最終更新日 2013年7月21日
2013年4月〜5月にイスラエル旅行で訪問。
日本人にはなじみがなく、中東問題から危険という印象を持つ人が多いと思いますし、機関銃を抱えた人をよく見るのも事実ですが、聖地を訪問するためにヨーロッパのみならず、世界中からの観光客であふれています。移民の国、新しい国なので、外国人にも慣れているようにも感じます。ツアーで行くのでなければそれなりの注意は必要だと思いますが、中東問題を自分の目で見て考えるためにも、歴史の面からも、そしてリゾート地としても魅力的なところだと思います。
ユダヤ人による国を作るとして1948年に建国された若い国。建国時からアラブ諸国と戦争になり、現在でも国際的に認められた領域より広い地域を占領している。
国名 | イスラエル国(日本語)、State of Israel(英語) |
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国土 | 占領地域を含めても四国くらいの大きさしかない。南はエジプト、東はヨルダン、シリア、北はレバノンに接している。地中海だけではなく、紅海にも面している。これまでの戦争の結果、国連で認められたよりも広い範囲を占領している。 |
気候 | 南部を含む大半が乾燥気候(BW/BS)で、北部では地中海性気候Cs。小さな国だが、場所によって気候が大きく異なり、南部の砂漠が数時間の移動で北部のヨーロッパのような景色となる |
人口 | 約798万人(2012)。 |
民族 | ユダヤ人(約75.4%)、アラブ人その他(約24.6%) イスラエル建国前にはパレスチナ人が住んでいたが、ユダヤ人の入植、そして戦争によって多くのパレスチナ人が追い出されて難民となってしまった。それでもイスラエルの領域内にはパレスチナ人が多く残り、彼らはユダヤ人に「アラブ人」と呼ばれている。ユダヤ人というのはユダヤ教の人のこと。アラブ人というのはアラビア語を使う人。従って、パレスチナ人はイスラム教が多いとは言え、キリスト教の人もいる。また、アラビア語を使うユダヤ教の人という両者の中間の人もいる。アラブ人のほうが出生率が高いため、じわじわと比率を高めている。 ユダヤ人の中でも、東欧から移民したアシュケナジムと、南欧等から移民したセファルディムに分けられることがある。前者が国のエリート層を占める。 |
宗教 | ユダヤ教(約75.4%)、イスラム教(17.3%)、キリスト教(2.0%)ほか |
首都 | テルアビブ(TelAviv) イスラエルはエルサレムを首都と主張しているが、各国は認めていない。 |
経済状況 | 一人当たり国内総生産28,206ドル(PPP,2008)。先進国に分類される。 |
軍隊 | 徴兵制があり、男女とも高校を出たくらいで軍に所属する。機関銃を持った兵隊は町中で見かける。ただし、徴兵の対象となるのはユダヤ人のみ。つまり、イスラエル軍は全員ユダヤ教徒と言うことになる。 |
時間 | UTC+2。サマータイムでは1時間早くなる。 |
公用語はヘブライ語、そしてアラビア語。どちらも文字が難しいのでなかなか難物。ヘブライ語も右から書く。でも数字の部分は日本と同じように左からの並びになっている。ややこしい。
道路標識は通常、ヘブライ語、アラビア語、英語で書かれている。英語もとてもよく通じる。いろいろな国からの移民の国で、観光客も多いからか、外国語には慣れている感じ。英語でも通じないとすぐに違う言い方をしてくれる。あと、ロシア語も結構見かける。
ヘブライ語も、アラビア語も母音を表記しないとのこと。従って、英語での地名表示については特に母音について表記揺れがある。REDINGだったりREADINGだったり。
シェケル(NIS)。複数形はシュカリムというらしいが、英語で話している限り、シェケルと言われる。補助通貨単位はアゴラ、複数形でアグロット。2013年時点で1NIS=28円。
食費と宿泊費は高い一方で、交通費は安い。
クレジットカードは普通に通用する。
あまり厳しくなく、タクシーもいらないようだ。ただし、レストランでサービス料が含まれていない場合は要求される。10%くらいか。
不要。
ただし、イスラエルの入国スタンプがあると、入国を拒否するアラブの国があるという問題がある。ベン・グリオン空港の入国では、何も言わなくてもスタンプを押さず、必要事項を印字したストリップをくれたが、エイラットからヨルダンのペトラ遺跡に行ったりすると、スタンプを押されてしまう。
中東の料理とヨーロッパの料理が混ざっている。イタリア料理店も多い。「スシ」も人気らしい。
ユダヤ教にはコシェル(Kosher)という食事の規定があり、鱗がない魚は食べてはいけないとか、蹄が分かれて反芻する動物しか食べてはだめとか、肉と乳を一緒にとってはいけないとか細かい。コシェルの食べ物を扱う店には看板にも目立つように書かれ、店内に認定証がある。一方、酒は普通に飲めるし、コシェルではない店もあり、エビや貝などいろいろな食べ物は食べられる。ただし、イスラム教でも禁じられている豚肉は見なかった。
ひよこ豆のペーストで、オリーブオイルをかけてあったりする。ピタというパンにつけて食べる。専門の店まである。
ひよこ豆のコロッケ。屋台などで売っている。ピタに野菜と詰めたサンドイッチとして食べる。
あぶった肉の表面をそぎ落としたもの。
2013年4月26日(金)の夕食は、シャバットで交通機関がストップしてしまい、遠出できないので歩いて行けるダマスカス門近くのAl Ayedというレストランで夕食。シュワルマを頼んだらセットをお薦めされ、コーラを加えて55シュケル。あんまり舌に合わなかった。
中央アジアやロシアでシャシリクと呼ばれているものと同じ。串焼きの肉。
卵をトマトで味付けした料理。卵を崩したものもあるが、黄身の原型を残したものもある。ホテルの朝のバイキングでも見かける。
小さな国なので、都市間の交通はバスが中心になる。鉄道も一部にあるが、乗れなかった。
街中の車のマナーはとても良くて、日本以上に歩行者優先が徹底している。道路で渡ろうとしていると、どんなに速く走っていても止まってくれる。
北部の一部を除いて、エゲットバスという緑色のバスが市内も都市間も走っている。エゲットバスのサイトはルートや時間を検索できるので便利。
エイラットに発着する便だけは予約可能であり、混雑しているので予約した方が良い。その他の便は予約できないようだ。
ただし、都市間のバスはかなりアグレッシブな運転をして、普通車をぐいぐい抜いていったりするため、途中の停留所から乗ろうとするとかなり早めに通過してしまうことがある。20分くらい早く着いたこともある。
なお、日本の海外安全情報ではテロの標的になりやすいということで、2013年時点で路線バスに注意するように言っている。確かにバスターミナルもバスも兵士が多い。しかし、タクシーですべて移動するわけにも行かないし。
乗り合いバス。旧ソ連でマルシュルートカと呼ばれるものと同じ。小型のバスで、普通のバスよりちょっと高いが、乗り降りする場所に融通が利く。
基本的にメーターが着いているが、まずはメーターではなく交渉に持ち込もうとする運転手が多く感じる。ただし、その言い値はメーターに比べて必ずしも高いわけではないようだし、メーターを動かすように言うとあっさり動かしてくれた。よくわからない。
イスラエルの歴史についてはあらかじめ勉強していった方がよく分かるし、考えさせられることは多いと思う。。
エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地になっている古い都市。当然世界遺産。ただし、伝説の場所や建物がそのまま残っているのではなく、そうした場所(と思われる場所)に後で建てられた建物が多い。
