タンザニア

最終更新日 2017年4月3日

アフリカ初体験と言うことで、東アフリカのタンザニアへ。

アフリカ(サブサハラ)旅行となると自然を楽しむものが多いですが、東アフリカは古くからインド洋交易で栄えており、インド、アラブ、アフリカが混淆したスワヒリ文化が栄え、歴史を感じる街があります。

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国について

国の概要

国の概要
国名タンザニア連合共和国(英語 United Republic of Tanzania)、(スワヒリ語 Jamhuri ya Muungano wa Tanzania)
タンガニーカとザンジバルが別々に独立して連合した経緯もあり、ザンジバルは自治権を持ち、本土から入るにも入国審査がある。
国土アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロはケニアではなく、タンザニアにある。国境、でもなく、完全にタンザニア。
人口4766万人(2012)
民族130もの民族集団からなるとされる。
宗教キリスト教、イスラム教。ザンジバルなど海岸部はイスラム教が支配的。
首都法律上の首都は国土のほぼ中央にあるドドマに移転しているが、依然として沿岸部にあるダルエスサラームが最大都市。
経済状況政治的には安定していたものの、アフリカにありがちなパターンで、独立直後に社会主義的政策に走ってしまったこともあり、成長が遅れている。ただし、近年の成長率は高い。
時間UTC+3。日本より6時間遅れている。
観光客78人。少ない・・・。

言語

スワヒリ語が国語であり、英語も公用語になっている。ただし、それぞれの民族はそれぞれの言語を母語にしているという。つまり、みんな3つの言葉が話せることになる。

スワヒリ語はアルファベットを用いる。民族とは関係なく国境が引かれてしまったアフリカの国々の中でも、タンザニアは早い段階でスワヒリ語を共通語として普及させることができたため、国民意識の醸成に成功したと言われている。これはアフリカの政治状況では重要なこと。

なお、スワヒリ語は東アフリカで多く話されていて、ケニアでも話されているが、本場はタンザニア。

ケニアではかなり簡略されていて、挨拶はJamboのやりとりだけだが、本場のタンザニアでは人称によって変化する。

スワヒリ語
こんにちは単数の場合、Hujamboに対してSijampoと答える。複数の場合、Hamjamboに対してHatjamboと答える。しかし、このあたり、観光客相手にはJambo-Jamboで済んでしまうことも。
年配の人に対しては、Shikamooと挨拶するのが礼儀で、Marahabaと返ってくる。もっとくだけた表現としてMamboがあり、これに対してはPoa(最高さ!といった感じ?)と答える。スワヒリ語のFacebookのいいね!はPoaの模様。
さらに、おはよう、こんにちは、こんばんはなどの表現がいろいろある。挨拶は一回交わすのではなく、何回もやりとりするのが習慣とのことで、バラエティがあるのかも。
(とても)ありがとうAsante (sana)

一つややこしいのは、スワヒリ語では、時間をあらわす際に6時からの経過時間で表現すること。7時が6時になり、6時は11時になる。12時間制では6時間足すのと同じで、つまり日本時間と同じ。

ザンジバルではアラブ人やインド人が多いので、英語の他に三か国語の標識も見る。英語の下がアラビア語、その下がスワヒリ語、最後がインドの言葉のように見える。アラビア語とスワヒリ語は同じ発音の文字となっていて、スワヒリ語がアラビア語からの借用が多いことがうかがえる。

料理

コーヒーの産地キリマンジャロを擁しながら、でありながら(ありがちだが)コーヒーはAfricafeというインスタントコーヒーが幅をきかせており、むしろ紅茶も人気がある模様。

名物料理というものもあまりない印象だが、ウガリというものがあり、キャッサバや穀物などを練ったマッシュポテトというか、すいとんというような主食がある。

キャッサバそのものも食べられる。栗の味がするさつまいものような感じ。ほかほかのものは美味しい。

歴史

7世紀以降、アラブ人やペルシア人が渡来。

10世紀から16世紀初頭にかけて、スワヒリ文明。

1505年にポルトガルがキルワ王国を滅ぼす。

1698年にオマーンがポルトガルを駆逐。

1830年代にザンジバルにストーンタウン建設。1856年にザンジバル・スルタン国が成立。この時期に奴隷貿易、クローブ貿易で発展。

1885年にタンガニーカがドイツ領になり、1920年にイギリスの委任統治領、第二次世界大戦後、信託統治領となり、1961年独立。

ザンジバルは19世紀初めからオマーンのスルタンが支配。1890年にイギリスの保護領、1963年ザンジバル王国として独立したが、革命が起こって国王が追放され、1964年にザンジバル人民共和国が成立。

