イラン

最終更新日 2015年9月1日

エマーム広場

2015年4-5月にイラン旅行で訪問。

行って見るとイメージが変わる国というのはありますが、イランはその最たるものでしょうか。宗教が重視される社会、というのはその通りですが、文化的にも豊かな国であり、人々も明るく親切です。

日本でイラン人というと、過去に大量に来日して公園に集まっていたイメージが強く、余り良いイメージありませんが、現地では大人も子供も男性も女性も含めてとても社交的で好奇心が強く、外国人と分かると声をかけたり、写真を撮ってくれと言ってきたりします。

歴史的な見所も多く、「おしん」のおかげ?で日本に対するイメージも悪くないようです。多くの人に訪れて欲しいですし、人気が出てもおかしくないと思います。

奇しくも訪問直後の2015年に7月にイランの核開発について、欧米6カ国との合意が成立しました。欧米とは歴史的、宗教的に難しいところがありますが、宗教を統治の中心に持ちながらも制限付きとは言え選挙を行っていて、紛争が絶えない中東の中では、イラン・イラク戦争後、めずらしく安定しています。各国との関係改善が良い方向に進むと良いのですが。

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国について

国の概要

国の概要
国名イラン・イスラム共和国
国土ペルシャ湾を挟んでアラビア半島の向かいにある。北はカスピ海に面する。左に傾いた菱形をしていて、背骨のようにザグロス山脈が走り、カスピ海沿いにはアルボルズ山脈が走る。平地は乾燥して砂漠であるために水が得やすい山の近くに都市が築かれたという。
人口約7561万人(2012)。
民族ペルシャ人61%、アゼルバイジャン人16%、クルド人10%ほか
宗教イスラム教シーア派。これを国教としており、飲酒や女性の服装の制限も厳しい。また、かつてはゾロアスター教の影響が強かった。
首都テヘラン
経済状況一人当たり国内総生産12,264ドル(PPP,2013)、産油国でもあり、決して貧しい国ではない。
時間UTC+4.5。日本より5.5時間遅れている。面倒なことに端数で、時計とかデジタルカメラの時間修正がうまくいかない。サマータイムがあり、その時期には日本より4.5時間遅れとなる。

言語

公用語はペルシャ語。文字は基本的にアラビア文字と共通だが、言語は全く異なる。また、アラビア文字にはないPやCHの音など表す文字が追加されている。数字もアラビア語と同じインド数字だが、4、5、6に相当する文字が違っている。

街や標識には結構ラテン文字・アラビア数字の転写がされている。

ペルシャ語
こんにちはサローム!
ありがとうヘイリー・マムヌーン ただし、フランスの影響が強かった時期もあり、メルシーも通じるとのこと。そういえばトルコもそうだった。
これ、いくら?イーン・チャンデ? バザールで試したらばっちり通じたけど、返事は全然わからなかった・・・。

宗教

イスラム教シーア派(十二イマーム派)を国教としている。イスラム教では少数派のシーア派がイランでは多数派と言うことで、イスラム教徒だがアラブ人と違うというイラン人のアイデンティティとあっているように感じる。ただし、イランでシーア派が主流となったのはサファヴィー朝からのこと。

その他、ゾロアスター教はイスラム化以前に中心となった宗教で、アケメネス朝やササン朝では重視されているし、キリスト教のアルメニア人もいる。

トルコ、ギリシャで見る目のお守りも見かける。

歴史と文化

現在のイラン人はイスラム教徒であるというアイデンティティを持つ一方、それ以前の古代から輝かしい歴史を持っており、自分たちはアラブ人と異なるアーリア人の末裔だという誇りの二つを持っている。

長い歴史と高い文化を持ちながらも、アレキサンダー大王、アラブ人、モンゴル、そして近現代では列強の征服や干渉を受けてきた。正当なイマームが迫害されているというシーア派の教義と重なって、現在の国際社会での立ち位置につながっているようにも感じる。

歴史

歴史は古く、エラム人によるエラム王国が栄えていたが、その後アーリア人が侵入し、アケメネス朝(BC550-BC330、キュロス2世によって興され、ダレイオス1世によって拡大された)が起こるが、紀元前330年にアレキサンダー大王によって倒された。ササン朝(226-651)が起こるが、651年にイスラム軍によって倒される。13世紀にはモンゴルの侵入を受けてイル・ハーン朝(1258-1353)が興る。その後、ティムール朝(1370-1507)、サファヴィー朝(1501-1736)、アフシャール朝(1736-1796)、ザンド朝(1750-1794)、ガージャール朝(1794-1925)、パフラヴィー朝(1925-1979)が起こり、1979年にはイスラム革命が起こり、イスラム国家になって現在に到る。

イランという名称自体アーリア人という意味で、自分たちはアラブ人ではなく、アーリア人の末裔だという意識があるようだ(ただし、このアーリア人というのは歴史的にもいろいろな議論がある概念。)。

文化

イランはイスラム文化圏ではあるが、イラン人はアラブ人ではないし、言葉はアラビア文字を使うものの、アラビア語ではなくペルシャ語。

イスラム革命後はイスラム教による統治が行われているため、公共の場では女性は髪の毛を隠し、体型を隠す服装をしなければならない。これは、外国人観光客にも適用される。普通の服も店で売っていたりするので、家の中では普通の格好をしているのかも。

また、飲酒はできない。ただし、ノン・アルコール・ビールは存在し、よく飲まれている模様。でも、日本のそれとは違って、シャンディ・ガフのように甘い。いろいろな果物の味のものがあり、ジュースに近い。

全体として、ちょっと校則が厳しい高校生みたいな生活でしょうか。

料理

中央アジア、中東の料理といった感じだが、長粒種の米も出る。主食は薄っぺらいクレープの皮のようなナン。

レストランではメインはそれほどバラエティがないように感じるが、野菜はサラダバーになっていたりして種類が多く、充実している。

スープは肉も少し入っているけど、豆とか大麦とかがたくさん入っている。味付けはやや酸っぱかったりするものもある。

煮込みも大変多い。

肉は豚は出てこないものの、羊、鳥、牛、そして魚も出てくる。肉と米がメイン、ということが多いが、なぜか米の上に肉をのせるのではなく、肉の上に米をたっぷり盛る。

野菜が非常に多く、毎回サラダが出るし、メニューもナスのシチューとか野菜中心。肉も食べるけど、日本にいるときの2〜3倍は野菜を食べていたと思う。サラダでも料理でもトマトが毎食のように出てくるので、トマトが嫌いだとつらいかも。

アイスクリームはサフランアイスが定番。砂糖の摂取は多め。サフランの香りをつけた氷砂糖のようなものもある。これは紅茶と一緒に出てくる。

その他、なぜかデザートではゼリーが幅をきかせている。けばけばしい原色で、なぜか堅めなことがある。

スーパーマーケットでもケチャップ売り場、ゼリー売り場が妙に充実していた。

トイレ

これが一番ハードルが高い。まず、便座は金隠しがない和式便所のようなもので、紙はなく、シャワーで洗うものらしい。便座が洋式の場合でも、このシャワーは付いている。紙が備え付けられていても、他の中東やギリシャと同様、紙は流すと詰まるので、流してはいけないらしい。

