最終更新日 2015年11月29日
2010年8月にロシア旅行で訪問。
2014年5月にウラジオストク・ハバロフスク旅行で訪問。
国名 | Российская Федерация(ロシア語)、ロシア連邦(日本語) |
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国土 | ユーラシア大陸の北部の大部分を占めており、アメリカ合衆国、北朝鮮、中国、モンゴル、カザフスタン、アゼルバイジャン、グルジア、ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エストニア、リトアニア、ポーランド、フィンランド、ノルウェー、グリーンランド(デンマーク)と国境を接している世界最大の国。 |
気候 | 冷帯気候が多い。しかし、サンクトペテルブルクとモスクワに訪問した2010年は記録的な猛暑! |
人口 | 約1億4326万人(2003)。 |
民族 | ロシア人81.5%、タタール人3.8%、ウクライナ人3.0%など多数。 |
宗教 | ロシア正教、イスラム教。 |
首都 | モスクワ(ロシア語Москва) |
経済状況 | 一人当たり国内総生産15,921ドル(PPP,2008)。 |
時間 | UTC+2〜+11。ヨーロッパ・ロシアのほとんどはUTC+3で、日本より6時間遅れ。極東のハバロフスクとウラジオストクは日本より(西なのに)2時間進んでいる。 |
公用語はロシア語。ただし、少数民族の言語は多い。
英語は観光地ではある程度通じる。観光客の数の違いか、モスクワよりサンクトペテルブルクのほうが良く通じる気がした。
ルーブル。補助通貨単位がカペイカで、1ルーブル=100カペイカ。
ドルやユーロは容易に両替できる。日本円は極東以外ちょっと難しい。ATMもたくさんあって、国際キャッシュカードも使えるが、表示がロシア語のみのことがあるのでよく確認する必要がある。
これは難しい。ソ連時代は習慣がなかったらしいが、現在はサービスが良ければ払うことがある〜ある程度払うといった様子。
必要。
どこでも自由に行ける日本のパスポートを持ってしても、未だに旅行がしにくいのがロシア。当然ビザがいる。他の国では、ビザをとれば自由旅行出来るのだが、ロシアの場合は旅程を確定した上で申請しなければならない。従って、旅行中に変更など出来ない。そういったこともあって、扱いに慣れた旅行代理店に依頼することになる。これまで行った際にはマックス・エーのフリープランを利用した。
サンクトペテルブルクもモスクワも観光客が多い。外国からの観光客もいるが、ロシア人の観光客が多い。外国人はロシアに行きにくく、ロシア人は外国に行きにくいからかも。
ロシア料理。日本ではあまりなじみがないが、素朴な田舎料理と行った感じで結構おいしい。でも、あのちょっと酸っぱい黒パン(ライ麦パン)は飽きるかも。
あと、特筆すべきことは「スシ」の浸透ぶり。日本食が流行っているのではなく、スシ。他の国のように、中華や韓国料理と一緒に東アジア料理として供されるのではなく、スシ。サンクトペテルブルクとモスクワでは、感覚として、日本の飲食店の中華料理の割合くらい、「スシ」の店がある。もちろん、カウンターで握って出されるようなものではなく、普通のレストランのようなところで、不思議な食べ物が出されている。一応生魚なので、食べる勇気はなかったけど。
もう1つ、有名な話だが、やはりロシア人は酒好きな模様。ビールはとにかく安い。値段で言えば、コーヒー>ジュース>水>ビールといった感じ。コーヒーを主体としたカフェでもアルコールはメニューにあるし、なぜかサンクトペテルブルクとモスクワではモヒートが流行っていた。
ロシアを含む旧ソ連圏を旅行していると、ほかの地域とちょっと違う独特の文化というかしきたりがあって、最初はちょっと戸惑うことがある。