1964年にタンガニーカ=ザンジバル連合共和国となり、タンザニア連合共和国と改称。つまり、別々に独立してから一つの国になった

独立後、初代のニエレレ大統領の任期は長かったが、その後の大統領は10年ごとに平和的に交代しており、安定している。大統領の任期は5年で1回の再選が認められる。

ホテルに行くと、フロントの後ろに歴代大統領の写真が飾ってあるのを見る。

通貨

タンザニア・シリング

米ドルから両替できるが、$50札、$100札は1$=2200Tsh程度である一方、20$以下の札は半分くらいの1$=1100Tsh程度でしか両替してくれない。ATMの手数料も高かった。

米ドルでも払えることがあるが、1$=2,000Tshの粗い換算。

両替

ダルエスサラームの空港(出たところ)のATMで、いつものようにキャッシュカードを使おうとしたら、なぜか使えなかった。現金をいくらか持っていることは大事ですね。ザンジバルでは普通に使えた。

両替レート
日付手段レート
2016年9月18日空港の両替所($50札)1$=2171.52Tsh
2016年9月23日ザンジバルの街中のATM。50,000Tsh下ろしたら、手数料が11,000Tshだった。

ビザ

必要。写真入りのビザとなる。

交通

ツアーなので利用しなかったが、ダラダラと呼ばれる乗り合いバスがある。なぜか日本の中古車が目立ち、車のサイズがちょうど良いのか、旅館や幼稚園の送迎バスだった車が表記そのまま使われていたりする。

通信

2016年9月時点でNTTドコモのパケホーダイ対象国ではない。ホテルではWi-Fiが使えても不安定。

健康

必須ではないようだが、黄熱病のワクチンを打ち、イエローカードを取得してから行った。イエローカードはかつては期限があったが、現在は無期限になった。

とても蚊に刺されやすいので、抗マラリア薬ももらって飲んでいった。夜の蚊はマラリア、昼の蚊はデング熱を媒介するそうだ。

関連リンク

Wikipedia

タンザニア

ダルエスサラーム

ダルエスサラームはタンザニアの事実上の首都。海沿いに広がり、高層ビルも建ち並ぶ。

タンザニア旅行で2016年9月18日(日)に成田から到着し、1泊して9月19日(月)にキルワに出発。9月21日(水)にキルワから戻り、1泊して9月22日(木)にザンジバルへ出発。

Wikipediaのダルエスサラーム情報

到着

成田から

ドーハへ

2016年9月17日(土)に成田エクスプレスで成田空港第二ターミナルへ。前日まで休みで余裕があったはずなのに、直前に郵便局にゆうパックを取りに行ったりばたばた。東京駅でもダッシュして乗り換えて飛び込んだ。成田空港では、SamsungのGalaxy7を持ち込まないように、表示やアナウンスで呼びかけていた。

ビールを飲んでからカタール航空QR807のB777-200LRで22:40頃に出発。離陸すると西に飛び、瀬戸内海を通ってから中国、バングラディシュ、インドを通ってカタールのドーハのハマド国際空港に翌3:15頃に到着。

ダルエスサラームへ

本を読んだりして時間を過ごし、念のため日焼け止めとアメリカ直輸入の虫除けクリームを塗ってから、カタール航空QR1347のA320で9:00頃にドーハを出発。乗り込む際のチェックではパスポートを見た女性が「こんにちは」「ありがとう」と日本語で挨拶。機内のアナウンスは、アラビア語と英語。同じ列に座った男性は陽気で、スワヒリ語の教科書で勉強していたら「それって中国語?」などと話しかけてくる。

飛行機はドーハを出発すると回り込んでオマーンの上を通り、サララを通過するとなんとソマリアの海岸沿いを南下、モガディシオの真上を通過。不時着でもしたらどうなるんだろうと心配になる。タンザニア近くになると海に出て、着陸直前にはインド洋に浮かぶザンジバルがきれいに見えた。また、着陸直前になると客室乗務員が天井に向けて何やらスプレーをして機内を回り、むせている人もいる。殺虫剤だろうか?