小便器は見かけず、男性用トイレでも個室にこのイラン式トイレがある。イラン人男性が立って用を済ませているのか、座って用を済ませているのか不明で、このシャワーのせいか、たいてい周りもびしゃびしゃに濡れている。

また、街中では紙はもちろん、水が流れない、鍵がかからないなど、我々がトイレに望む基本的な機能を欠いている場合がある。

いつも思うが、日本のウォシュレットが普及すればみんな満足するのに。

通信事情

これは相当にやっかい。

ホテルには無線LANが整備されているが、あまり速くない。そして、twitterやfacebookは規制されていて接続できない。LINEは可能な模様。その他、書き込みのできるブログも一部だめらしい。こうしたときにはたとえば中国でも、携帯電話のローミングサービスを使えば読み書きできるが、なんとイランはドコモの国際ローミングサービスの対象外ということで、イラン国内では電話はできるようだが、データ通信はできない。お手上げ。しかし、プロトコルが違うのか、なぜかスマートフォンの通知は来る。

VPN Gateを使ってYoonoデスクトップを通じて読み書きするとtwitterは不安定ながら接続できたが、facebookは全然だめ。

通貨

リアル。

インフレの影響と思うが、50$を両替したところ、1,400,000リアルになった。

街にはATMがあってイラン人が使っているが、経済制裁の影響で、国際カードは使えないとのこと。また、同様にクレジットカードも使えないので、現金を持ち込んで両替する必要がある。US$やユーロは簡単に両替できる。

ビザ

必要。インターネットから申請する仕組みがあるが、サーバーがダウンしているため、使えない。今回は旅行会社を通じて取得した。

パスポートを更新してすぐにイスラエルに行ってしまい、テルアビブの空港では入国スタンプを押されなかったものの、エイラットからヨルダンのペトラ遺跡を見に行った帰りに押されてしまった。しかし、ビザは問題なくとれた。

政治体制

イスラム革命後、政教一致の政治体制となっている。大統領は4年に1回選挙で選び、議会の議員も選挙する。ただし、大統領は権力のトップではなく、イスラム法学者である最高指導者が三権の頂点に立つ。また、選挙も適格性の審査に合格しないと立候補できない。

とはいえ、きちんと選挙が行われてきており、一定の民意が指導者層に示されている点で、サウジアラビア、中国、北朝鮮といった国々の体制とは明確に異なる。

新聞はいろいろな種類があり、保守派から改革派まである。テレビはほぼ普及しているが、国営のみで、指導者の意見に沿った内容を流している。衛星アンテナを見て外国の放送を見ている人も多いのでは、という話。フィナンシャルタイムズの記事によれば、「インターネットと携帯電話の普及率はそれぞれ55%、126%と中東でもトップクラス」とのこと。また、国民が海外旅行することも普通にできる。なので、制限はされているものの、国民が外の世界を知らないわけではないと思われる。

独裁者への対抗勢力としてイスラム教が力を持つというのはエジプトなどでも見られる話だが、本当に独裁者に変わって宗教指導者が権力を握ってしまったのがイラン。ただ、それによる曲がりなりにも安定した体制の下で、徐々に徐々に変わってきている。

交通

意外に道がよく、自家用車もたくさん走っている。新興国にありがちな、むやみやたらにクラクションを鳴らすようなことはなく、意外に町は静か。道を横断するときは止まってくれる。

ただし、検問所が多数あり、大型バスはいちいちそこでチェックされる。走行記録をUSBにデータとして入れて提出して確認するらしい。

関連リンク

Wikipedia

イラン

テヘラン

エマーム・ホメイニー広場の交通

テヘランはイランの首都で、イラン北部のアルボルズ山脈の麓にある。東京とはほぼ同じ緯度。

イラン旅行で2015年5月1日(金)に成田からドバイ経由で到着し、1泊して5月2日(土)にアフワーズに向けて出発。

Wikipediaのテヘラン情報

到着

2015年5月1日(金)入国

あろうことか直前に風邪を引いてしまい、鼻水がひどくてだるい。2015年4月30日(木)の朝、病院に行ってから、夕方に京成スカイライナーで成田空港第2ターミナルまで。第3ターミナルなんてものができているし、確か以前はシャトル電車のようなものに乗ったところが歩いて行くようになっていた。ポケットティッシュを大量購入。

成田空港を初めてのエミレーツ航空EK971のB777-300で22:00にドバイに向けて出発、3:00前にドバイ空港に到着。酒も飲まずにひたすら寝ていた。

夜が明けたドバイ空港をエミレーツ空港のEK971のB777-300ERでテヘランに向けて7:45に出発。この便までは酒が飲めるが、禁酒してひたすら睡眠。11:15にテヘランのエマーム・ホメイニー空港に到着。ここで女性たちはヒジャブをまとう。

入国審査の係員はにこやかで、イスラエルの入国スタンプをちらっと見られたが、何も言われなかった。しかし、なぜか我々のツアーだけ別室の前に呼ばれたが、ここでもしばらくすると解放された。結局何だったのかわからなかった。その後バスでテヘラン市内に出発。

2015年5月8日(金)出国前

エスファハーンからバスで、カシャーンゴムを経由して到着。

宿泊

FERDOWSI HOTEL

イランに到着した2015年5月1日(金)から5月2日(土)に1泊、イランを出発する前の5月8日(金)から5月9日(土)に一泊。

エマーム・ホメイニー広場と、同名の地下鉄の駅に近い大型のホテルでセキュリティボックスもあってきれい。近くにはイランの外務省がある。

ちなみに、フェルドウスィーとはサーマーン朝およびガズナ朝時代に活躍したペルシャ詩人(Wikipedia)であり、ペルシャ歴代の王や英雄を詠った叙事詩『シャー・ナーメ』(王の書)を描いたことで有名。

交通

地下鉄が走っている。チケットの自動販売機があり、英語表示も選べるが、お札を飲み込んだままエラーになった・・・。

地下鉄の駅や車輌は新しく、英語表示もある。「女性専用車両」があるが、それ以外は男性だけではなく女性も乗れる日本と同じ形式。

ちなみにバスは男女で前後に完全に分かれている。そうかと思うと、飛行機はまったく男女おかまいなしに席が決められる。

テヘランの観光その1

イランに到着した2015年5月1日(金)はテヘランを見学。

街は人通りも多く賑やかで、街路樹が並ぶ道にはプジョーやルノーの車がひしめいている。フランスの自動車大手プジョーシトロエングループ(PSA)にとっては、経済制裁前までは世界第2位の市場だったらしい。日本車はないことはないが少ない。全体的に白い車が多いように感じる。

テヘランに限らず、だが、交通のマナーは比較的よく、信号は少ないが、人が渡ると車は止まってくれる。また、日本とは比べものにならないものの、それほどクラクションをがんがん鳴らしたりはしない。