サンクトペテルブルクはバルト海に開かれた港町で、帝政ロシアの首都であった。ただし、古くからあった街ではなく、1703年にピョートル大帝によってネヴァ川河口の沼沢地に、多大な犠牲と引き替えに建設された。
日本ではあまり知られていないかも知れないが、観光地。現在ではモスクワに首都が移転してしまったものの、美しい街並みが残り、観光客が多い。街がサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群として世界遺産となっている。モスクワが政治、ビジネスの街とすれば、サンクトペテルブルクは学問と文化の街、といった趣がある。東京と京都といった感じでしょうか。観光客も目立ち、英語もモスクワよりよく通じるように感じる。
サンクトペテルブルクとはドイツ風の名前だが、ドイツと戦争となった第一次世界大戦では、ペトログラードと名前が変えられた。さらに、ソ連時代にはレニングラードという名前になった。ソ連崩壊後、再びサンクトペテルブルクとなった。
しかし、猛暑でとても暑くてきつかった。
ロシア旅行で2010年8月7日(土)に仁川空港経由で成田から到着し、1泊して2010年8月10日(火)にモスクワへ向けて出発。
2010年8月7日(土)の朝、日暮里まで行って、新たに開通したスカイアクセス経由のスカイライナーで10:05日暮里発。いつもは東京まで行ってから成田エクスプレスだったが、切符を事前にカードで予約していった。日暮里駅の乗り換えもスムーズで、1回乗り換えが増えるとしても、やはり成田エクスプレスより速くて快適。車内は新しし、天井が高く、足下にはコンセントがあるなど工夫されているが、正直何となく安っぽい雰囲気。まだ開通して新しいせい?かもしれないが、空いていた。
成田空港に10:44に着。これも初めてだが、大韓航空KE702で12:55に成田空港を出発し、15:20に韓国の仁川空港へ到着。仁川空港は日本のハブ空港として有名だが、確かにコンパクトにまとまってオランダのスキポール空港のような感じ。ただし、困ったのはATMがないことで、仕方ないので手持ちの日本円をウォンに両替した。
さらに17:45発の大韓航空KE929で仁川空港を出発。隣の席には若いヨーロッパ系の女性が座ってきて、「アンニョンハセヨ!」と挨拶された。彼女はサンクトペテルブルクの大学に通うロシア人の大学生で、韓国語を勉強しているので韓国に長期滞在していたとのこと。こんな遠いところまで、と思ったが、出身はマガダンという極東の街で、実は近いのだそうだ。彼女にはロシア、サンクトペテルブルクについて色々教えてもらい、ロシアで何か困ったら連絡してね、と連絡先までもらってしまった。旅行中も感じたが、ロシア人ってイメージと違って結構親切。
22:20にサンクトペテルブルクのプロコヴォ空港到着。ルアーのオプションで送迎は頼んであったので、到着ロビーで落ち合って、車で市街へ。空港の外に出ると、ようやく日が沈んだところだったが、生暖かい。街中を通って、オクチャブリスカヤホテル(別館)にチェックイン。
41 Ligovsky prospect, ST.Petersburg
今回はツアーだったので、あらかじめ予約されていたホテル。というか、ロシア旅行は事前に予約しておかないとならない。
オクチャブリスカヤホテルというのは同じ広場に面しているが、今回泊まった別館とは別のところ。古さもあって、旧ソ連圏のホテルとしてはまあこんなものか、という感じ。場所は目抜き通りのネフスキー通りの端で、モスクワ駅がある広場に面しているので、交通の便はよい。ホテル内にATMがあったのだが、表示がロシア語のみで、使えなかった。
しかし、この夏に泊まった、ということで言えば、エアコンがないので暑くて大変だった。窓を開けると蚊が入ってくるし、そもそも安全上も問題あるし。
初日2010年8月8日(日)の観光は、エルミタージュ博物館を目指してネフスキー大通りへ。
サンクトペテルブルクの一番の中心街と言えばネフスキー大通り。トラムも走っていて、深夜まで人通りが絶えない。いくつかの観光地もこの通りの近くにある。