ダルエスサラーム空港に14:30頃に到着。入国審査では顔写真とともに、両手の指紋を記録された。荷物受け取りに進むと、係員らしき男性が「ニイハオ」と話しかけてきて、違う世日本人だよ、と説明すると、タンザニアへようこそ!と。何か怪しいかと思ったが、それだけで持ち場に戻ってしまった。荷物を受け取るとツアー同行の人たちからいつものように「それだけですか!」と言われた。

空港の外で両替し、バスで出発。車は左側通行で、日本車、特にトヨタが非常に多い。トヨタが80%以上だという。

国立博物館、ティンガティンガ・ヴィレッジを見学して、NEW AFRICA HOTELにチェックイン。

キルワから

2016年9月21日(水)の朝、キルワのホテルをチェックアウトして、トゥクトゥクで現地の小学校、マーケットを見学してからバスに乗り換えてから出発。キルワに来た道を北上して戻り、休憩しながらダルエスサラームへ。海沿いを走っているせいか、景色は本当に変わらない。山がなく、草が生えた平原にぽつぽつと木が生えている。

午前中は一瞬雨がぱらつく天気だったが、午後は晴れ。天気のせいかわからないが、バスの中にも蚊やハエが多く、蚊は10匹以上殺した。アメリカ製の虫除けのせいか刺されはしなかったが。

宿泊

NEW AFRICA HOTEL

大型ホテルで、海側の部屋では、インド洋とダルエスサラームの街が見える。前には教会があり、賑やかだった。上階にはタイ料理のレストランがある。

部屋の窓には蚊を避けるために窓を開けるなと言う注意書きが。

ダルエスサラームの観光

ダルエスサラームの観光は、タンザニアに到着した9月18日(日)の夕方のみ。

官公庁は結構早い時間から働き始めるらしく、朝6時頃でも人通りが多い。仕事に行くのだと思うが、皆手ぶらで、鞄を手に持っている人はいない。たまにリュックサックを背負ってる人がいる程度。頭に荷物を載せた女性はぽつぽつ見る。

外務省の海外安全情報を見る限り、決して治安がよくはないようだが、見ている限り、殺伐とした雰囲気はない。

国立博物館

タンザニアに到着した2016年9月18日(日)、空港からバスで直行して見学。

展示品は多いとは言えず、市の博物館といった程度だが、人類の歴史、石器、陶器、そしてポルトガルの来航、アラブの支配、ドイツの支配、イギリスの支配、そして独立と整理して展示されている。

これはキルワの繁栄をポルトガルが描いた絵。

猿人、旧人を含む人類はタンザニアを含めたアフリカの大地溝帯でよく見つかっている。また、3000年前から鉄器を使っていたようで、鉄でしか加工できない固いエボニーの木の彫刻が残されている。また、鉄の製造方法は西欧とは異なっており、3,000年前から独自に鉄を作る技術を身につけていたらしい。

独立後、初代大統領こそ長期間その座にあったが、2代目以降は10年ごとに混乱無く交代している。大統領の任期は5年で選挙で選ばれ、二期まで続けることができる。タンザニアは政治的には安定している。

屋外ではmedical treeと呼ばれるイチジクの大きな木が立ち、総督時代から独立後の大統領達が使った車が並んでいる。古くはイギリスのMorris、その後はロールス・ロイス、その後はベンツになっている。

ガイドに覚えたてのスワヒリ語で、"Ninasoma kiswahili."(私はスワヒリ語を勉強しています)と言ったら、「スワヒリ語は僕たちの共通語なんだ!スワヒリ語を話す人は大歓迎だよ!」と大げさに感動された。

ティンガティンガ・ヴィレッジ

ティンガティンガとは、素朴な動物や人間の素朴な絵で、1960年代にダルエスサラームで生まれた。ここではティンガティンガの作成を行っている様子を見学でき、販売もしている。「安いよ!」と日本語で売り込みの声がかかる。