エルサレムは意外と起伏がある土地にあって、旧市街にも坂道がある。
黒装束で、帽子をかぶり、髭やもみ上げを伸ばしたいかにもユダヤ教徒という正当派の人が他の都市と比較して多い。
歴史的にはユダヤ人が都市を築いていたが、その後は十字軍が支配した時期もあったが、イスラムに支配された時代が続いた。イスラエル建国後、イスラエルによって「統合」された。
エルサレムは東エルサレム、西エルサレムと呼ばれる部分に分けられ、前者が聖地を擁する旧市街、後者が新市街に相当する。当初イスラエルに認められたのは西エルサレムであり、ここにはユダヤ人が多い。東エルサレムは旧市街も含めてアラブ人が多く、ここはヨルダンから奪った占領地で各国はそれを認めていない。そのため、イスラエルは「統合された」エルサレムを首都としているが、日本を含めた他国はそれを承認していない。
イスラエル旅行で2013年4月25日(木)に成田空港から仁川経由で到着し、3泊して2013年4月28日(日)に死海へ向けて出発した。
また、途中の4月27日(土)はベツレヘムに日帰りした。
早めのゴールデンウィーク入りだったが、仕事が直前までばたばたして、タクシーで帰宅して荷造りし、1時間寝て出発と慌ただしかった。
2013年4月25日(木)の朝、早起きして吉祥寺駅から成田エクスプレス1号で成田空港第1ターミナルへ。
大韓航空KE706で9:25発、仁川国際空港に12:00前に着。とにかく眠くて寝ていた。仁川国際空港から14:55発のKE957でテルアビブのベン・グリオン国際空港に20:30ごろ到着。この便になるとユダヤ人らしき人の割合が高くなり、機内食もコシェル対応のものなのか、別途配られた宅配ピザのような入れ物に入ったものを食べていた。またひたすら寝ていたがまだ眠かった。入国審査では旅程や移動手段を子細に聞かれ、最後は名刺まで見せられて大変だった。何も言わなかったが、パスポートにスタンプを押さず、情報が印刷されたストリップのようなものを渡された。
ホテルに依頼してあった送迎タクシーでホテルへ。満月がきれいだった。夜のエルサレムはいかにも中東という雰囲気。
日本からbooking.comで予約していって、イスラエルに到着した2013年4月25日(木)から4月28日(日)まで3泊。
普通のホテルで、フロントを含めとても親切だが、1晩目の夜中にバスルームでゴキブリに遭遇し、1日目は部屋のセキュリティ・ボックスが動作しなかったり、部屋の戻るとキーが機能せずに入れなかったり、少々苦労した。 旧市街の北側の東エルサレムという地域にあり、ヘロデ門、ダマスカス門に歩いて行ける。ただし、このあたりはアラブ人街で、レストラン等も徒歩圏には少ないし、バラエティもない。
旧市街は城壁に囲まれている。城壁内は人しか通れない狭い道が多く、観光客が通る道ほど天井が覆われていて、観光地の案内も少ないので、迷路のようで、すぐに迷ってしまう。中東に良くあるバザールのように、どこも同じような感じなので、以前に通ったところでも通り過ぎてしまったり、なかなかの難物。
観光客が多く出入りする門。城壁都市でよくあるように、門の中でクランクになっていてまっすぐ通れないようになっている。大きな門だが、階段で降りてから通るようになっていて、人しか通れない。
朝は空いていたが、夕方は露店が出て混み合い、外に出る人でラッシュアワーのようになっていた。時間によって違う雰囲気。
エルサレムでかつて商店街だった地域で、発掘された後、絵画などを売るしゃれた一画となっている。
ヘロデ王時代に使われていた家の遺跡が博物館となっている。遺跡は地下にある。
ヨルダンからイスラエルがこの地域を奪還した後、発掘が進んだという説明がある。
ユダヤ教の聖地。かつて神殿の丘に存在したユダヤ教の神殿が破壊された跡の壁だけが残っていると言われている。現在神殿の丘の上にはイスラム教の聖地である岩のドームが立つ。
壁の前は広場になっている。これはイスラエルが東エルサレムを奪還した際に、住民を追い出して「広場」にしたと言われている。
広場に行くためには、荷物のX線検査を受ける。広場にも兵士が多い。壁の前は左右に仕切ってあるが、左が男性、右が女性と別れているとのこと。さすがにユダヤ教でないと近くには行きにくい。
かつての地表は今よりずっと下にあったとのことで、発掘が進んでいるようだ。
かつてユダヤ教の神殿が建っていた神殿の丘の上には、現在イスラム教のアル・アクサー寺院と岩のドームが立っている。
エルサレムを発つ2013年4月28日(日)の朝に行ったが、決まった時間しか入れないらしく、糞門の外まで行列が伸びていた。これは時間がなくなるかと思ったが、30分ちょっと待って入ることができた。イスラム教の礼拝の時間には入れず、その間の時間に観光客は入れるという仕組みのようだ。
岩のドームは、預言者ムハンマドが昇天した場所とされる場所に建っている。アル・アクサー寺院は2000年に当時のリクード党首シャロンが入場したことで、第2次インティファーダを引き起こした。アル・アクサー寺院も、金色の岩のドームも、外からは見ることができるが、現在はイスラム教徒以外は中には入れない。
入るときはモロッコ門からしかは入れないが、出るときはどこの出入り口からも出ることができる。
ヤッフォ門を入ってすぐにあり、歴史は紀元前にさかのぼると言われる。エルサレムの歴史が順を追って展示されている。
ここからのエルサレム旧市街の眺めが良い。
車も通ることができる大きな門。入ってすぐのところにツーリスト・インフォメーションがある。
旧市街中心部の入り組んだわかりにくいところにあり、見つけるのに時間がかかってしまった。
ローマ時代に建てられた教会で、イエス・キリストが処刑されたゴルゴタの丘に建っているとされる。世界中からのキリスト教徒でとても混雑している。
入り口を入るとイエスの聖骸(遺体)に香油を塗ったという大理石があり、人が集まって顔を密着させて祈っている。ここから左に行くと、イエス・キリストの墓という、教会の中の建てられた祠のようなものがある。このイエス・キリストの墓はすごい行列で、満員電車のように密着した状態で1時間15分も待ったが、中で見ることができたのは一瞬だけだった。幼少の頃に上の動物公園のランランとカンカンを見に行ったのを思い出した。
聖墳墓教会を終点に、エッケ・ホモ教会のあたりから、イエス・キリストが最後に通った道をヴィア・ドロローサと呼んでいる。ここを賛美歌を歌いながら歩くイベントも行われていて、観光客も参加している。
ヴィア・ドロローサを見た後はヘロデ門から外へ。ヘロデ門はダマスカス門のとなりの門だが、門へ続く道は住宅地で観光客がおらず、子供がサッカーをしていたり、また違った雰囲気だった。
ヘロデ門は中からはとても小さな通り道があるだけで見落としてしまいそうだった。
旧市街の神殿の丘の南側の城壁の外は考古学公園として発掘が進められている。道路を挟んでその南にはダビデの町と呼ばれる遺跡があり、ここがエルサレム発祥の地域とされる。
広くて暑いので、遠くから見て終了。
旧市街の一番南側の門。出たところがシオンの丘になる。シオン門には弾丸の跡がたくさん残っている。
シオンの丘にはイエスが最後の晩餐を行ったと言われる部屋がある。もちろん、その当時の建物ではなく、十字軍によって建てられ、その後はイスラム寺院として使われていたらしく、ミフラーブらしき場所がある
旧市街の東にある丘が、オリーブ山で、イエス・キリストゆかりの教会が集まる。ここからは旧市街を一望できる。
2013年4月27日(土)に、ベツレヘムから戻ってきてから旧市街を抜けて直行した。
旧市街からはすぐ近くに見えるが、ケデロンの谷と呼ばれる谷が間にあるため、下がってから上ることになり、少し大変。日差しが強かったので、かなり暑かった。