モスクや博物館などにはホメイニ師やハメネイ師の写真が飾られていることもあるが、街にはサムスンやソニーのスマートフォンの看板があり、オバマ大統領の写真まであった。

イラン考古学博物館

2015年5月1日(金)に見学。

本館と別館があるようだが、見学できたのは本館。ワンフロアしかないが、主に古代の展示を見ることができる。

さすがに文明の発祥地のオリエントなので、紀元前の整った陶器がある。絵が描かれたものもあるが、概して表面は平滑で、こうしてみると日本の縄文土器がいかに特徴的なのかが分かる。

チョガザンビルから見つかった雄牛の像は全身が残っている。牛は力の象徴であり、牛を神聖視する考え方はアーリア人が古くから持っていたのではないか、とのこと。

アケメネス朝の「謁見図」はペルセポリスにあったもので、その名の通り、王に臣下が謁見している。登場人物はすべてひげが生えているが、王とその後ろに控える後継者は特別長いひげを生やしている。また、すべての人物が左足を前に出しているが、これはエジプトから来た職人が作成した可能性もあるとのこと。王が手に持っているのは蓮の花で、蓮の花はイランを代表する花だったとのこと。仏教は蓮を特別視しているし、日本の観音様も蓮の花を持っていたりする。時代はずっと後だが、何か関連・影響があるのかもしれない。

アケメネス朝のダレイオスI世の像はスーサ近くから見つかったもので、胸から上が失われているが、服のたるみの形式的な表現は、石像と木造の違いはあるが、これまた平安時代前期のの仏像の翻波式衣文の表現との共通性を感じる。よく見ると、字が刻まれている。

そのほか、ペルセポリスから発見された素晴らしく写実的な牡牛の柱頭や階段のレリーフ、時代が下ったササン朝のものと思われる塩付けになっていたソルトマンが展示されている。

レストランで昼食

2015年5月1日(金)、イランで初めての昼食はレストランで。早速羊の肉と、ポロウ(ピラフ)。羊の肉は喉の肉だそうで、骨付きだが癖がなく、おいしかった。飲み物は当然アルコールはないが、ノン・アルコール・ビールが充実している。

絨毯博物館

2015年5月1日(金)に見学。

ペルシャ絨毯は垂直に建てた台に縦糸を張り、そこに糸を結びつけては押さえつけて織っていく。大きなものを織るときは進む毎に織手の台を上げていき、複数が横に並んで織るときは定期的に順番を変えて織る強さに差が出ないようにするという。織ったときは3cmくらいあってもすり減って5mm位となるが、そうなったほうが価値が高いという。

地方毎に模様のちがいがあるが、植物に加えて鳥なども描かれている。19世紀頃のものになると人物もかなり取り入れられている。このあたり、「イスラムは人間を描かない」というステレオタイプが必ずしも当てはまらないことがわかる。

ペイズリー模様というのは、風になびく糸杉の模様だそうだ。

ちなみに、イランのホテルに泊まるとやっぱり絨毯が引いてある。

アーブギーネ博物館(ガラス&陶器博物館)

2015年5月1日(金)に見学。

ヨーロッパ風の建物に古代からのガラスと陶器が展示されている。陶器も古いがこれについては中国のもののほうが素晴らしいように感じる。しかし、ガラスは素晴らしい。説明の年代表示が間違っているのではないかと思うほど古い、紀元前からのガラスがある。

夕食

2015年5月1日(金)、イランで初めての夕食はホテルで。近くにドイツ人の観光客もいて賑やかだった。羊肉とポロウ(ピラフ)。

テヘランの観光その2

2015年5月8日(金)〜5月9日(土)、再びテヘランに戻ってきて最後の見学。

夕食

夕食は宿泊しているホテルでケバブ。それにしてもよく米を食べた。

タジュリーシュ広場とサーレ聖廟

夕食後に地下鉄でまでタジュリーシュ広場まで行き、サーレ聖廟。やはりシラーズのダニエル聖廟と同様、中がキラキラ。

休日の金曜日だったこともあり、町に人通りはあるものの、結構早く地下鉄の終電が終わってしまったので、タクシー(白タク?)でホテルに帰還。まるでゲームのように荒い運転で、かなりどきどきした。ホテルの場所を知らないらしく、周りの人に聞きまくってホテルに到着。

エマーム・ホメイニー広場

2015年5月9日(土)、朝食後にホテル近くを散策。

エマーム・ホメイニー広場まで行くとかなりの交通量。背景にアルボルズ山脈が見える。店が並ぶが扱っているもので固まっているようで、広場の周りには電気街の様な一角があり、ゲーム機やら、なぜかテレビのリモコンやらを売っていた。また、別の一角は衛生陶器を扱っている。堂々と展示しているのは洋式便器で、散々お世話になったイラン式便器は申し訳程度に下の方に置いてあるだけだった。

マーシュ広場

ホテルをチェックアウトした後は、歩いて町へ。

外務省はホテルの近くにあり、ペルセポリスの意匠を貼り付けまくった建物。その前はマーシュ広場となっていて、門がある。

平和博物館

さらに歩いてシャフル公園。公園の中に平和博物館がある。2005年にできたというワンフロアの小さな博物館だが、中心はイラン・イラク戦争での化学兵器の被害。実際に従軍して被害を受けた方が体験を話してくれる。

広島の協力もあったようで、日本の中国進出、原爆の被害の展示もあり、日本語のパンフレットまであった。

ゴレスターン宮殿

歩いて世界遺産のゴレスターン宮殿に。ガージャール朝時代の宮殿群で、18世紀のタイルが残されている。パフラヴィー王朝の戴冠式も行われたという。

入ってすぐにタフテ・マルマルという建物があり、シラーズの大理石で作った玉座があるが、背景がきわめて残念。

中に入れる建物もあり、ヨーロッパの宮殿のような豪華な内装や、これでもかというくらいの食器セット、美術品が見られるが、ここは写真を撮ることができない。アメリカ人らしい旅行客のツアーもいて、ちょっとびっくり。

建物はどれも華麗なタイルで装飾されているが、よく見るとどれも面白い。この時期になるとヨーロッパの影響も受けたと思われる意匠も見られる。裸の天使らしき絵もあって、やはりイラン、そして宮殿、この時期になると人間の具象画に対するタブーはあまり強くないようだ。

このライオンの絵も面白いもので、背中に「顔」を背負っている。これは、太陽を背負ったライオンで、太陽は女性であるので、女性の顔を描いてあるとのこと。これはウズベキスタンで見たぞ。ブハラのナディール・ディヴァンベギ・メドレセサマルカンドのシェルドル・メドレセでも太陽に女性の顔が描いてあった。ペルシャ文化の広がりですね。

これはライオンと龍がかみ合っている絵。

これはパルティアンショット。正倉院にも残っているこれぞペルシャの意匠と思っていたが、実のところ、イランではそれほど多く見なかった。

最後の出口近くの装飾。こうなるともう人間を描くのはありありということになるが、よく見るとこれはとても変な絵。外で宴会をやっている平和な図だと思うが、両端の下には、剣を持って悪いことをしている人がいる。なぜか隣接した絵もこの意匠で、何か意味があるのでしょうか。

昼食

ゴレスターン宮殿からバスでバスでレストランに移動して、昼食はアブ・ギューシュト。野菜と肉を煮込んだスープで、スープをとりわけ、具を棍棒でつぶし、スープにはナンを崩して入れて食べるという料理。一緒に作った具とスープをなぜ分けて食べるのかは不明。