夕食

到着した2016年9月18日(日)は、ホテル9Fのレストランでタイ料理を食べて就寝。窓の外にはインド洋と満月が見えた。

出発

キルワへ

2016年9月19日(月)に、ダルエスサラームのホテルにいらない荷物を残してキルワに向けてバスで出発。

ザンジバルへ

2016年9月22日(木)にザンジバルへ出発。朝4:30に起きて朝食をとってチェックアウト、6:00にバスで出発して港へ。7:00出航の双胴船Kilimanjaro4号でザンジバルへ向けて出発。

キルワ

アフリカの東海岸には、インド洋交易が発達し、アラブ人やインド人が進出、アフリカの文化と混じり合ったスワヒリ文化が発展した。その拠点だったのが、キルワ。

キルワ・キシワニとソンゴ・ムナラは世界遺産ともなっているが、東海岸に浮かぶ島であり、遺跡が残っている。本土側のキルワ・キヴィンジェには、ドイツ占領時代の行政府跡などが残されている。いずれも保存や修復はこれからで、廃墟のようなままになっている。

タンザニア旅行で2016年9月19日(月)にダルエスサラームから到着し、2泊して9月21日(水)に再びダルエスサラームへ出発。

Wikipediaのキルワ・キシワニとソンゴ・ムナラの遺跡群

Wikipediaのキルワ・キヴィンジェ

到着

2016年9月19日(月)に、ダルエスサラームのホテルにいらない荷物を残して身軽になって、バスで出発。途中で休憩しながら一日かけて到着。とても読書がはかどった。

海岸近くの幹線を南下することになり、途中でルフィジ川を越える。ここの新しい橋は以前の大統領の名前がついているが、タンザニアで最長の橋だそうだ。見えはしなかったが、カバやワニが住んでいるのだそうだ。大きな動物のものらしき足跡が残っている。

景色はずっとあまり変わらず、ばらばらと木が生えている大地。所々に集落があり、鮮やかな服をまとった女性が器用に頭に荷物を載せて優雅に歩いている。皆、とても姿勢が良い。

国土の海岸沿いの道で、どう考えても幹線だが、道は舗装されているものの、橋は架かったばかりとは、インフラ整備がまだまだ進んでいないのだな、と感じる。

バオバブの木や蟻塚も途中に見えた。バオバブの木は貴重な水分として、あるいは薬として様々な民族に利用され、水分が枯渇すると象も皮をかじるとのこと。

宿泊

KILWA PAKAYA Hotel

設備は簡素だが、部屋はインド洋に面していてとても眺めが良い。レストランは離れになっている。

朝日を見ることができるが、朝方は蚊が多い・・・。

キルワの観光

2016年9月20日(火)は一日船で海に浮かぶ島であるソンゴ・ムナラとキルワ・キシタニの観光。島はどこも遠浅で、上陸するには小舟に乗り換え、さらに浜沿いは水の中を歩く必要があり、大変。

ソンゴ・ムナラ

ソンゴ・ムナラは後で行くキルワ・キシタニが手狭となったため、衛星都市として作られた。かつてはソンゴと呼ばれていたが、塔(ムナラ)が建てられてからソンゴ・ムナラと呼ばれるようになった。

ホテルをバスで出発し、キルワ・マソコの港へ。港は管理が厳しく柵で囲まれていて、写真撮影も禁止されている。積み出すためか、塩の入った袋が山積みになっている。

港からFRPではなく木の船で出発。結構大きい船だがベンチの座る部分の木は結構間隔があいているため、おしりが痛い。日差しを避けるためビニールシートの屋根が着いているが、ばたばたとうるさい。

近くにダウ船が走っているのも見える。ダウ船はインド洋交易で使われた木造の帆船。

船で1~2時間ほど走ってから、小舟に乗り換えてソンゴ・ムナラ島に上陸。砂浜と言うより干潟で、足にくっつき、せっかくビーチサンダルを日本から持って行ったのに、上陸する際にちぎれてしまった。

上陸したところには小さな集落があり、魚を干している。小さな魚が多かったが、イカやタコ、ウツボもあった。浜には木で囲った柵のようなものがあり、干潮時に残された魚を捕るものだという。掘っ立て小屋のようなモスクもあった。

集落を出て、マングローブの林の中の足首くらいの深さのクリークを歩いて行く。小さなハゼやカニがたくさんいる。

クリークを抜けると広場があり、小屋と簡易トイレが建てられている。遺跡はアメリカの資金で調査、修復が行われているようで、この小屋もそのためのものとのこと。その奥にソンゴ・ムナラの遺跡が見える。

