がよろけて、道沿いに止まっている乗用車に寄りかかってしまった。目をみはったまま、顔がこわばり、そのまま座り込んでしまった。
バスに乗っていた若い女性スタッフが駆け寄り、後ろから脇を抱えて歩道まで引きずっていった。ホテルまで運ぶのかと思い、脚側を支えて手助けしようとしたが、このまま動かさないように、ということ。運転手を呼ぶように言われたので、バスまで行って、運転手を呼んだ。
ホテルからは従業員が出てきて、男性に毛布をかけた。しばらく待っていると救急車が来て、対応を始めた。
スタッフの女性は、私の方を向き、「いろいろありがとう。そこをまっすぐ行って、右に行くとホテルがあるから。」と言うと、そのまま男性の対応に戻ってしまった。
心配だったが、もう9時近くで暗く、雪が降っていて寒いので、早くホテルを見つけなければと思い、Barilocheの街を歩き始めた。
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