宝石博物館

さらにバスで移動して宝石博物館。ここは銀行の地下倉庫にあって、警備は厳重で、カメラも含めて何も持ち込めない。

ここはすごかった。本当にすごかった。

ダイヤモンドやエメラルドって、こんなに大きなものがあるのでしょうか。王冠や剣のさやに、これでもかと宝石をはめたものがあるが、それでも足りずにまるでおはじきケースのようにダイヤやエメラルドがごろごろと飾られている、というか置いてある。

世界最大とされるピンク・ダイヤは182カラットだそうだ。宝石地球儀というものがあり、34kgの純金と、3,656gの宝石でできている。海はエメラルドがはめられ、陸はルビーがはめられていて、イランのあたりはダイヤがはめられている。

買ってきたパンフレットによると、これらの宝石の価値は「わからない」としか言い様がないそうだ。イスタンブールのトプカプ宮殿の宝物館もすごかったが、全く比べものにならない。イランにこんなに宝石が集まっているとは知らなかった。これは革命が起きるよ。イランに行ったら、絶対に見るべき。

アーザーディータワー

テヘランの町の最後はアーザーディータワー。写真を撮っただけだが、背景にアルボルズ山脈がよく見えた。

スーパーマーケット

イラン・リアルの最後の使用、ということでスーパーマーケット。

イランの料理は毎回トマトだったが、ケチャップ売り場が妙に充実していた。また、デザートではおきまりで出てくるゼリーの粉末のコーナーも充実していた。

エマーム・ホメイニー廟

エマーム・ホメイニー空港へ向かう途中でエマーム・ホメイニー廟を写真撮影だけ。まだまだ建設中の模様。

出発

2015年5月2日(土)アフワーズへ

朝3:30に起きて、国内空港のMEHRABAD空港までバス。車内で朝食。国内専用だがいろいろな会社の飛行機があり、ただし、B777やB737はあまりみない。イラン航空IR411のMD-80でアフワーズ(AHWAZ)に向けて6:00過ぎに出発。6:05発の予定で、いつもなかなか時間通りにはならないようだが、あまり時間が遅れずに出発できた。

2015年5月9日(土)イラン出国

エマーム・ホメイニー廟を見た後、エマーム・ホメイニー空港へ。

空港内で軽い夕食としてピザを食べたのがイラン最後の食事。

エミレーツ航空EK978のB777-300でテヘランのエマーム・ホメイニー空港を22:20に出発。飛行機に乗るやいなや、女性たちはスカーフを外していた。お疲れ様でした。

離陸に時間がかかったが、ドバイ空港に翌5月10日(日)の0:30頃に到着。

エミレーツ航空EK318のB777-300でドバイ空港を2:50に出発、成田空港に17:30過ぎに到着。いつものことだが、帰りの飛行機では気が抜けるのかどっと疲れが出て体調が悪くなり、せっかくイランを出国したのに一滴も酒を飲まなかった。

中央線が遅れていたので、スカイライナーで帰宅。

アフワーズ(スーサ)

アフワーズ

アフワーズはペルシャ湾とイラクに接したフーゼスターン州の州都で、ザグロス山脈の南にある。そのため、テヘランよりも暑く感じる。

イラクと近いことから、イラン・イラク戦争の際は多くの犠牲を出したとのこと。現在は石油とナツメヤシが主要産業とのことで、近郊にガスのパイプラインも見えた。

街自体は観光していないが近郊を訪問。世界遺産であるチョガザンビルに加えて、訪問した直後にスーサも世界遺産に登録された。

イラン旅行で2015年5月2日(土)にテヘランから到着し、1泊して5月3日(日)にシーラーズに向けて出発。

Wikipediaのアフヴァーズ情報

到着

2015年5月2日(土)にテヘランの国内空港MEHRABAD空港からイラン航空IR411で7:45に到着。飛行機は日本ではもう引退したMD-80で、なぜかペルシャ語、英語の他にロシア語表記が多くあった。

イランでは地下鉄はもちろん、バスも男女で区画が分かれていると言うが、飛行機の席は男女混合だった。

宿泊

Pars International Hotel

アフワーズの川沿いにある大型ホテル。泊まった部屋はとても広く、二部屋あり、ベッドもダブルベッドで極めて快適だったが、水が茶色かった。まあ、よくあることだが。

アフワーズ近郊の観光

アフワーズからチョガザンビル、スーサまで足を伸ばして観光。

この日の午後くらいからようやく体調が回復してきた。

チョガザンビル

チョガザンビルはエラム王国の遺跡で世界遺産。

周りは平野で何もないところにある。石油会社が調査をしている際に平原の中に隆起を見つけたことによって発見されたとのこと。ハムラビ法典はこの近くで見つかった。テヘランの考古学博物館にある牛もここで見つかった。

チョガザンビルとは逆さま(チョガ)の果物入れ(ザンビル)という意味で、ピラミッドのような105m×105mの神殿として使われた建物がある。辺ではなく角が東西南北に対応している。50m以上の高さがあり、これが古代(紀元前1250年ごろ)に作られたとは思えないほど。日本ではまだ縄文時代だった頃。積み直したりの修復はしているが、煉瓦は当時のもののままという。一般に、イランの北西は石の文化、東は土と煉瓦の文化という。

建築におけるアーチの利用はローマ帝国が有名だが、それよりも遙か前にこのチョガザンビルでアーチが利用されている。

神殿や各辺にある円筒形の構造物(日時計にしたか、生け贄の台と考えられている)には碑文が刻まれていて、この神殿を壊すと罰が当たると言ったことが書かれているそうだ。辺の中では朝日が昇る東側の面が立派にできている。

神殿の周囲は何重かに囲われていて、身分によって分かれて住んでいたらしい。

外縁部には墓地があり、そこを見てから出発。

Wikipediaのチョガ・ザンビール情報

ハフト・テペ

チョガザンビルの後はバスで移動してハフト・テペ。ハフト・テペとは7つの丘を意味する。

ここはエラム時代の墓地であり、18人の若い女性の遺体が発見された。

博物館も併設してあり、見学。

レストランで昼食。

バスで移動してレストランで昼食。

スープに野菜サラダ、ハヤシカレーのような羊肉の煮込み料理と白米を食べた。デザートは西瓜。

スーサ

昼食後はスーサにバスで移動して遺跡の見学。

スーサは訪問直後の2015年の世界遺産委員会で登録が決定された。

アケメネス朝は季節や機能に応じて複数の首都を持ち、スーサは冬の首都だったという。ちなみにペルセポリスは宗教の首都となる。

列柱(アパデナ)の基礎部分など、アケメネス朝時代の遺跡が残されている。柱は石で作られ、そこのレバノン杉の梁が渡されていたという。この場所は周囲から高台となっており、その前のエラム時代から利用されていたとのこと。