建築物は、珊瑚石(Coral Stone)を、さらに珊瑚か珊瑚石を砕いて燃やして寝かした漆喰のようなもので埋めて作られている。昔のものは十分に時間をかけて作ったもので丈夫だが、最近のものはそうではないとのこと。

タワー

ソンゴ・ムナラの名の由来となった塔。見張り台として使われていた。現在では下部分しか残っていない。

女性のためのモスク

女性のためのモスク(の跡)。写真で左から真ん中下に並んだ石は、奥にいて礼拝を取り仕切る男性の宗教指導者と、女性を隔てる壁があった痕跡とのこと。

スルタンの家

天井は虫に食われにくいマングローブの木を渡して骨組みとして、珊瑚石で作られる。入手できるマングローブの木の長さには制約があるため、部屋は細長くなる。

スルタンがいた部屋、プール、広いキッチンなどの跡がある。建物はかなり崩れてしまっているが、これは風雨、そして樹木によるもの。

もともと出入り口や壁はアラブ風のアーチ状の意匠だったと思われるが、修復時に上部が水平な直線状のスワヒリ様式にされてしまっている。

モスク

モスクの跡だが壁とミフラーブくらいしか残っていない。

昼食

移籍の前の広場にある小屋で焼いた魚などで昼食。ココナッツは中の汁を飲んだ跡、白い部分は食べられる。

キルワ・キシタニ

ソンゴ・ムナラの上陸地点に戻り、再び小舟から船に乗り換え。ずいぶん潮が引いている。船で来た方向に1~2時間戻り、小舟に乗り換えてキルワ・キシタニに上陸。今度は上陸してすぐに遺跡が並んでいる。

マクタニ宮殿

大きな宮殿。バットレスがあるが、これは補修時に壁を支えるために加えられたもので、もともとはなかったもの。

風呂やトイレの跡が残されている。

四角い窓が並んでいるが、これも埋めてしまったからアーチではなく四角いのかも知れない。

モスク

外側部分は壊れているが、中央部はドーム部分も含めて残されている。ドームには青色で彩色された白い磁器がはめこまれているが、今はコウモリが棲みついている。

ジャングワ・モスク

ジャングワとは入り江の意味。すぐ前は満潮時に入り江となる平野が広がっている。住居も含む大きな建物だったようだが、ほとんど残っていない。

集落

入り江を越え、グレート・モスクに行くために集落を通ってショートカット。平屋の簡素な家だが、暑さを避けるためか入り口は南側(南半球なので太陽と反対側)に設けられている。バナナなどの果樹も植えられている。遺跡もそうだが、放し飼いらしき山羊が多い。

老人が横切ったので、Shikamooと挨拶をしたら、Marahabaと答えてくれた。

スルタンの墓地

男性は男性器、女性は女性器をかたどった墓に埋葬されている。イスラム教徒、キリスト教徒で埋葬の仕方は違ったらしい。上を覆う形式はキリスト教徒のもの。

男性器が両端にあるのは、男性は上半身の頭と下半身の「頭」があるが、前者が後者をコントロールしないと良いことはないよ、という意味らしい。

墓の中には、イランで見たゾロアスター教の意匠である階段状の三角形をつけたものもあった。

グレート・モスク

大型のモスクとその前の家が残されている。古くから使われていた場所のようで古い頭蓋骨も発掘されている。

最初に奥のミフラーブ部分が作られ、後に手前部分が拡張された。しかし、奥の部分が崩壊してしまい、そのころのキルワ・キシタニにはそれを修復する資力が失われていたため、手前にミフラーブを作ることになった。

面白いのは、このモスクにもゾロアスター教の意匠が残されていること。イランからの影響を受けて作られたのだろうか。

モスクの前には埋もれかけた線路がある。このモスクを発掘した際に掘り出したものを運ぶために使ったという。現在モスクは周囲の家屋より低い位置にあり、埋もれてしまっていたとのこと。

ゲレーザ

ポルトガルが作った要塞。ゲレーザはポルトガル語で要塞を意味しているが、スワヒリ語では監獄を意味している。随分ときれいに残っている印象を受けるが、新しい時代であることに加えて、修復が行われているせいかもしれない。

