マルタ

最終更新日 2018年8月9日

バレッタのリパブリック通り

マルタは、イタリアのシチリア島のすぐ南にある島国。

2018年にマルタ語学研修で訪問。

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国について

国の概要

国の概要
国名マルタ共和国、Grand Duchy of Malta(英語)
国土イタリアのシチリア島のすぐ南にある。マルタ本島、ゴゾ島、コミノ島の3つが有人島だが、コミノ島はとても小さく、2人か3人くらいしか住んでおらず、実質的にマルタ本島とゴゾ島からなる。最大のマルタ本島でも264km2、淡路島の半分以下で、徳之島より大きく、西表島より小さい。
気候Cfb
人口約52万人(2012)
民族マルタ人。その他、ポルトガル人、イタリア人、バルカン系移民。
宗教カトリックが9割。
首都バレッタ
経済状況一人当たりGDP23,760ドル(2008)
時間中央ヨーロッパ時間(GMT+1)、ただし夏はサマータイムで1時間繰り上がる。
国番号352
観光客79万人(2010)

マルタの人口は海外からの流入で増加傾向にあるとのことで、街には建設工事のクレーンが目立つ。

言語

マルタ語、英語が公用語。

マルタ語は興味深い言語で、イタリア語(シチリア語)の借用語が多く、ラテンアルファベットで記述するものの、基本的にはアラビア語の方言(アーンミーヤ)であるとのこと。ラテンアルファベットであるものの、Ħのような特殊な文字もあるし、通りを意味するTRIQはトリアアのように発音するらしい。

スペイン語(正確ではないかも知れないが通じたもの)
ありがとうGrazziグラッツィ。イタリア語から来ている。
こんにちはBongu ボンジュ。フランス語から来ている。
こんばんはBonswaボンソワ。フランス語から来ている。

通貨

ユーロ。

チップ

必要な模様。長く英国の支配下にあったからかも。

ビザ

日本人は90日間まで必要ない。

歴史

イタリアのシチリア同様、複雑な歴史を持つ。

新石器時代から人間が住んでいて、タルシーン神殿などの遺跡が残されている。小さな島であるため、定住するためには農業が必要であった。

紀元前1000年ごろから海を渡ってきたフェニキア人に支配される。

紀元前400年ごろからカルタゴの支配を受けた。

その後、ローマ帝国の支配を受ける。

870年にアラブ人に侵攻し、イスラム帝国に支配される。

1127年かノルマン人に支配される。

1479年にスペインに支配される。

1530年にマルタ騎士団の所領となる。1565年にはオスマン帝国からの攻撃を受けるが撃退する。

その後、ナポレオンに占領された後、イギリス支配となり、第二次世界大戦を経て、1964年に独立し、2004年にEU追加。

このマルタ騎士団というのがポイントで、正式名称は「ロドスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会」」らしい。十字軍時代からの修道会で、聖ヨハネ騎士団と呼ばれていて、元々はエルサレムに本拠を置いていたが、エルサレムが陥落し、アッコーを奪われてから中東の本拠地を失い、キプロスに逃れ、さらにロドス島に逃れて「ロドス騎士団」と呼ばれた。。さらにオスマン帝国の攻撃を受けてロドス島も撤退し、マルタに落ち着いたのでマルタ騎士団と呼ばれるようになった。そのマルタもナポレオンに奪われてから本部をローマに置くようになった。

エルサレムアッコーロードス島も行ったことがあるので、その後にマルタに訪問すると感慨深いものがある。

関連リンク

Wikipedia

マルタ

マルタ騎士団

マルタ本島(Malta)

リパブリック広場

マルタ最大の島。マルタ語学研修として、2018年4月29日(日)に飛行機で成田からドバイ、ラルナカ経由で到着、6泊。

到着

2018年4月28日(土)、一日荷造りと準備をしてから東京から成田エクスプレスで成田空港第2ターミナルへ。結局慌てて駅に急いだら、カバンが半開きで電源ケーブルなどを落としてしまい、空港で購入。

エミレーツ航空EK319のA380-800で成田空港を20:00発、翌29日(日)の4:10にドバイ空港着。

エミレーツ航空EK109のB777-200でドバイ空港を7:55発、キプロスのラルナカに10:45頃に到着、1時間ほど待って再び離陸、マルタへ。また、キプロスを経由するとは思わず、飛行機に乗ろうとして知った。