100年ほど前にフランス人のデ・モルガンが発掘に当たったが、なんと彼は遺跡の石を利用してとなりに城を建ててしまった。

博物館が併設されており、見学。かなり暑かったので、博物館のクーラーが快適だった。

Wikipediaのスーサ情報

ダニエル廟

川を渡ってダニエル廟。旧約聖書に出てくるダニエルの墓とされている。

ダニエルの遺体はもともと川底に埋葬されており、雨が降らなくなると運び出してお祈りしていたらしいが、イスラム化された後に廟になった。

男性はそのままで良いが、女性はさらに大きなベールをかぶらなければ入れない。中は男女別。靴を脱いで入ると、鏡がきらめくまばゆい空間の中に格子の中に石でできた棺のようなものがあり、周りにはたくさんの紙幣が投げ込まれていた。横になっている人もいれば寝ている人もいて、中にいた人がナッツをくれた。

夕食

夕食は魚。ペルシャ湾で獲れた鱈の仲間らしいが、塩味を聞かせた串焼きになっていて、おいしかった。

出発

2015年5月3日(日)、朝食後にバスでシラーズに向けて出発。この旅行最大の移動で600km。アフワーズ周辺にはガスのパイプラインが見えて、煙突からガスが燃えている様子が見えた。経済制裁のために最後までガスを利用する技術が導入できず、燃やしている、とのこと。

シーラーズ(ペルセポリス)

シーラーズの裁判所

ファールス州の首都であり、バラで有名。ザンド朝時代の首都であった。ペルセポリスの観光の起点ともなる町。東アフリカのザンジバル島にいるペルシャ出身のシラジという人達は、ここの出身とされている。

イラン旅行で2015年5月3日(日)にアフワーズから到着し、2泊して5月5日(火)にヤズドに向けて出発。

Wikipediaのシーラーズ情報

到着

2015年5月3日(日)にアフワーズからバスで一日ひたすら走って到着。

途中のヌーアバットで名物の鳥料理で昼食をとり、タンゲ・チョガンのリリーフ、ビシャプール遺跡と博物館、タンゲ・ボルハヤットを通過。

ヌーアバットで昼食

2015年5月3日(日)にアフワーズからシーラーズに向かう途中、ヌーアバットのレストランで昼食。ここの名物は鳥まるごとの中に干しぶどうやザクロの実を詰めて煮たもの。ガイドが手で豪快に取り分けてくれたがおいしかった。

タンゲ・チョガンのリリーフ

ビシャプールの向かいにあるササン朝時代のレリーフ。こうしたレリーフは交通の要所に設けられ、宣伝に用いられた。

ササン朝(226-651)はペルシャの歴史における帝国の一つで、前の大帝国であったアケメネス朝の継承を意識しており、ゾロアスター教を重視していた。

川沿いの崖にレリーフが残されているが、アラブとの戦いを示すレリーフは、左に王、右にペルシャ人に先導されたアラブ人(らくだが見える)を配置しているが、中央部が水平にえぐり取られてしまっている。何でも、パイプラインを通したときに削った。ということらしい。惨すぎる。

別のレリーフは、王権神授図と呼ばれるもので、ササン朝の王バハラーム1世が、左のゾロアスター教の神アフラマズダから王権を象徴するリングを渡されているところ。こうした王権神授図は、ササン朝の王が正統であることをアピールする意図がある。

暴徒を鎮圧したバハラム2世のレリーフは、中央に王、左に兵、右に手を縛られた暴徒が配置されている。王は横顔ではなく正面を向いているが、こうした表現はササン朝からとのこと。

ビシャプール遺跡と博物館

ササン朝時代にシャープールI世がローマ帝国の皇帝ウァレリアヌスを捕虜としたことを記念して作られた街。その後アラブ人は神殿を破壊したが利用し、イル・ハーン朝時代は学校をモスクにするなどして使い続けられた。

柱や浴場の跡が残されている。

宮殿

宮殿は十字形をしており、これはアーリア人の象徴であるチェリパという形であるとのこと。

壁面には64のくぼみ(ニッチ)があり、また、かつては色がつけられていたらしく、一部に赤が残っている。かつてはペルシャ初めてのドーム型の屋根でおおわれていたという。

アナヒタ神殿

アナヒタは水の神。観音菩薩とも関連があるとされているそうだ。神殿は半地下のようになっており、屋根はない。井戸から導かれた水が周囲を巡るようになっている。

イラン人の女学生?の集団も見学に来ていて賑やかだった。

タンゲ・ボルハヤット

アケメネス時代の「王の道」、アレキサンダーの東征、シルクロードの3つの道が通る(通った)切り通し。

アケメネス朝のダレイオス1世は、国内に道を整備し、これが王の道であり、一定距離毎に宿も設けられた。

宿泊

Park Hotel

市の中心部、キャリーム・ハーン城塞の近くにある。大きな庭があり、食事はそこでとることができる。

例によって部屋にはメッカの方向を指す「ゲッブレ」というサイン。

鳥料理の夕食

2015年5月3日(日)は長距離を移動して、シラーズ市内のホテルPARK Hotelに着いたのは暗くなってから。中庭で夕食で、昼に続いて鳥。これは鶏肉を広げてカツレツにしたもの。スープは一見スペインのガスパチョのように見えるが、味は違った。

シラーズ市内(その1)

マスジェデ・ナシーロル・モルク(ローズ・モスク)

2015年5月4日(月)、ホテルで朝食後にバスで出発して午前中に見学。

1871-1883にハジ・ハッサン・アル・カーネ・ナシロール・モルクの命によって作られた。それほど古いモスクではないが、明るい装飾とステンドグラスが美しい。全体的にバラのピンクを使った装飾になっており、さらに当時はヨーロッパの影響を受けていたため、花の模様の中にヨーロッパ風の家が描かれるなど、細かいディテールにそれが現れている。

冷暖房がない時代に作られたため、季節によって涼しい場所を選べるよう、祈る場所は中庭を囲んだ四方にあるが、何と言っても有名なのは西側の部屋で、午前中はステンドグラス越しに太陽光が差し込む。

記念撮影している観光客多数。確かにきれいではあるけども、何だかゴシック教会みたいで、ちょっと色物かな、という気も。

ペルセポリス、ナグシェ・ラジャブ、ナグシェ・ロスタム

ローズ・モスクを見た後は、シラーズ市内を出て、アケメネス朝、ササン朝の遺跡巡りへ。

ペルセポリス

ペルセポリスはアケメネス朝の宗教都市で、ダレイオス1世が建設したが、紀元前331年にアレキサンダー大王によって破壊されてしまった。現在は石の柱しか残されていないが、かつてはレバノン杉による屋根がかけられていたという。当然のことながら、世界遺産。

ペルセポリスとは、ギリシャ語でペルシャ人の町という意味。アケメネス朝でペルシャ人たちがそう呼んでいたのではない。

パフラヴィー朝のモハンマド・レザー・パフラヴィー(パーレビ国王)は、莫大な金を使ってこのペルセポリスの遺跡で1971年にイラン建国2500年祭典を開催して国民の反感を買い、1979年のイスラム革命につながった。イラン社会では歴史的にイスラム聖職者が力を持っているが、それに対立する勢力はイスラム化前の古代の歴史にアイデンティティを求める傾向にある。