海のモスク

これも墓地。小さなモスクを模した建物のような墓は聖職者のものと考えられている。

フクニクグワ

小さな防波堤から再び船に乗りこみ出発。

島沿いに進み、マングローブの中を進んで再び島に上陸。小舟に乗り換える必要があった。

上陸して階段を上るとフクニクグワの遺跡がある。他の遺跡から離れているため、船で移動してくる方が効率的らしい。ここは貿易のために作られた施設で、倉庫、劇場、裁判所などがある。

ここの見学を終えたときに日没。再び小舟で海に出て、船に乗り換えてキルワ・マサコの港に戻り、バスでホテルへ。

シャワーを浴びてから夕食、就寝。

キルワ・キビンジェ

キルワ・マサコとキルワ・キビンジェはアフリカ大陸本土にある。

キルワ・マサコ

2016年9月21日(水)にホテルをチェックアウトし、二人ずつトゥクトゥクで周辺の観光。

現地の小学校

二人ずつトゥクトゥクで現地の小学校へ。施設を見学して、1年生の教室を見学。非常に賑やかだが、校長先生が指示するとぴたっと静かになる。校長先生は男性だが、教師は女性が多い。女性教師と写真撮影。

マーケット

小学校を見学してから再びトゥクトゥクで現地のマーケットへ。魚は鱗や内臓をとって売られている。写真を撮られるのは嫌そうだが、生き物を殺している仕事を見られたくない、といった心情があるようだ。

野菜はニンニク、キャベツ、トマト、ピーマン、唐辛子、カボチャの葉など。クッキーのような土の塊も売っていて、これは妊婦が食べてミネラル不足を補うのだそうだ。

必ず携帯電話の店がある。バスで走っていると、どんな小さな街にも携帯電話の店はあるようだ。

キルワ・キビンジェ

ホテルに戻ってトゥクトゥクからバスに乗り換え、キルワ・キビンジェへ。

キルワ・キビンジェはもともと港だったが、1886年に占領していたドイツの行政府が設けられた。歴史的な痕跡がいくつか残されているが、観光地として整備されている様子はない。

行政府

行政府だった建物があり、前には大砲も残されているが、観光地としては全く管理されておらず、地元の人達が中に住み着いてしまっている。

マジマジの乱の記念碑

ドイツの植民地時代に、マジマジの乱と呼ばれる大規模な原住民の反乱が起きた。反乱の指導者は、マジマジという魔法の水を飲めば弾丸に当たっても死なないといって反乱者を鼓舞したことからこの名がある。

抵抗は続いたが、最終的には鎮圧され、首謀者達も処刑されてしまった。

出発

2016年9月21日(水)、キルワ・キビンジェの見学を終えてから、バスで再びダルエスサラームへ戻った。

ザンジバル

ザンジバルはアフリカ大陸の東に浮かぶ島で、本土のタンガニーカとともにタンザニアを構成する。

面積は日本の沖縄県よりも少し大きい程度の島だが、アラブやインドの影響を受けたスワヒリ文化が花開き、また、奴隷貿易の拠点として、クローブの産地として大いに栄えた。

ストーンタウンは世界遺産となっており、本土よりずっと観光客が多く観光地化している。イスラム教徒の割合も本土側のタンガニーカと、ザンジバルでは大きく異なっているようだ。もちろん、ザンジバル島のほうが高い。

タンザニア旅行で2016年9月22日(木)にダルエスサラームから到着し、2泊して9月24日(土)に成田に向けて出発。へ出発。

Wikipediaのザンジバル情報

到着

2016年9月22日(木)にダルエスサラームのホテルを朝4:30に起きて朝食をとってチェックアウト、6:00にバスで出発して港へ。港はいろいろな人でごった返している。乗船前にX線の荷物検査とパスポートのチェックがある。蚊が多い。