入校予定の英語学校EC Maltaの送迎でセント・ジュリアンのアパートメントハウスまで。

宿泊

今回は英語学校から割り当てられたアパートメントハウスでの生活。海外旅行はしてきたが、生活したことはなかったので、食料を買ってきて料理をしたり、ゴミを捨てたり、洗濯をしたりするのは楽しかった。グリルは日本と同じだったが、グリルの上にどうしても換気扇が見つからなかった。

島国なので水は大変貴重で、風呂にはお湯タンクがある。アパートメントハウス以外にホームステイという選択肢もあり、その場合、日本人はいつものように水を使いすぎて注意されてしまうこともあるそうだ。

サン・ジュリアン(St. Jujian's)

英語学校がある街で、他にも英語学校があるために若者が多く、夜も日が変わってから盛り上がる。いろいろな店があるもののマルタらしくはない。

到着した4月29日(日)はサン・ジュリアンのバーでのWelcome Partyに出てから就寝。名前が覚えられなくて大変だった。

青の洞門(Blue Grotto)

2018年5月1日(火)はメーデーで学校はお休み。Full Day Malta Tourに参加した。

まずは青の洞門。自然に地形で、展望台で上から見るだけでなく、甲板のない小さなボートで「くぐる」ことが出来る。下から覗くとたくさんの鳥が住み着いていることが分かる。

マルサシュロック(Marsaxlokk)

マルサシュロックはのんびりした小さな漁港。いかにも地中海の漁港で、観光客が多く、おみやげ屋が並ぶ。しかし、実は冷戦を終結させた1989年のマルタ会談は、この街(正確に言えばこの街の沖の船)で行われた。

港に泊まっている船の先には両目が描かれている。これは魔除けのような意味があるらしい。港を見守る教会の上にも船が乗っかっている。しかし、ここの船には目がない。一応、キリスト教なので迷信とは別、ということらしい。

英語学校のフランス人、スペイン人、ブラジル人と昼食。Sea Bassを食べた。

Dingli Cliffs

見晴らしの良い崖。マルタ島は小さいので、ちょっと見晴らしが良いところに行くと、全体がよく見える。

Manoel Island

バレッタの対岸にあって、バレッタがよく見える。Islandと言われているが、半島か。今は何もなくて甲羅干しをしている人がいたりするが、開発が進むマルタ、ここも何か計画があるらしい。

イムディーナ(Mdina)

マルタ本島で2番目に高い丘に位置していて、古くから都市が築かれていた。バレッタに首都が移されるまでは首都だったが、段々に衰退して今では歴史的な街並みを残すものの、居住者は少なくなってしまった。しかし、現在はとても高価な居住地になっているとのこと。

2018年5月2日(水)に午後から英語のクラスに出て、夜にはイムディーナのツアー。冬のように寒かった。

Wikipediaのイムディーナの情報

イムディーナに都市が置かれたのは、海沿いは海賊の攻撃を受ける可能性が高いためだという。マルタ本島の中でも高地にあり、海岸が攻撃を受けても体制を整えることが出来る。現在はバスで行くことになるが、かつてはイギリスが鉄道を設けていた。

市街は城壁で囲まれているので、ゲートで入っていく。夜の街はひっそりとしていて、そして冬のように寒かった。ウインドブレーカーの一つでも持ってくれば良かったととても後悔した。

街が城壁で囲まれた上に、全体としてとても防御的に作られている。戸口には柵が設けられている。子供が中から馬車が行き交う道に飛び出さないように、という意味もあったか。

また、女性はみだりに顔をさらしたりしなかったこともあり、入口に来た人物を中からのぞき見るための穴が、入口の上にある出窓の下に空いている。

妊婦のような格子窓も同様の目的で、格子の中から往来の左右を伺うことが出来る。窓がない細長い曲がった通路もあり、道を知らない外部からの攻撃者を防いでいる。

イムディーナには首のない花嫁の幽霊が出るという話がある。恋人との結婚を控えた少女が乱暴な騎士に襲われ、その騎士を殺してしまった。死刑を宣告された彼女はその前に結婚をさせてくれと望み、処刑された。その後、夜の通りに首のない花嫁の幽霊が出るという話が広まった。

大聖堂もライトアップされている。上に立てられている十字架はラテン十字とは違って正教の十字架のようにも見える。

街の奥からはマルタの夜景が見渡せる。きれいだが、あまりにも寒いので近くのレストランで休憩して、バスでサン・ジュリアンへ戻った。

バレッタ(Valletta)

マルタ共和国の首都。深く切り込んだ湾に舌のように伸びた自然の地形に築かれている。道はマンハッタンのように縦横に走っていて、先端が城塞になっている。もちろん、世界遺産。