入口の大階段

ペルセポリスは全体が石の基壇の上に載っている。この石組みは紀元前に作られたとはとても思えないほど隙間なく出来ていて、インカ帝国の石組みを思い出させる。

階段の段差は低いが、これは動物を通らせるためではなく、荷物を運ぶためとのこと。

クセルクセス門

台の上に登るとクセルクセス門があり、人面有翼獣神像が現れる。

双頭鷲像

体はライオンで顔は鷲の双頭鷲像。双頭の鷲というのはイラン航空のシンボルにもなっているだけではなく、後のヨーロッパでもシンボルに使われたもの

百柱の間

その名の通り、柱が立ち並ぶ広間。北側から入ると門にびっしりとレリーフがある。丸い帽子をかぶった兵士と四角い帽子をかぶった兵士が互い違いに並んでいるが、四角い帽子がメディア人、丸い帽子がペルシャ人で、両者の友好を意味していると言われる。周囲は蓮を模した連珠文で囲われている。

一方、西側の門のレリーフは、王とライオンが組み合い、王がライオンに剣を突き立てている。

東階段

東階段のレリーフはとても紀元前とは思えないほど、きれいに残っている。アケメネス朝ペルシャが統治していた23の属国が贈り物を献上する様子が描かれている。それぞれの属国のグループは糸杉で区切られていて、各グループはペルシャ人、メディア人が先頭に立って手を引いている。

階段の上の階段状の山はゾロアスター教のシンボル。ライオンが牛を襲う図は季節の移り変わりを示すという説がある。

ちょっと見にくいが、車輪の軸に女性の顔が描かれている。

クセルクセス1世の後宮

一番奥にはクセルクセス1世の後宮があるが、ここはあまり残っていないが、王が歩く後ろから一人の従者が傘を差し掛け、もう一人の従者がホッケーのスティックのようなもので虫を払っている。

ペルセポリスの東側のラフマト山にはアルタクセルクセス2世、アルタクセルクセス3世の墓があり、ここからはペルセポリスの全体を見下ろすことが出来る。

墓に登ってから博物館を見学。

レストランで昼食

ペルセポリスの近くのレストランに行き、屋外で食事。ナスのシチューの他、イランの名物だというドゥアグというヨーグルトのような飲み物を試したが・・・。飲んだ瞬間???という味。確かにヨーグルトがベースのようだが、塩味が強く付いており、さらに歯磨き粉のようなミントの味がする。一つ一つの味なら美味しいのかも知れないし、このうち二つの味ならそれなりに飲める気がするが、三つ重なると・・・。まあ、良い思い出になったと言うことで。

ナグシェ・ラジャブ

コの字型に3つのササン朝のレリーフがある。王がゾロアスター教のシンボルを受け取っている図。ササン朝はその王朝の正統性を示すためにゾロアスター教を利用していて、この構図が良く見られる。

ナグシェ・ロスタム

アケメネス時代の十字型の墓の下に、ササン朝時代のレリーフが追加されている。これもアケメネス朝にあやかろう、ということかも。ここに来たら、突然強風になった。

墓とレリーフの向かいに建物がある。これは何に使われていたのかははっきりしないとのこと。

奥のレリーフはまた王がゾロアスター教の神、アフラマズダから輪を受け取っている王権神授図。アフラマズダが持つ棒はバルサムと言うらしい。

シーラーズ市内(その2)

バスでクルアーン門の横を通り、シーラーズ市内に戻った。

町の真ん中にはキャリーム・ハーン城塞が陣取っている。角の塔はわざとではなく、傾いてしまったという。

歩道には糸杉が植えられている。ペイズリー模様は、この糸杉が風になびく様子から作られたという。

エラム庭園

ガージャール朝時代に作られた庭園。「ペルシャ式庭園」はシリアル・ノミネーションとして9つの庭園が世界遺産に登録されているが、このエラム庭園はその一つ。

シーラーズ大学にも隣接し、若者が多い。カップルも多い。

イランの学校は、小学校は共学だが、中学校、高校は男女別。それが再び大学で共学になる。男女別にすると女性の教師の需要も増えるし、女性の進学率はどんどん上がっていき、大学は63-64%が女性だという。

庭園に立つエラム宮殿もガージャール朝時代に作られたものだが、タイルの絵はかなり自由で、人間がたくさん書かれている。というか、ヌードの女性まで描かれている。ここでも、イスラム教は偶像を描かない、というステレオタイプが覆される。

アリー・エブネ・ハムゼ聖廟

中に入るには、女性はチャドルをかぶらなければならない。中庭の床は隙間がないほど墓になっている。聖廟の中は、男女別。天井が鏡でできており、きらびやか。

バザーレ・ヴァキール

バザールを少し見て、チャイハナで紅茶。トルコのようにガラスに入れて紅茶が出てきた。

レストランに行って夕食

バザールから歩き、ホテル地下のレストランで、ポロウ(ピラフ)で夕食。生のタマネギが付いている。

その後歩いてホテルに戻って就寝。

パサルガダエ

2015年5月5日(火)、シラーズのホテルを出発。パサルガダエへ。

パサルガダエはアケメネス朝の政治の首都とされていて、世界遺産になっている。さらに、パサルガダエの中の庭園、というか庭園の跡は、ペルシャ式庭園の構成要素の一つとして別途世界遺産となっている。

見晴台

まずは丘の上にある見晴台へ。ここからはパサルガダエを一望できる。

石の塔

この建物は、ナグシェ・ロスタムにあった塔と同様、何に使ったのかはよく分からない。

謁見の間

謁見の間は柱が並んでいたが、切られてしまっている。

四角い柱には、古代ペルシャ語、バビロニア語、エラム語で「私はキュロス、アケメネスの王である」といった言葉が彫られているという。

宮殿

パサルガダエの敷地には水路が走っている。

レリーフには下半身が掘られているが、前の人は足が魚。魚は多産の象徴だという。後ろの人は牛か。牛は力を象徴している。

キュロス2世の墓

パサルガダエで一番有名な建物で、キュロス2世の墓の墓と伝えられている。アラブ人に攻められたときには、破壊されないようにソロモン王の母の墓だと偽ったために、しばらくはその名で呼ばれていた。

出発

2015年5月5(火)、朝食後にシラーズをバスで出発。パサルガダエを経由して、レストランで昼食。ご飯の上に肉をのせるのではなく、なぜかいつも肉の上にご飯をかける。

昼食後、バスでヤズドに470kmの長距離移動した。

ヤズド

ヒヴァのイチャン・カラ

ヤズドは砂漠にあるオアシス都市で、イスラム化される前からのイランの宗教であるゾロアスター教で有名な街。改革派の大統領だったハタミの出身地でもある。

イラン旅行で2015年5月5日(火)にシーラーズから到着し、1泊して5月6日(水)にエスファハーンに向けて出発。

Wikipediaのヤズド情報

到着

2015年5月5日(火)にシーラーズからパサルガダエを経由して、夕方にバスで到着。

宿泊

Fahadan Museum Hotel

古い建物をホテルに改装したもので、旧市街の中にある。それぞれの部屋の形や広さは異なり、設備は現代的ではないが、雰囲気がとても良かった。

ヤズドの街

沈黙の塔

2015年5月5日(火)にシーラーズからパサルガダエを経由して、長距離移動。まずはヤズドの外れにある沈黙の塔へ。

これは、20世紀の初めに禁止されるまで、ゾロアスター教が鳥葬を行った場所で、左の男性用と右の女性用の丘が別れている。低い女性用の丘を登ったが、丘の上は円形の壁で囲まれ、壁の中はドーナツのように真ん中に穴が開いている。この壁の中で鳥葬が行われ、終わると真ん中の穴に埋葬されたという。