タンザニアに到着してから一緒だった賑やかな現地ガイド、運転手、助手の3人とお別れ。7:00出航の双胴船Kilimanjaro4号でザンジバルへ向けて出発。

50US$のVIPルームだったので席もゆったりとして快適だがローリングの揺れがある。

ザンジバルに上陸すると、このときだけ夕立のような強い雨。入国管理の手続を行い、バスに乗って一旦ホテルにチェックイン。

夕方、自由行動でストーンタウンを散策。

宿泊

The Seyyida Hotel & Spa

港からも近いきれいなホテル。部屋はとても広く、体操ができそうだった。ただし、部屋によって作りは相当に違うようで、また、水回りは出る方も出す方もあまり調子よくなかった。

ベッドの周りには白いカーテンがあり、何と大げさな、と思ったが、これは蚊帳の役割を果たしているよう。夕方になると、女性従業員が部屋にスプレーで殺虫剤をまきに来る。

ストーンタウンの観光

世界遺産となっているストーンタウンはザンジバル島の首都であるザンジバル・シティの旧市街に相当する。本土側であるタンガニーカよりイスラム色が強く、四角いイスラム教の帽子をかぶった人も多い。

市場

野菜、果物、肉、魚などいろいろなものを売っているが、特にバナナの種類が豊富。びわのような果物もあった。

奴隷博物館

奴隷博物館はザンジバルで是非訪問してみたかったところ。初日にツアーでさっと見たほか、最終日の自由時間にも見た。

博物館は英語のパネル展示された建物と、その奥に大聖堂がある。大聖堂は比較的新しいもので、奴隷市場があった場所に建てられたそうだ。内部の中心部には台があり、その下は赤くなっていて、奴隷が流した血を表している。売りに出ている奴隷が我慢強いことを示すために、傷つけることがあったそうだ。

奴隷貿易というとヨーロッパによって西アフリカから新大陸に売られていった人達が有名だが、東アフリカでも行われていた。しかし、その内容は西アフリカとは少し異なっている。盛んに行われたのは19世紀で、当初はフランスの植民地であるモーリシャスのサトウキビプランテーションのためだったが、フランス植民地で奴隷貿易が禁止されると、インドやアラブ世界の需要に応えるために盛んに行われた。ヨーロッパが奴隷禁止に転じ、その圧力がザンジバルに及ぶようになると、ザンジバルはクローブ栽培に乗り出し、そこで奴隷を使うようになった。クローブ栽培は労働集約的であり、奴隷のおかげかザンジバルはクローブの一大産地となった。

ザンジバルの奴隷貿易を担っていたのはヨーロッパではなく、ポルトガルに替わってこの地の覇権を握ったオマーン帝国である。ザンジバルは島であり、奴隷は逃げ出したとしても海を越えることは出来ない。アラブ人達はアフリカ本土で「調達」した黒人奴隷をこの島で売りさばいていた。そのため、今でもタンザニアの黒人の間のアラブ人、インド人に対する感情は複雑なものがあるようだ。

ストーンタウンの建築

ストーンタウンは路地が入り組んだ街。車が通るような広さはなく、碁盤の目どころか交わったり、分かれたりして、どこにいるのかわからなくなる。

特にこの建物が、というよりも普通の多くの建物が歴史的なものとなっていて、改装されてホテルとして使われているものもある。

古い建物はウズベキスタンやイランで見るような、木彫りの立派な扉を持つ。モスクの建物はワクフ(イスラム式の財団法人のようなもの)で建てられたものもあるようだ。

ストーン・タウンにはモスクが多いが、目立つ建物ではなく、普通の建物のようで、外から見るとミフラーブのところがぽこっと出ているくらい。むしろ目立つのはキリスト教の教会だったりする。

クーラーの室外機が外に出ている建物が多いが、なぜかほとんどが三洋製。今はパナソニックに統合されて見なくなったロゴが街中にある。

これはザンジバルの大学の建物。

本土もそうだが、ザンジバルも日本車が多い。それも、日本での塗装をそのままに走っているので、不思議な光景となる。乗合バスのようなものも日本車が多いが、大きさがちょうど良いせいか、旅館の送迎バス、スクールバスが多い。

ジャパニーズ・バー

海沿いのレストランで昼食をとってから、ジャパニーズ・バーと呼ばれている建物へ。何の表示もないが、かつて「からゆきさん」として日本人女性が働いていたという場所。こんなところまで来たとは驚き。