もともとはイムディーナが首都だったが、1565年のオスマン帝国による包囲戦(マルタ包囲戦)の後にバレッタに移ったという経緯がある。

Wikipediaのバレッタの情報

Fireworks Festival 2018 - Grand Finale

2018年4月30日(月)に英語学校のオリエンテーション、クラスの後、英語学校のツアーでバスに乗ってバレッタのFireworks Festival 2018 - Grand Finaleへ。

観光客も含めて人が鈴なりだったが、正直言って期待外れ。ただし、夜のバレッタは雰囲気があった。

バレッタの街

バスターミナルから歩いて行くと、目抜き通りはリパブリック通りで、多くの人で賑わっている。広場には前年の2017年10月16日に爆殺されたジャーナリスト、ダフネ・カルアナ・ガリチアさんを弔う写真や花が並んでいた。さらに先まで歩いて行くと、人はぐっと少なくなる。平らなのではなく、一旦下がってまた登って行くような地形になっている。

半島の先端は聖エルモ砦(Fort St. Elmo)になっていて、そこで折り返して海岸沿いを歩いて行くと、ローアー・バラッカ・ガーデン(Lower Baracca Garden)、アッパー・バラッカ・ガーデン(Upper Barracca Garden)と呼ばれる公園があり、それぞれ眺めが良く、対岸に並ぶ岬もよく見える。

夕食は地中海らしいイカのフライと、マルタの名物のタコ。マルタ名物にはウサギ料理もあり、メニューにも載っていたが、パスした。

聖ヨハネ大聖堂(St. John's Co-Cathedral)

5月3日(木)の夕に外観、5月5日(金)の出発前にようやく中をさっと見学。

マルタを治めていたマルタ騎士団によって、1565年のオスマン帝国の攻撃によるマルタ包囲戦の後の1577年に完成した。当初は簡素な建築だったが、後に内部がバロックで装飾されたため、外部は質素で、内部は派手派手という今日の姿になった。

マルタ騎士団はヨーロッパの裕福な家の子息で構成されていて、出身の8つの言語にちなんで内部のくぼみがそれぞれ装飾されている。

考古学博物館(National Museum of Archaeology)

リパブリック通りに面したしゃれた建物が考古学博物館になっている。それほど広くはないが、各地の遺跡の発掘品の「本物」が展示されている。

「眠れる女神」はとても小さな像だが、優しさに溢れている。日本の土偶とは表現が異なってはいるが、女性に対する崇敬が感じられる。

タルシーン神殿(Tarxien Temples)

5月4日(金)の午前中、午後の英語のクラスの前にバスでタルシーン神殿まで。ここはバレッタからもそれ程遠くない。

世界遺産「巨石文化時代の神殿群」を構成する遺跡の1つで、紀元前3,600-2.500年に建てられ、紀元前2,400-1,500年に再利用された。マルタの時代区分ではTemple Ageというのがあるようで、タルシーン神殿のような巨石文化を指すらしい。

紀元前の遺跡でもギリシャより古いものは、と言えば、キプロスのヒロキティア(ΧΟΙΡΟΚΟΙΤΙΑ / CHOIROKOITIA)や、ギリシャのクノッソスのように崩れて痕跡しかないというイメージがある。タルシーン神殿が古さの割に比較的よく残っているのは、ここが全くの農地になってしまっており、1913年に発見されて発掘されるまで、地下に埋もれていたことが大きい。一部は修復されたもののようだが。

神殿は保護のために大きなテント状の屋根が設けられ、設置された歩道をあるいて見学する。古い東の部分はさすがに痕跡担っているが、中心部は壁が比較的よく残っている。残ってはいないが、かつては屋根があったと考えられている。いろいろな装飾があったり、陶器があったりしたが、それらはレプリカが置かれていて、本物は国立考古学博物館に置かれている。

一旦放棄された後、一部が火葬した墓場(a cremation cemetery)として使われるようになった。これらの変化の背景には、住民の入れ替わりがあったらしい。

出発

2018年5月5日(土)、部屋を片付けて荷造りして、学校に荷物を預けてからバスでバレッタを見てからサン・ジュリアンに戻り、送迎でマルタ空港まで。

エミレーツ航空EK110のB777-200で15:30にマルタ国際空港発、経由地のキプロスのラルナカに18:45に到着、19:45に出発、翌5月6日(日)の1:00にドバイ着。ドバイをEK318のA380-800で2:40に出発して成田空港に17:30過ぎに到着、成田エクスプレスで帰宅。

出発の前にを見てからサン・ジュリアンに戻り、送迎でマルタ空港まで。

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