ベツレヘムから戻って旧市街に入り、ヴィア・ドロローサを抜けてライオン門から出ると、下り坂になる。谷を越えてオリーブ山に入ると、麓からずっとユダヤ人の墓地が並んでいる。ここは昔から墓地になっているとのこと。墓には花ではなく石が載っている。振り返ると墓地の先にエルサレムの旧市街の岩のドームが見える。
マリアの墓の教会の横を通って進むと最初に万国民の教会が見える。古典様式の博物館のような形をした建物で、様々な国からの献金で作られたために万国民の教会と言うようだ。
外側も目立つ外観だが、内部にも美しいモザイクの絵が残されている。山上の垂訓、ゲッセマネの祈り、ユダのキスと定番の内容。新約聖書を勉強していてすぐにわかったのでちょっと自己満足。
万国民の教会を過ぎて右折して登り坂を進むと、ユダヤ人墓地の向かいにある。イエス・キリストがエルサレムの滅亡を預言して涙したことにちなんで建てられた教会だが新しい。祭壇の後ろが大きな窓でエルサレムの街が一望できるという趣向。
このあたりになると、かなり登り道がきつい。
いろいろな国の言葉での祈りが並んでいるという趣向の教会。もちろん日本語もある。というか、観光客も自分の国のものを探して見つけては帰って行くという感じ。
このあたりから暑くて汗だくになってきた。
オリーブ山を一番上まで上るとあるのが昇天教会。イエスが昇天するときにつけたという足跡が残っている。まあ、本当とは思われないですけど。
ここは教会としては使われていないようで、周りにも何もない。
オリーブ山の中腹には展望台があり、エルサレムの旧市街を眺めることができる。観光バスも来ている。
新市街は西エルサレムと呼ばれる地域で、ユダヤ人が多く住む。建築物は旧市街と同じ石でできているが、現代的な街。
エルサレムに着いた翌日の2013年4月26日(金)、旧市街をざっと見た後にヤッフォ門の近くのツーリスト・インフォメーションで地図をもらった。初めての金曜日なのでシャバット(安息日)でLRTがいつ頃止まるか聴いたところ、14:00頃とのこと。旧市街の外でそのLRTで中央バスステーションまで。
LRTは、つい最近できたものらしく車両も新しい。4両くらいつながっており、頻度も高いが、結構混んでいる。駅にある自動販売機で切符を買い、乗ったら自分で改札機で有効化する。改札や検札があるわけではない、ヨーロッパ方式。最初に乗ったときは、途中で止まってしまい、乗客がみんな降りて歩くことになってしまった。
中央バスステーションは一応荷物チェックがあったがゆるゆる。エイラットまでのバスのチケットをあらかじめ買っておこうと思ったが、エイン・ゲディまでは買えず、エイン・ゲディからエイラットまでの切符だけ買えた。
旧市街方面に歩いて戻り、途中の小さな店で、ベーグルで昼食。イスラエルに着いて初めての街での食事。
さらに歩くと賑やかな地域があり、食料品を中心に、賑やかな市場となっている。
エルサレム三日目の2013年4月27日(土)、ベツレヘムに行って、オリーブ山に上り、シオンの丘に寄った後、ダビデの塔近くでカプチーノを飲み、再び新市街へ。
西エルサレムはアラブ人が多いために普段と変わりなかったが、ユダヤ人が多い新市街はシャバットのために全く機能していない。LRTも止まり、車も通らず、店も閉まっている。日本で言えば、昔の元旦のような止まり具合。歩いているのは観光客ぐらい。
夕食は新市街でと思ったのに開いている店がなく、ようやく見つけた開いていた店でラザニア。久しぶりにビールも飲んで満足。80シュケルで、チップを少々払って、歩いてホテルに戻った。
エルサレム四日目最終日、朝に神殿の丘を見た後、ホテルをチェックアウトし、タクシーを呼んでもらい、イスラエル博物館まで。70シェケルだった。
この博物館はお薦め。中に入ってかなり興奮した。とにかく広い博物館。残念ながら時間がないので、まず、考古学エリアを中心に見て、ユダヤ人の生活エリアへ。世界各地のシナゴーグの違いがおもしろかった。ヘロデ王に関する展示を見てから、ハイライトの死海写本へ。死海写本はヘブライ語の聖書の巻物(Scrolls)で、これだけは、死海写本文書が見つかった際に入っていた壺の蓋を模した別の建物にある。2000年くらい前の文書とは思えないほどはっきりしている。ヘブライ文字がよめればもっとおもしろいのだろうけど。この棟には10世紀くらいの文書も展示されているが、この間は文書が見つかっておらず、空白の期間になっているらしい。
イスラエル政府は遺跡の発掘に熱心で、新たに占領した地域からも続々と発見が続いている。ただし、そうした活動は、かつてのユダヤ人の居住を強調し、占領を正当化するためだという批判もある。
2013年4月28日(日)に死海に向けて出発。
イスラエル博物館を見た後、入り口でタクシーを拾い、メーターを動かすように依頼して中央バスターミナルへ。26シュケルだった。
中央バスターミナルのチケット売り場はひどく混んでいたが、マサダまでのチケットを42シュケルで買い、ピザを買って列に並びながら食べ、486番のバスで13:30に出発、死海のマサダに向かった。
ベツレヘムは新約聖書のおいてイエス・キリストが誕生した地とされている。現在はパレスチナ自治区に属していて、イスラム教徒が大多数の町となっているが、キリスト教徒の観光客がとても多い。
イスラエル旅行で2013年4月27日(土)にエルサレムから日帰りした。
2013年4月27日(土)の朝、エルサレムのダマスカス門の前にあるスルタン・スライマーン・ターミナルから21番のバスで出発。シャバットの最中だが、アラブバスと呼ばれる東エルサレムのバスは通常通り動いている。
このバスはBeit Jalaという行き先だがベツレヘムに行くことを運転手に確認して乗った。他にもベツレヘムに行くという観光客が結構いて、満席近くになってから出発。
ベツレヘムはパレスチナ自治区にあるので、地球の歩き方によるとチェックポイントを通過して、ベツレヘムの中心に近いヘブロン通りで降りるとのことだったが、どういう訳か、チェックポイントらしきものもないまま、終点と言うことで全員降ろされてしまった。ヤセル・アラファト通りと書いてあるが、どこにいるかわからない。
となりの欧米人も「チェックポイントを通らなかったよね?」と戸惑っていたが、仕方なく降りるとタクシーの客引き。どうしようか迷っていたが、周囲の観光客も次々と乗っていってしまうし、自分がどこにいるかもわからないので仕方なくタクシーに乗車。4kmくらいしかないのに20シュケルというので、、とりあえず18シュケルまで値切って乗ったが、乗っている間ずっと、他の街も観光しないか、いくらでどうだ、という勧誘。適当にあしらっていたらすねてしまって、最後は20シュケルを渡したら、「お釣りがない」。そう言うと思ったよ。
タクシーを降りたのが生誕教会の前。中に入り、地下のイエス・キリスト聖誕の場所を見ようとしたら・・・。すごい行列で、2時間半もかかった。
地下に入ってみると、小さな祭壇らしき下の床に、ここが生まれた場所、と銀の星の印があるだけ。しかし、みんな真剣にお祈りしている。
地上に上って身廊の床を見ると、その一部からその下にあるモザイクが見られるようになっている。鮮やかな色が残っている。
聖誕教会に隣接して聖カテリーナ教会があり、足下にしゃれこうべがあるヒエロニムスの像がある。ヘブライ語の聖書(旧約?)をラテン語に翻訳した人物で、協力してくれた女性が亡くなった後は、その頭蓋骨をそばに置いて仕事を続けたからだという。
聖誕教会を出て歩くと土産物屋が並ぶ。パレスチナ自治区の旗を掲げていて、ここがパレスチナ自治区であることを感じさせる。