アミール・チャグマーグのタキーイェ

街の中心の広場に面して建つ。ヤズドの建物で特徴的な、二本の高いミナレットが目に付く。

イランの古式体操ズール・ハーネ

広場から近い建物の地下で、ズール・ハーネ見学。

賑やかな太鼓と歌に合わせて、若者から年寄りまでの男性が、腕立て伏せ、旋回、棍棒を行う。

人によって体格も随分違っていて、体力も全然違う様子。

歌の内容は詩とのこと。男女の観光客が多く、ややショーになっている感もあるが、全体的に進行はのんびりしている。

夕食

この日はホテル近くの旧市街の中のレストランで夕食。ホテルに戻って就寝。

旧市街の街歩き

翌朝の2015年5月6日(水)は、朝食後に旧市街の街歩き。

ドア

旧市街の家のドア。ウズベキスタンのドアのように、民家でも凝った彫刻は見られないが、面白いのはドアノッカー。左右に形が違うものがあり、音が異なるようになっている。これで、男性が来たのか、女性が来たのかを知らせる仕組み。

バードギール

ヤズドの街で目立つのが、バードギール。これは、屋根の上にある塔で、ここから風を屋内に取り込んで涼しくする仕組みになっている。

ラクダを駐める穴

真ん中の壁に開いているのが、乗ってきたラクダを結んでおく穴。こんなものが残っている。

マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)

旧市街を歩いて行くと金曜モスクにぶつかる。ゾロアスター教の神殿の跡地に建てられたという。異端で一番高いと言われるミナレットが目に付くが、それ以外のタイル装飾、ミフラーブの装飾も立派なもの。ドームも、4面の四角い部屋から、8角形、16角形、32角形とつないで円形のドームにつながっていくところがよく見える。

ゾロアスター教の神殿

インドに住むゾロアスター教徒(いわゆるパールシーですね)が建てたという神殿。後に出てくるアルメニア教会もそうだが、イスラム共和国のイランでも、普通にこういう施設がある。

ゾロアスター教は光を重視しているので、1500年前からという火が神殿の中で燃えている。日本語で拝火教というが、火を拝んでいるのではない。

外観の中央上にある翼を広げたような青いマークがゾロアスター教のシンボル。併設の博物館を見てから、ヤズドを出発。

昼食

ヤズドを出発してからレストランで昼食。

カルバン・サライ(隊商宿)

ヤズドを出発してから、少し道を外れてカルバン・サライを見学。サファビー朝時代のシャー・アッバースI世のときに999のカルバン・サライ(隊商宿)を整備した。ラクダで350-400kgを積んで一日に移動できる距離に相当する40km間隔で整備したという。

カルバン・サライは夜は門を閉めており、昼間のみ解放されていた。前面には外で待つ場合の、ラクダを駐める穴が開いている。

カルバン・サライの横には、よく地理の教科書に出てくるカナートがある。本物を初めて見た。これは、山からの水を地下水路で延々と引いてきて利用するというもので、地表を引かないことで水の蒸発を防いでいる。これも遠くに見える山から引かれている、ということになる。水は結構きれい。

出発

2015年5月6(水)、ヤズドから、朝食後にバスで出発。途中で昼食、カルバン・サライを見学して、エスファハーンに350km移動した。

エスファハーン

エマーム広場

エスファハーンとも、イスファハーン、イスファハンとも呼ばれる(ペルシャ語を表記するアラビア語ではイとエの区別はない)。サファビー朝はエスファハーンに遷都し、首都となってから宮殿やモスクが建設され、「世界の半分」と称えられた街が出来た。現在は人口150万人とイランで3番目に大きな街となっている。

サファビー朝時代に街を流れるザーヤンデ川に多くの橋が作られた。ハージュ橋はシラーズに行くための橋だったため、シラーズ橋と言われていた。

現在イランでは水不足が深刻となっており、ザーヤンデ川もダムによってせき止められて水がなくなってしまっているということだった。しかし、訪問したときには直前に3年ぶりに水流が再開されたということで、とてもラッキーだった。

イラン旅行で2015年5月6日(水)にヤズドから到着し、2泊して5月8日(金)に、カーシャーンゴム経由で、テヘランに向けて出発。

Wikipediaのエスファハーン情報

到着

2015年5月6日(水)にヤズドからバスで到着。

宿泊

Venus Hotel

街の中心部にあるホテルで、交通量が多いとおりに面している。ヤズドのホテルから一転して、ベランダがある広い部屋だった。

エスファハーンの街

2015年5月6日(水)に到着後、マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)、ハージュ橋、スィー・オ・セ橋を見学。翌5月7日(木)にエマーム広場も含めて本格的に観光。

マスジェデ・ジャーメ(金曜モスク)

まずは金曜モスク。これも巨大で、ゾロアスター教の神殿の上に立てられたエスファハーンで一番古いモスクだという。同じエスファハーンのエマーム広場とは別に、これ単独で世界遺産になっている。中庭を囲んで、四方にイーワーンがあり、シャベスターン(礼拝所)がある。この四方にあるというのがイランのモスクの特徴で、季節によって一番過ごしやすい礼拝室を使うのだそうだ。

後の時代にタイル装飾がされたが、漆喰、大理石で装飾されている部分が多く、派手さがない落ち着いた印象を受ける。

一つの礼拝所は天上がとても低く頭上をおおうようになっており、これはモンゴル(イルハーン朝時代か)のゲルを模して作られたのだという。

ちなみに、イラン・イラク戦争の際にはここまでミサイルが飛んできて一部が破壊されたという。このときにミサイル攻撃を受けたことが、後にイランがミサイルを開発することにもつながっていく。

ハージュ橋

3年ぶりに水が流れているというザーヤンデ川にかかる橋。立派な橋で、1666年に完成したということで、皆が座るところはてかてかにすり減っている。地元の人にも人気スポットとなっているのか、久し振りの水が珍しいのか、とにかく人が多い。話しかけてくる人もいて、何でも彼は土木技術を学ぶ大学生なのだそうだ。

橋のたもとにはライオンの像がある。よく見ると、口の中に男の顔がある。これは街を守った力持ちだそうで、ライオンの口の中にも入れるほど勇気があると言うことか。あと、なぜかこのライオンにまたがると結婚できるという言い伝えがあるそうだ。