我々の世代は外国人女性が日本に来る「じゃぱゆきさん」という言葉は知っているが、その言葉はこのからゆきさんからから来ているという。

フレディ・マーキュリーの生家

クイーンのフレディ・マーキュリーは当時イギリス領だったここで生まれた。ペルシャ系インド人のパールシーだったというのが、またザンジバルらしい。今はおみやげ屋になっている。

城塞

海の近くにある城塞。中は広場になっていて、土産物屋の露店が出ていて、城塞の中にも店がある。現在では映画祭の会場になっているそうだ。

House of Wonder

日本語にすると「驚嘆の家」といったところ。19世紀にスルタンが建てた宮殿で海に面している。かなり1階の高さが高い作りになっていて、東アフリカで初めて電気が通り、エレベーターが設置されていたという。

宮殿博物館

これも海沿いにある建物で、現在では博物館になっている。ヨーロッパとの外交文書のようなものがあり、スルタンの娘でありながらドイツに渡ったサロメの生涯に関する展示もあった。

上階からは海を望むことが出来る。写真の変わった椅子は、互いに反対側から座るカップル用に椅子だそうだ。隣の敷地はスルタンの墓地になっている。

これでザンジバルのストーン・タウンの観光はおしまいで、ホテルにチェックイン。

夕方、自由行動でストーンタウンを散策。キルワのソンゴ・ムナラ上陸時に壊れてしまったビーチサンダルを購入

ストーンタウン郊外

ザンジバルについて翌日の2016年9月23日(金)は、ストーンタウンを出て、ザンジバル島の郊外にバスで足を延ばした。

ブブブの駅舎跡

かつてストーンタウンから引かれていた鉄道の駅舎跡がある。ブブブの駅舎という名称はSLの音から来ているとのこと。建物の横には工場の跡もある。

なんだか雨が降ってきた。

ペルシャ式ハマム

スルタンがペルシャから妻に迎えた王女のためのハマム。薄汚れた建物だが、内部は白で装飾されている。

外観にはくぼみが並んでいるが、これは警備の兵士のためのトイレらしい。

スパイス農園

スパイスがたくさん植えられた農園。観光地っぽい。

これはパンノキと呼ばれるもので、食用になるらしい。スパイスではない気がする。

これはハンバーグとか挽肉料理に使うナツメグ。

これはよく知られているコーヒー。赤い実の中に、黄色い種が入っている。これを炒って黒くなったコーヒー豆はよく見るもの。

私の健康を損なっているカカオの実。幹から実がなる。

そしてこれが主役のクローブ。高い木の先に着いている。これがザンジバル島の主要産物となり、これを栽培するために大量の奴隷の労働力が投入された。

胡椒がつる性の植物だとは知らなかった。

最後には手作りのお土産をそれぞれにくれる。男性にはネクタイと帽子。ストーンタウンでこの帽子をかぶっている人もいた。その場で作ってくれて手が込んでいるが、さすがに日本には持って帰れない。検疫も通過できないだろうし。

昼食を屋外で摂り、お土産を買って出発。スパイスも売っていたが、クローブなどが入った石鹸を買って帰った。

パジェ

ストーンタウンとは島の反対側のパジェまで来て、岩のレストランでカクテル。本当に岩の上に立っている。潮が満ちていると海を渡らなければならないと言うことでビーチサンダルを買っていったのに、普通に行けた。しかし、海は青くて美しい。この辺りはリゾート地のよう。

再びストーンタウンへ

バスでホテルへ戻った後、最後の晩なので夜の街を少し散策。驚嘆の家の前の港に面した公園では食べ物を売る露店がたくさん出て賑やかだった。ホテルで夕食、就寝。

出発

最終日2016年9月24日(土)の午前中はザンジバルで自由時間。22日に十分見られなかった奴隷博物館を見てきた。

ホテルに戻ってから港のレストランで昼食をとり、スーパーマーケットに立ち寄ってザンジバルの空港へ。

カタール航空QR1355のA320で17:30頃に出発、また、ソマリア、オマーン、UAEの上空を通って、ドーハのハマド国際空港に22:45頃に到着。いつものことだが、帰りの飛行機に乗った途端にどっと疲れが出て、胃腸の調子が悪くなった。

カタール空港QR806のB777-200LRでドーハを日が変わった25日(日)の2:30頃に出発、イラン、パキスタン、中国の上空を通って、成田に19:00前に到着。成田エクスプレスで帰宅。

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