ミルク・グロットは小さな教会で、マリアがエジプトに出かける際に母乳がこぼれて地面がミルク色に染まったという場所らしい。イエス・キリストがベツレヘムで生まれたとしたら、だが。
聖誕教会の前はメンジャー広場で、広場の隅にイスラエルがパレスチナをどのように占領していったか、その不正を批判する看板が掲げられている。パレスチナ自治区は小さくなるだけではなく分断されて、今にも消滅しそうになっている。
ただ、メンジャー広場から続く商店街を歩くと、賑やかで、道行く人の身なりもいいし、表情も明るい。女性は色とりどりのスカーフをしていて、トルコのような感じ。
メンジャー広場に面したレストランで、クラブサンドイッチとコーラで38シュケルだった。
昼食後、メンジャー広場でタクシーを探していたら、男が話しかけてきて、チェックポイントまで50シュケルだという。話にならないというと30シュケルになり、「20シュケルじゃないと」と言ったら、「じゃあ、25シュケルで。」ということになった。本当は10シュケルくらいらしいけど。
チェックポイントに行くまでにいろいろ話しかけてきて、来たときのタクシー同様、やはりいろいろな所を周らないかというので、時間がない、と言っていたら比較的すぐにあきらめた様子。道から見えるイスラエルの入植地を一生懸命説明し、写真を撮れと進めるので撮影。入植地というと小さな集落のようなものかと思っていたが、1つの巨大な町というか要塞のようなものを作っているようだ。
チェックポイントが近くなると巨大な分離壁を指さし、これも写真を撮れという。分離壁は高さがある巨大なもので、街の中にお構いなしで走っている。ここにはたくさんの落書きがあり、単なる落書きではなくメッセージ性が強いものが多く、それも有名になっている。タクシーを降りてしばらく見学。
チェックポイントについて25シュケルを渡すと、「いろいろ案内したのに。」そう言うと思ったよ。強気に要求されるとこちらもかちんとくるのだけど、「いや、おまえ次第だけど」と拗ねる。パレスチナ人に対して同情的な気分にもなっていたので、30シュケル払って降りた。
チェックポイントは人気がない通路で始まっていて、進んでいくと壁を通るゲートがある。誰もいないのかと思ったらやる気がなさそうな兵士がいて、行け、というのでそのまま通過。
すると道路のようなところに出て、そこを渡ると向かいにもまた入り口がある。そこに入って進んでいくと建物に入るが誰もいない。出口らしきところから出ようとするが開かない。困った。
すると後ろから来た男がこっちだよ、と説明してくれ、回転ゲートを通ると空港のようなX線ゲートがあり、金属を外して通過。すると今度は空港の入国手続のような場所に出た。
さっきの男が「パスポートはあるか?」と言うので準備して着いていくと、男はIDカードを受付に出し、アメリカの入国のように人差し指の指紋を登録して通過。自分も必要なのかと思い、人差し指を機械に触れようとすると、前にいる男とブースの中の女性兵士の二人にいやいやと止められ、パスポートを見せただけで行って良いと言われて拍子抜け。パスポートを見せたと言っても、手に持って表紙を見せただけ。中を見ようともしなかった。彼はパレスチナ人だという。パレスチナ人だと、こうしたチェックがなされるようだ。ここに住んでいる人なのに。
ちなみにこの女性兵士も小柄で目がくりくりしていてアイドルのような顔をしていた。なんでだろう。
ゲートを出ると今度は前の道路に24番のバスが待っているので乗車。エルサレムのスルタン・スライマーン・ターミナルに到着。
海抜マイナス420m。流れ出す川がないために塩分濃度が濃いことで有名な死海。
イスラエル旅行で2013年4月28日(日)にエルサレムから到着し、エイン・ゲディに1泊して2013年4月29日(月)にエイラットへ向けて出発。
2013年4月28日(日)、486番のバスで13:30にエルサレムの中央バスターミナルを出発。乗ってからうとうとしてしまって、起きたら死海が見てていた。
途中でパブリックビーチにも止まり、若者が降りていく。
マサダは断崖絶壁の上にある城塞の跡で、イスラエルの国立公園になっているだけでなく、世界遺産になっている。
この地には紀元前に要塞が築かれたとされているが、ローマ軍に追い詰められたユダヤ人が籠城し、73年に集団自決した場所として知られている。この時代にエルサレムも陥落して、第二神殿も破壊され、ディアスポラの時代に入ることになった。
エルサレムからのバスは15:14に着くはずだったのに、20分くらい前にマサダに到着。
バスの停留所は90号線から入ったところにあるが、そこからビジターセンターまでは坂道を登らなければならない。とにかく暑くて日差しが強い。ビジターセンターまで着くと観光バスがたくさん止まっていて、沢山の観光客がいる。
まずビデオでの説明を見るが、スペイン人の観光客の集団に混じってしまったらしく、英語の説明、スペイン語の字幕だった。
ローマ軍はこの要塞を落とすために、はしごのような建物を横に作ってみたり、攻めあぐねたようだ。
ビジターセンターはロープウェイの駅となっていて、断崖絶壁の上のマサダに登ることができる。もちろん、歩いて登ることもできて、実際に歩いている人もいるが、暑くて絶対無理。
ロープウェイを使うと頂上まであっという間に着く。狭い頂上に遺跡が広がっている。死海が眼下によく見える。
とにかく暑いので早々に見学を切り上げ、ロープウェイで降りた。ビジターセンターから坂道を降りて、バス停へ。ここも屋根が着いているのだが、日差しが強い。
随分待ったが、384番のバスが来て乗り込み、エイン・ゲディのホテルへ向かった。
日本からbooking.comで予約していって2013年4月28日(日)から4月29日(月)まで1泊。
死海にはそれほど宿泊できる場所があるわけではなく、エイン・ボケックとエイン・ゲディの2か所が中心となる。前者のほうがホテルが多いが、ビーチにはエイン・ゲディのほうが近い。
エイン・ゲディにはユース・ホステルもあるが、ホテルはこのホテルのみ。イスラエル独自の共同体であるキブツが運営するホテルで、値段も含めて結構高級なホテル。
384番のバスはフロントがあるメインの建物の前まで入っていくので、降りてすぐにチェックイン。入り口にある温度計を見たら40℃近く。暑すぎる。
ホテルは一つの建物ではなく、敷地内に棟がいくつも並び、そこに家のように部屋がある。部屋の冷蔵庫にはなぜか牛乳が入っているので全部飲んだ。
敷地内にはプールまであるようだ。食事は敷地内にダイニング・ルームがあり、そこでビュッフェで摂ることがでいる。朝食付きで予約したが、そもそも夕食もここで食べない限り選択肢はない。周りに何もないので。
夕食後はメインのビルのバーで少々ビール。
一泊したら4月29日(月)の午前はビーチに。
無料のパブリックビーチもあるが、有料のエイン・ゲディ・スパへ。このスパもキブツが運営しているので、ホテルから無料の送迎バスがある。
朝一番の送迎バスで行ったので、まだがらがら。温泉が出るようで、硫黄臭の強い温泉に入ってからいよいよビーチへ。スパの建物から死海のビーチまでは結構距離があり、遊園地のあるトロッコのような乗り物で送迎しているらしいが、朝でまだ動いておらず、時間がもったいないのでゆっくり歩いて行った。男性が一人歩いていて、同時にビーチに着いたが、客ではなく監視員の人だった。ここは、特別な海だから、リラックスして浮かぶんだよ、とアドバイスされ、海へ。
死海というと、のんびり浮かんで本を読んでいるような写真が紹介されるが、全然イメージが違う。かなり大きな湖だし、風が吹いていて、波がある。さらに、砂浜どころか、岸や底は結晶化した岩塩で尖っている。