スィー・オ・セ橋

ザーヤンデ川にはいくつも橋が架かっている。これはアーチの数からスィー・オ・セ橋(33の橋)と呼ばれ、車が通れないのでこれまたたくさん人が歩いている。

夕食

いつものような夕食。夕食後は近所の絨毯屋を見に行ってから就寝。絨毯は立派だが、お値段も立派。

アルメニア教会(ヴァーンク教会)と博物館

エスファハーンのザーヤンデ川の南岸には、ジョルファ地区と呼ばれるアルメニア人のコミュニティが存在している。アルメニア人はキリスト教徒であるため、アルメニア教会がある。これはその中でもきれいに管理されているもの。

外部こそイスラム教の建物のように見えるが、内部の絵画は圧巻。普通に人間を描いているし、裸の人もいる。イスラム教の国イランで、これほどのキリスト教の教会があるのにはびっくりした。自分がどこにいるのか分からなくなってしまいそう。

チャヘル・ソトゥーン庭園博物館

40本の柱という意味だが、実際には宮殿の柱は20本で、池に映って40本ということらしい。宮殿の内部にはサファヴィー朝時代の絵画が展示されている。ここに示した写真の絵画では、ペルシャの王様にトルクメニスタンから謝りに来たという設定らしく、誤っている方が右手を袖の中に隠しているのは、「手を出さない」という意味とのこと。

宮殿の外はその名の通り庭園になっていて、これも世界遺産のペルシャ式庭園の構成資産になっている。特に花が好き、というわけではないが、鮮やかなバラが咲いている庭園は美しい。

エマーム広場

エスファハーンの、というよりイランの観光の目玉のエマーム広場。もちろん、「エスファハーンのエマーム広場」として世界遺産になっている。長方形の広場で、向かって奥にマスジェデ・エマーム、右にアーリー・ガープー宮殿、左にマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーが配置され、広場全体をバザールとなった回廊が囲っている。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー

まずは難しい名前だけど、王族専用のモスクであるマスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラー。エマーム広場にアーリー・ガープー宮殿と向かい合うように立っていて、王族は地下道を通って移動したとのこと。

ミナレットがないので大人しい印象を受ける。青タイルの装飾が美しいが、ドームには光があたって孔雀のように見える仕組みになっている。また、マスジェデ・ジャーメにも見られたゲルのような低い天井がここにもあった。

昼食に鳥料理

ここで昼食。今回の昼食は鳥料理。いつものようにスープとノンアルコールビール。食後にはサフランアイス。

アーリー・ガープー宮殿

昼食後は再びエマーム広場へ。にわかに風が強まり、雨が降ってきた。雨男過ぎる。

マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーの向かいにあるアーリー・ガープー宮殿へ。3階建ての建物で、最上部はバルコニーになっていて、エマーム広場を見渡せる。

ここでも普通に女性の絵が描かれていたりする。最上部には音楽室というものがあり、壁が楽器の形にくりぬかれたしゃれた作りになっている。

マスジェデ・エマーム

さて、最後は一番奥のマスジェデ・エマーム。巨大なイーワーンとミナレットが広場に向き合っている。ここを入ると、右45°に曲がって中庭に出る。これは、エマーム広場自体が東西南北から傾いており、モスクをメッカのほうに向けているため。

中は工事をしているのが残念。中庭の建物としては角に進学校が配置され、礼拝室もある。黄色い、色合いが異なる部分があるが、これはガジャール朝がわざわざ違うタイルを使って加えたものらしく、中には動物も描かれている。

ちなみに入場料。英語で150,000リアルと書いてあるのだけど、上のペルシャ語の数字(インド文字)を見ると、20,000リアルと書いてある。注意してみるとこういうところは多く、要は「外国人料金」というものがあるということ。

エマーム広場のバザール

マスジェデ・エマームを見学した後は、バザールとなっている回廊の自由見学。雨が降って気温も下がってきた。衣服、ミニアチュール、金属加工品、食べ物とブロック別になっている。お土産に絨毯より安い更紗と、ピスタチオを買った。

雨で気温も下がってきて寒いので、チャイハナに入って時間つぶし。

夕食

夕食はエマーム広場近くのレストランで。

エマーム広場のライトアップ

夕食後はライトアップシリーズ。まずはエマーム広場の夜景。雨も上がってきた。

再びハージュ橋

ハージュ橋のライトアップ

さらにバスで移動し、昨日の夕方に見たハージュ橋のライトアップを見てから、ホテルに戻って就寝。

出発

2015年5月8(金)、朝食後にバスで出発。カーシャーンゴムを経由して、テヘランに移動した。

カーシャーン

イラン旅行で2015年5月8日(金)にエスファハーンからテヘランに行く途中に、ゴムの前に立ち寄り。

Wikipediaのカーシャーン情報

フィーン庭園

カーシャーンは、フィーン庭園のみの見学。この庭園もペルシャ式庭園として世界遺産の構成資産となっている。

金曜日で休日であることもあり、家族連れで賑わっている。こうして休日に自家用車でレジャーを楽しめる人って、どれくらいの割合なんだろうか。

砂漠との境界に位置しているが、わき水があるために古くから庭園が作られた。入浴施設もあるそうだ。園内には水が流れ、魚もいる。ここの建物にあるサファヴィー時代の絵にも普通に鳥が描かれている。

イラン人の観光客が多いということは、好奇心旺盛な彼らの標的になるということで、ツアーの人達も一緒に写真を撮ろう、と盛んに声をかけられていたし、私もテヘランのモハンメド君にメールアドレスを教えてくれということで教えた。それっきりだけど。

庭園の外には名物のバラを使ったバラ水などのおみやげ屋が並んでいて、ここも人が多い。若い女性の集団がいて、これは一緒に写真を撮ってもらった。

昼食

バスで移動して昼食。中東というと羊というイメージがあるが、サラダとしても料理としても毎回トマトを食べている。季節もあると思うが、トマトが苦手な人にはつらいかも。あと、毎回相当野菜も食べるし、米も食べている。

ゴム

コムとも呼ばれる。アラビア文字のカーフはアラビア語ではラテン文字のqの音だが、ペルシャ語では濁ってgの音になるようだ。

多くの進学校があるシーア派の宗教都市で、各国からの巡礼者や留学生を受け入れている。パフラヴィー朝末期には、イラン革命を主導したホメイニ師の活動の拠点となった。

イラン旅行で2015年5月8日(金)にエスファハーンからテヘランに行く途中に、カーシャーンに続いて立ち寄り。

Wikipediaのゴム情報(英語)

ハズラテ・マースーメ廟

ゴムは宗教都市なので僧侶が多い。外国から来た巡礼者も多いようだ。今でも一定以上のシーア派の勉強をするためには、ゴムで学ぶ必要があるという。

シーア派の8代目エマームの妹がこのゴムでなくなったと言うことで、サファヴィー朝の16世紀に大きな墓が作られ、神学校も作られた。観光客がどこまでは入れるか分からなかったので、現地ガイドが確認しながら中へ。女性は例によってチャードルをかぶらなければならない。

ここのドームは金色をしている。また、絵はやはり宮殿などと比べて保守的で、人などは書かれていないが、鳥が描かれているところはあった。肝心の廟の中は、観光客なので入れなかったが、中にはたくさん人がいた。

途中のドライブインでアイスを食べた。三角のコーンではなく、ハンバーガーのように挟まれている。

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