前日に購入したビーチサンダルを履いて海に入ったまでは良かったが、立ち上がるときや、転んだときに手を底についたら切り傷だらけになって出血。塩分の濃い水がとてもしみる。
浮いている姿勢も頭を水面に出すのだが、慣れないと腹筋が疲れる。もちろん、とても濃い塩水なので、顔を水につけるのはもちろん無理で、顔に水がかからないようにしなければならない。
どうやら岸を向いて浮いていると、自然に波で岸側に流されていくので、そのまま手をつかずに立ち上がるのに良いようだ。
何回かぷかぷか浮いていたら飽きたので、ちょうど来たトロッコに乗って建物に戻り、シャワーを浴びて送迎バスでホテルに帰還。
2013年4月29日(月)に死海のスパに行ってから、ホテルをチェックアウト。幹線の90号線まで歩いて降り、バスの停留所へ。444番のバスで11:00過ぎにエイラットへ出発。
エイラットはイスラエルの南端で唯一紅海に開いた港町。エジプト、ヨルダンも紅海に面しているので国境が近く、ヨルダンを挟んでサウジ・アラビアも近い。周囲は砂漠だが、海沿いのこの街には大型のホテルが建ち並び、リゾート地となっている。街の真ん中に空港がある。
観光客ばかりのリゾート地で、歩いていると、周囲の人はみんなロシア語を話していたりする。とにかくロシア人が多く、看板の表記にもロシア語が多い。その反面、アラビア語は見ない。
街中では兵士や黒装束の正統派ユダヤ教徒は見かけない。
イスラエル旅行で2013年4月29日(月)に死海から到着し、3泊して5月2日(木)にハイファに向かった。途中、5月1日(水)はヨルダンのペトラにも日帰りで行った。
2013年4月29日(月)にエイン・ゲディのエイン・ゲディ・キブツ・ホテルから90号線まで歩いて降りて444番のバスを待った。11:00過ぎに乗って途中に食事休憩をしながら15:00前にエイラットへ到着。歩いてホテルに向かった。
日差しが強くて暑い。
日本からbooking.comで予約していったホテルで2013年4月29日(月)から5月2日(木)まで3泊。ノースビーチにある。
バスターミナルから歩いてチェックイン。フロントに並んでいたら、ロビーから冷たい飲み物を運んできてくれた。
ホテルの部屋からはマリーナが見えた。
エイラットの町中を移動する15番、16番のバスも目の前に止まるので便利。
エイラットに到着した2013年4月29日(月)は暑かったし、疲れも出たのでホテルで休み、夕食に街に出た。Pastroyというイタリア料理店が近所にあって評判が良いので行ってみた。
シーフードリゾットはおいしかったし、おすすめされた白ワインも「ドライだけどフルーティ」でおかわりするぐらいおいしかったし、デザートのティラミスも味も量も大満足だった。サービス料混みで218シェケル。
ちなみに、なぜかイスラエルはイタリア料理店が多い気がする。
エイラットに着いた翌日の2013年4月30日(火)は、エイラット内の観光。
ホテル前から15番のバスで水中展望台海洋公園まで。ここはかなり観光客が多く、水族館のようなアトラクションが揃っている。
目玉は岸から離れて建つ灯台のような塔で、水中から海の中を覗くことができる。周囲に珊瑚をくっつけてあるようで、とても多くの魚を見ることができる。また、上に登ると紅海を一望することができる。
さらに、底がガラス面になった遊覧船がある。ここもロシア人観光客が多く、「英語が必要な人はいる?」とガイドの女性に聞かれ、何人かと一緒に必死に手を上げなければ、ヘブライ語とロシア語だけの案内にされそうだった。ガイドの女性は一人でヘブライ語、ロシア語、英語での説明を難なくこなし、仕事とは言えすごいと思った。
他にも、鮫が泳ぐ水槽での餌付け、ウミガメの水槽、いろいろな魚の水槽とたくさんあり、椅子ごと動く、映像を見られる施設もあった。ここでもヘブライ語以外の言語は英語とロシア語だった。
施設内のカフェテリアで食事をしてから、逆向きの16番のバスへ。
16番のバスで少し戻ってドルフィン・リーフ。
名前の通りの場所で、まず普通にみんな泳いでいるビーチがあり、その外側にはイルカが泳ぐエリアが広がっている。桟橋から見ていると、定期的にイルカが近くを通っていく。
場所がよく分からなかったので、歩いて探した。炎天下歩く人はほとんどなく、ちょっときつかった。あまり目立たないわかりにくい入り口がある。
ここは岸に近い珊瑚礁が保護されている地域。ここもビーチがあって人が多いが、珊瑚礁沿いの「順路」をシュノーケリングで泳ぐことができる。
シュノーケリングなんて、オーストラリアのゴールドコーストで1回やったきりで忘れていたが、とりあえず道具を貸してもらって、着替えて海へ。砂浜が熱くて裸足で海に到達するのが大変だった。
足が着かない深さなのでちょっと怖かったが、魚が沢山いておもしろかった。
コーラルビーチ自然保護区で泳いだあと、あまりに暑いので16番のバスでホテルに戻り、ロビーでビールを飲んで昼寝してから夕食。マリーナの反対側のMarina Grillへ。
サラダ、サーモン、ワイン、アイスクリーム、エスプレッソで178シェケル。これにチップを上乗せ。ウェイターのサービスがとても丁寧だった。
2013年5月1日(水)は日帰りツアーでヨルダンのペトラに行ったが、夕食はまたイタリア料理Pastroy。この日は肉にしたがちょっと食べ過ぎだった。
2013年5月2日(木)にエイラットからハイファへ。
ホテルをチェックアウトした後、16番のバスで中央バスステーションまで行き、10:00の991番のハイファ行きバスに乗った。
自分の席に別の人が座っていてどうしようかと思っていたら、同乗の女性兵士が助け船を出してくれた。みんな親切。
ハイファはイスラエル第三の都市で、地中海に面したイスラエル北部の港町。リベラルな土地柄だそうで、他の都市と異なり、シャバットでも交通機関が動いている。Haifa works, Jerusalem preys, Tel Aviv plays
という言葉があるそうで、インテルをはじめとするIT企業も集積している。
イスラエル旅行で2013年5月2日(木)にエイラットから到着し、2泊して5月4日(土)にティベリヤに向けて出発した。5月3日(金)にはアッコー、5月4日(土)にはナザレに日帰りした。
2013年5月2日(木)の午後ににエイラットからハイファのホフ・ハカラメル・バスステーションに到着。3番のバスでカルメルセンターに移動し、歩いてホテルへ向かった。
旅行中にbooking.comで予約していったホテル。2013年5月2日(木)から2013年5月4日(土)に2泊。ホテルが集まったカルメルセンターにある。
施設は古いが大きな窓からのハイファの眺めがとても良い。普段の景色も素晴らしいし、夜の夜景も素晴らしいし、朝のもやに覆われた景色も素晴らしかった。
フロントは顔を見て、名前を聞かずに預けた部屋のキーを出してくれたりする。やるね。
泊まったときにちょうどシャバットになったので、シャバットエレベーターというものを経験した。これは、安息日は「機械の操作をしてはいけない」ため、1階ごとに止まる自動運転のエレベーター。これなら「機械を操作しなくても」エレベーターを利用できるという理屈らしい。最初乗ったとき、訳が分からなかった。
ハイファに着いた2013年5月2日(木)はビールとラザニアで81シェケル、これにチップを上乗せ。
2013年5月3日(金)は、アッコーに日帰り。ホテルがあるカルメルセンター地区のガン・ハ・エム駅からシェルートが出発するハダール地区のハ・ネヴィーム駅まではカルメリットで。
カルメリットはイスラエル唯一の「地下鉄」とされるが、丘となっているハイファの上と麓を一直線に走っているので、ケーブルカーといったほうが近い。
乗って見たが、がらがらだった。金曜日だから?
アッコーからハイファに戻ってくるとシャバットで街はほぼ停止。カルメリットも止まっていた・・・。
そんなに距離がないのでホテルに歩いて戻ろうとしたところ、これがえらく大変だった。ハイファはかなり急な丘なので、道は右に左につづら折りになっており、カルメリットの経路のように直線では戻れない。地図を見るとつづら折りを横切って登る細い道があるように見えるが、これが住宅地を通る急な階段。場所によっては通れるのか分からないようなところもある。ただでさえ暑い中、急な階段でかなりばてた。
アッコーに日帰りした2013年5月3日(金)はHA BANKという店で、牛肉のフィレとビールと巨大なチョコレートケーキとエスプレッソ。193シェケルで、これにチップを上乗せ。
2013年5月4日(土)にホテルを出発してナザレへ。
一旦ハイファに戻ってから、ティベリアへ。
ハイファから北に進んだ地中海沿いの港町。英語ではAcreと呼ばれ、アクレなどとも呼ばれる。
城壁で囲まれた旧市街が残っていて、十字軍、オスマン朝の残した建築が残されている。十字軍、イスラム教徒との攻防の舞台となった町で、十字軍が最後の拠点としたが、1291年に陥落した。その後ナポレオンの攻撃にも耐えている。世界遺産。
旧市街はアラブ人が多い地域となっている。
イスラエル旅行で2013年5月3日(金)にハイファから日帰りした。
2013年5月3日(金)にハイファのカルメリット(地下鉄)でハダールまで行き、シェルートでアッコーへ。アラビア語でしか行き先が書いていないので、人に聞きながら乗り場を見つけた。
シェルートはしょっちゅう人が乗り降りするので着いたのか着かないのか分からなかったが、アッコーのバスターミナル近くで降ろしてもらい、旧市街まで歩いた。
旧市街は城壁に囲まれている。
旧市街に入るとすぐに十字軍の町と呼ばれる遺跡がある。12世紀頃、十字軍がこの地を支配していたときに作られたもの。
入り口でチケットを買い、アッコーの地図を買った。チケットはいろいろな観光スポットの組み合わせでたくさんあり、料金表の番号を示して購入する仕組み。
建物の中はがらーんとしている。
オスマン朝のハマームで1947年まで使われた場所が現在市立博物館になっている。
中で映像を映して雰囲気を出すなど、凝った作りになっている。
オカシという作家の絵(黒い抽象画など)があるが、それ以外に旅をテーマにしたいろいろな作家の作品が並んでいて、とても良かった。
旧市街の中にハーヌル・ウムダーンと呼ばれる隊商宿の跡がある。中まで入れず、少しだけ入って中を覗くだけ。
このすぐ横から、十字軍のトンネルと呼ばれる地下のトンネルに降りることができる。
旧市街は海に突き出していて、きれいな地中海が見える。時計台がすぐ後ろに控えている。
旧市街の入り口近くにあり、ランドマークとなっている大きなモスク。最初はお祈りの時間らしく、「どうぞ後で来てください」と丁重にいわれてしまったので、しばらく経ってから訪問。
なぜか日時計がある。
ジャーマ・アル・ジャザールから先は賑やかなスーク(市場)になっている。港町らしく、魚屋もたくさんある。
真ん中あたりに行列ができているSaidという店がある。これはフムスの専門店で、イスラエルでも有名な店らしい。早速並んでフムスを頼んだが、旅行の疲れが出てきた時期でもあり、付け合わせのピクルスの味も強く、残してしまった・・・。周囲の人たちは異常な情熱を持って食べている。そんなに美味しいものなんでしょうか。
新市街まで歩いてシェルートへ乗ろうと思ったが、よく分からないので、近くの店で水を買い、ついでに聞いてみたところ、店にいた客がわざわざ店の前に出てちょうど来たシェルートに乗せてくれた。
行きの逆向きで、ハイファのハダールへ。
ナザレはイエス・キリストが育った町として有名。キリスト教の信者らしき観光客も非常に多い。
イスラエル旅行で2013年5月4日(土)にハイファから訪問。本当はここから直接ティベリアに行きたかったが、シャバットでうまく行けなかったので一旦ハイファに戻ってからティベリアに向かった。
2013年5月4日(土)の朝、ハイファのホテルをチェックアウトした後、タクシーを拾ってPulmer Squareまで。紙に行き先を書いて見せたのだが、「ヘブライ語じゃないとわからないよ」といわれてしまった。ナザレに行きたいんだと言うことを伝えたところ、バス停まで連れて行ってくれた。
シャバットの最中だが、ナザレ行きのバスは動いている。バス停に来た331のミニバスに乗ってナザレへ向かった。
車窓の風景は 森の間に畑や家が広がり、まるでヨーロッパのよう。
大きな受胎告知教会が見えたところでバスを降りた。
降りた近くにTourist Informationがあり、ティベリアへ行くバスがあるか聞いたところ、なんとシャバットで夜に1本バスがあるだけということ。シェルートはあるかも、とのことだった。
旧市街の観光エリアは狭く、そこに観光地が集まっている。大型の観光バスも多く、世界中からのキリスト教と思われる観光客で混み合っている。
ナザレ最大の観光スポットとなっている巨大な教会。ただし、1969年にできた新しい教会。
敷地内や建物内には各国の聖母子の絵がある。日中韓のものは必要以上にエスニック。
教会内の地下にはマリアが受胎告知を受けたという洞窟の跡があり、混み合っている。
受胎告知教会に隣接した小ぶりの教会。マリアの夫のヨセフが大工仕事をしていた場所の建てられたということで、イエス・キリストの一生を描く絵の中に、大工仕事をする親子の絵がある。
スークを過ぎて緩やかな坂道を登っていくと、マリアが水を汲んだという井戸が道路脇にある。
マリアの井戸を過ぎてさらに行くと小ぶりの教会がある。ここは正教の教会で、正教の受胎告知教会となっている。小さいが混んでいる。
スークを冷やかしてから聖ガブリエル教会に戻り、広場の前のレストランでシーフードのレモンガーリックソース。暑くて時間があるのでコーラも2本。
Tourist Informationで言われたようにティベリアまでのバスが21:15までないとのことだったので、シェルートが来るかとしばらく見てみたが、来ない。
あまりに暑いので、アイスクリームの店に入り、アイスとオレンジジュース23NISで時間をつぶして考えたが、このまま夜のティベリア行きのバスを待つとひからびてしまいそうなので、一旦ハイファに戻ることにした。
331番の17:00のバスでハイファへ。出発したときの停留所ではなく、レヴ・ハ・ミフラズ・バス・ステーションで降りた。
レヴ・ハ・ミフラズ・バスステーションは、大きな建物がなく、停留所の集合体といった場所。
幸運なことに18:30発の430番のティベリア行きバスがあったので、それに乗り換えて、ティベリアへ。
イエス・キリストが数々の奇跡を起こしたことで知られるガリラヤ湖沿いの町。今では観光地となっていて、外国人だけではなくイスラエルの家族連れも多いようだ。死海同様、ここも海抜以下の位置にあるが、殺風景な死海と異なり、緑が多い。
イスラエル旅行で2013年5月4日(土)にハイファからナザレに行った後に到着、一泊して5月5日(日)にテルアビブに出発した。
2013年5月4日(土)に到着。ナザレから直接向かいたかったが、シャバットで夜までバスがないと言うことで、暑さに耐えかね、一旦ハイファのレヴ・ハ・ミフラズ・バスステーションに戻って、18:30発のティベリヤ行き430番のバスに乗り換えた。
ナザレに向かったときと同様、緑が多いヨーロッパのような景色が続くが、ティベリヤに近づくと坂道をどんどん降りていく。
19:30頃ティベリヤの中央バスターミナルに到着。薄暗くなってきた中をホテルに向かって歩いた。
旅行中にbooking.comで予約していったホテル。2013年5月4日(土)から2013年5月5日(日)に1泊。湖畔にあって、窓からガリラヤ湖が見える。雰囲気はリゾートホテルのよう。
ホテルで荷を解いて、夕食へ。
ホテルが集まった地域の湖畔は歩きやすい遊歩道になっていて、レストランが並び、露店も出ていて、そぞろ歩きをする人がいてとても賑やか。これはイギリス統治時代、洪水被害があった際に復興のために作ったものらしい。家族連れらしき観光客が多い。
夕食は名物のセント・ピーターズ・フィッシュを注文。これは、聖ペテロの魚という名の通り、新約聖書でペテロが釣り上げたおめでたい魚とのこと。
出てきた魚を見ると、熱帯魚のようで結構グロテスクな形。しかし、淡水魚なので期待していなかったが普通に美味しい。後で調べてみると、要はティラピアらしい。
翌日湖を覗いてみると、確かにこの魚が泳いでいるのが見える。
一泊した2013年5月5日(日)の朝、ホテルをチェックアウトして荷物を預けた。
ガリラヤ湖畔の観光スポットは広く点在しているので、どうやって回ろうかとツーリスト・インフォメーションに行ったところ、タクシーで回ることを進められたので、贅沢にも260シェケル(2時間)で観光することにした。
結果的にはこれが正解だったかも。外国人観光客は多いが、観光バスで乗り付ける団体が多い。
タクシーの運転手の説明によると、現在のガリラヤ湖畔はバナナの生産地になっていて、湖畔はバナナ畑がとても多い。
新約聖書に出てくるマグダラのマリアがいた「マグダラ」。遺跡があるが小さい集落。なにやらいろいろ作ろうとして工事をしている。
湖畔に博物館があり、発掘された「イエスの船」が展示されている。これはイエス・キリストが乗った船・・・ということではなく、イエス・キリストが布教した紀元前の頃の船であるということ。当時の船の様子がうかがえて興味深い。結構大きい。
イエス・キリストが山上の垂訓を行った・・・とされる丘の上に立てられた教会。結構新しい。観光バスでの団体客が多く、インド人、中国人も多い。教会は小さなものだが、中には山上の垂訓の絵がある。ヨハネ・パウロ二世も来たらしい。
教会の近くには歌を歌っている人たちが居て、キリスト教以外にはちょっと場違いな感もある。
近くのタブハ村にはパンの奇蹟の教会というところもあるが、村の入り口がなぜか閉まっていて入れなかった。
イエスが漁師のペテロとアンデレに出会ったとされる場所にある。その銅像もある。湖畔まで降りたところにある小さな教会で、日曜日なので中はミサらしきものをやっており、中をのぞけたが入れなかった。
外でやはり歌を歌っている人がいる。
カペナウムともいう。かつてイエスが住んでいた街の遺跡。なぜか遺跡の真上に建物を建てている。
予定した2時間ぎりぎりになったので、ホテルに戻ってタクシーを降り、預けておいた荷物を受け取り、というかロビーに置きっ放しだったので取り上げ、最後に再度プロムナード。つきあたりにギリシア正教会修道院がある。現在は使われていないようで、放置されている感じ。
イスラムのモスクだが、広場の真ん中にあり、現在は使われていないようで放置されている。
湖畔から登っていくと、十字軍の城壁が残されている。
十字軍の城壁を見た後そのまま中央バスターミナルへ。ちょうど出発する12:55の835番のバスでテルアビブへ出発した。
テルアビブは今では大都市だが、もともとはヤッフォという小さな港町の近くにユダヤ人が移住してきたのが始まり。今では大きく成長し、ヤッフォを飲み込んでしまった。そして、新しい街なのにこの新しく作られた街並が世界遺産になっている。
地中海沿いで海沿いに行けばビーチが広がり、ホテルが建ち並び、リゾートのよう。
各国はエルサレムを首都と認めていないので、テルアビブに大使館等が集中している。
イスラエル旅行で2013年5月5日(日)にティベリアから到着し、2泊して5月7日(火)に出発して、仁川経由で帰国した。
2013年5月5日(日)にティベリアから到着。
テルアビブに入ると高層ビルが建ち並び、道も結構混んでいる。テルアビブの中央バスステーションは巨大な建物で、バスは高架を通って上階に着く。ここから外に出るには下に降りていく。
ホテルの場所が分からないのでタクシーで行ってしまおうと思ったが、声をかけてくるタクシーの運転手もホテル名を知らず、面倒なのか、そこからシェルートに乗れ、という。商売っ気がないのか不思議。
ちょうど来たシェルートに乗り、地図を見てマゲン・ダヴィド広場で降り、歩いてホテルに向かった。
市場を通っていくことになるが、昼食を食べ損なっていたので、ファラフェルを購入。ファラフェルはひよこ豆のコロッケ。味見させてくれて美味しかったので注文すると、ピタに野菜と詰めたサンドイッチとして渡してくれる。
旅行中にbooking.comで予約していったホテル。2013年5月5日(日)から年5月7日(火)に2泊。
イエメン人地区と呼ばれる細い路地が集まった、カルメル市場のすぐそばにある。
部屋はベッドが占領するような日本のビジネスホテル並みに狭い。装飾はとてもとても凝っている。女性には良いかも。
到着した日は2013年5月5日(日)は、ホテルで休んだ後、ホテルの近くを散策。ホテルは海に近く、ちょうど地中海に沈む夕日を見ることができた。
夕食はパスタで軽く。
到着した翌日、2013年5月6日(月)はテルアビブの南側を観光。
シャローム・タワーを通り過ぎ、ハガナー博物館へ。ここはイスラエル国防省が管理する博物館なので、ちょっと近づきにくい。
荷物検査を受けて受付に行くと、迷彩服を着た若い可愛らしい女性が愛想良くチケットを売ってくれ、ハガナーに着いて説明してくれた。このあたり、意図的にソフトな印象を作っている気もしないでもない。
ハガナーとは非合法の軍事組織で(と笑顔で説明してくれた)、イスラエルの建国前、入植したユダヤ人の自衛組織として生まれた。武装した自衛組織は他にもあったが、ハガナーはその中でも中心的な組織で、建国時の第一次中東戦争を通じて現在のイスラエル国防軍へとつながっている。
この博物館はそうしたハガナーの活動(活躍)を資料や模型で示したもの。今のパレスチナ問題につながるイスラエル側の立場がよくわかる。
ユダヤ人の入植地がたびたびアラブ人に襲われたこと、特にヘブロンでは、自分たちはアラブ人と融和しているからとハガナーの支援を断った結果、虐殺されたことなどが展示されている。
ハガナー博物館の後は独立記念ホールへ。こちらは若い団体客もいて、明るい雰囲気。
1948年5月14日に、ベン・グリオンによって独立宣言がなされた場所。しかし、会議室と言っても良いくらいのこじんまりとした建物。
入ると、さあ中にとせかされ、独立宣言が行われた部屋に座らされる。席がいっぱいになったところで、一人の女性が英語で解説。独立宣言がどのように行われたか、その後イスラエルがどのように戦ってきたかを説明してくれた。
この女性のスピーチがとてもうまく、時折冗談を言って笑わせながら、理だけでなく情に訴える。ちょっとうるっと来てしまった。
迫害されたユダヤ人がこの地で生きるため、建国宣言が、準備も不十分な中で行われたこと、十分な武器もない中、世界中から義勇兵が来て独立したこと。「今でも私達は厳しい環境にある。私もまだ子供のような娘を軍に送りたくない。しかし、それなしには私達は一瞬たりとも生き延びることができない。」
出口には「Trip Advisorで是非評価してください」という表示。このあたりの巧みさ。日本の観光地はまだまだこなれていないね。
シャローム・タワーはひときわ目立つ高層ビル。オフィスが入ったビルだが、展示室のようなものがあって、昔のテルアビブの写真が飾ってあって興味深い。
シャローム・タワーから歩いてヤッフォまで。住宅地を通っていくが、世界遺産の街ということで、おもしろい建築の家があっておもしろい。
幹線通りをそれて海側に歩いていると、時計塔がある広場に出てヤッフォに着く。この時計台は、オスマン帝国時代に作られたもの。
ヤッフォはテルアビブができる前、というより紀元前からある港なので、テルアビブとは違う、古びた、そしてのんびりした雰囲気。ここから見るテルアビブの街も地中海の青に映えて美しい。ヤッフォの前の海にはギリシャ神話でここに縛り付けられたアンドロメダをペルセウスが救ったという岩がある。
昼食はシシャリク。これは美味しかった。
歩きすぎたのか、足にマメができてしまった。
夕食はTripAdvisorで調べて小さなレストランにカウンターに座って食べたが、作るところが見えておもしろかった。黒板に書かれたヘブライ語のメニューはわからないので、おすすめを説明してもらい、最初はホタルイカみたいなイカとオクラの炒め物。そして、まだ食べる?ということで、ラムのキュウリ・醤油ソースがけのステーキ。これもおいしかった。一緒に飲んだワインもおいしかった。203シェケルで、チップを追加。
イスラエル最後の日、2013年5月7日(火)はテルアビブの北側を観光。
ホテルをチェックアウトして荷物を預け、25番のバスでテルアビブ大学まで行った。学生が多くて明るい雰囲気だが、入り口は日本の大学と違ったものものしさがある。
キャンパスの中にディアスポラ博物館があり、各国のシナゴーグの建物の小さな模型や、ディアスポラ(拡散)した後の各時代、各場所のユダヤ人の生活の解説がある。
ディアスポラといっても、ユダヤ人がいた地域は同じではない。政治的な状況によって移動したこともあるし、人口の増え方も一様ではない。圧力によってキリスト教やイスラムに改宗したユダヤ人も少なくない。そのため、かつてはスペインにも多かったが、レコンキスタ後は東ヨーロッパ、特にポーランドに多くなる。他の地域よりヨーロッパのユダヤ人の人口増加が著しかった結果、イスラエルに移民してきたユダヤ人の出身地でみると、ヨーロッパが61.0%と大半になっている。最近は特にロシアからの移民が多く、文化的にも影響を与えているとのこと。
1919年から建国までの移民が482,857人に対して、建国から1992年までの移民は2,286,676人。イスラエルという国は本当に新しい国であると感じる。
テルアビブ大学を出て南に戻ってくる途中にある大きな博物館。考古学の展示やコインの展示などおもしろいが、エルサレムのイスラエル博物館のほうが規模も大きかった気がする。
ちなみにイスラエルの博物館でよく見る"Eretz Israel"という表現は、「イスラエルの地」というユダヤ人の表現のようだ。
博物館の入り口横にあるレストランで昼食にピザ。特にコシェルの店ではなかったが、チーズの上に肉はなく、キュウリだけ。普通に美味しかったが。
食事の後、25番のバスでディゼンホフ・センターまで行き、通り沿いのスーパーでワインを購入。さらにカルメル・マーケットで殻付きアーモンドを発見したので購入。
このワインが後で面倒なことになるのだが・・・。
ホテルで荷物を受け取ってから、最後にビーチを見て、16番のシェルートで鉄道のハガナー駅へ。
チケットを買うと乗り場を指示され、ベン・グリオン空港まで。
悪名高い、イスラエルの出国手続き。大事をとって4時間前に到着。
空港駅で電車を降りて、空港に入る通路を進むと、なぜか呼び止められて、イスラエルで滞在した都市や期間について質問されて、X線ゲートで検査。他の人は普通に通っているのに非常に感じ悪い。
次はチェックインする荷物のX線検査。これは多くの空港で行われることだが、その前にいろいろ質問される。英語がよくわからなかったら、日本語の質問が書いた紙を持ってきた。そんなのあるなら最初から持ってくれば良いのに。とても慎重にみていて時間がかかる。普通、「このX線検査はフィルムに影響を与えません」といったことが書いてあるものだが、「フィルムに影響します」と思いっきり書いてある。
さてX線検査が終わったのでこれで終わりかと思うと、次のセキュリティチェックのコーナーで、X線検査の結果をみながら鞄を開けて検査。つまり、X線検査は中身の検査の準備に過ぎない。電子機器は別にされ、なにやら棒でごしごしこすり、それを検査機につけて何か見ている。ワインが1本あるだろうといわれて取り出され、何度も透かしてみた後、これは開けて検査できないから、と別の段ボール箱にパッキングされ、チェックインカウンターまで連れて行かれた後、その段ボール箱だけ荷物を運ぶエレベーターまで一緒に着いてきて預けた。対応はきわめて紳士的だったが。
大韓航空KE958便で23:00にテルアビブのベン・グリオン空港を出発。仁川には翌日の5月8日(水)に到着。かなり疲労。x
仁川空港から17:05発のKE707で成田空港へ。成田エクスプレスで吉祥寺駅まで行って帰宅。
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