通り沿いの建物も気合いが入った立派なものが多く、単純に歩いてみてもおもしろい。ほぼ東西に延びた通りなので、北側が日当たり側、南側が日影側と呼ばれている。
劇場の前の広場には、エカテリーナ2世の像がある。
ゴスチーヌィ・ドヴォールというショッピングセンターというか市場のような建物がある。この前にはたくさんのツアーのキオスクのようなものがあり、観光客で賑わっている。しかし、英語のものは限られている。さらに歩くと列柱の回廊を持つカザン聖堂が見える。
エルミタージュ博物館は宮殿でもあった建物で、ネヴァ川沿いにある。川と反対の向かいには旧参謀本部の立派な建物があって、その間が広場になっている。
朝一番に行ったがもう行列が出来ていた。時間毎に一定数を入れているようで、しばらく並んでようやく入場。入場料はロシア人、外国人といろいろに分かれている。でも、国際学生証を見せたら、無料になった。
行列で予想されたことだが、中も大混雑。レオナルド・ダヴィンチの絵とか、絵の前に列が出来ている・・・。宮殿なので部屋に分かれているが、部屋と部屋の間の狭い出入り口も混雑。
さらに、クーラーがなくて暑かった。日本では絵画の保存のために空調は必須、というイメージだが絵がとけるんじゃないかという暑さ。
だんだん朦朧としてきたが、絵は確かにすごい。ピカソだって、一つの大きな部屋が全部ピカソという感じ。
弱ってきたので、館内のカフェでケーキとコーラで昼食にして少し元気になった。
エルミタージュ博物館から歩くとすぐにネヴァ川に面したデカブリスト広場があり、ピョートル大帝の像が川に向かっている。ピョートル大帝はその名が街の名になっているように、何もなかったところにサンクトペテルブルクを作った人。そのためか、サンクトペテルブルクではいろいろなところでその名を見聞きするが、モスクワではあまり見ない。
川を背にして進むと巨大なイサク大聖堂が見える。軟弱な地盤の上にこのような巨大な建物を建てるのは大変だったそうだ。
イサク大聖堂のドームには上ることができる。なぜか入口は反対側にあって、そこから上ると素晴らしい眺望が・・・というところだが、空気があまりきれいでないのか何となくもやがかかった風景だった。
すごい名前だが、アレクサンドル2世が暗殺された場所に息子のアレクサンドル3世が建てたもの。20世紀になってから出来たもので、コンクリートを使って建てられているとのこと。
ゴスチーヌィ・ドヴォールで翌日のツァールスコエ・セローのツアーの予約をした。英語のツアーは数が少ないので会社の選択肢はあまりない。
夕食はヨールキ・パールキというレストランで食べた。これはチェーン店でどこにもあるが、なかなか良い。
ロシアなのでまずはビール。酸味がある黒パンが出てくる。ウハーという魚のスープを頼み、ビーフストロガノフを食べた。ビーフストロガノフはロシア料理、というだけではなく、サンクトペテルブルクのご当地料理。ストロガノフさんの家で考えられた料理。
料理もおいしかったが、美人ウェイトレスの笑顔で溶けそうになった。なぜかロシアの女性は親切ですね。
2010年8月9日(月)はまず朝からロシア美術館。目の前にはプーシキンの像が建っている。サンクトペテルブルクではエルミタージュ博物館と並んで有名な美術館で、ここはロシア絵画を中心に展示している。しかし、なんと20世紀部分がクローズしていた。
ネヴァ川を渡るとヴァシリエフスキー島側にいける。メンシコフ宮殿を見ようと思ったが、閉まっているようだった。島の岬にはロストラの燈台柱という変な柱が立っている。柱の横に船の先っちょがくっついているような形をしている。
こちら側から対岸を見ると、壮麗なエルミタージュ博物館が見える。そして、この橋が夜にのったボートツアーでぱかっと開く。
サンクトペテルブルクの周辺にはいくつか離宮があって、これを訪れるのも人気がある。ペテルゴーフ、ツァールスコエ・セローの両方とも、世界遺産としてのサンクトペテルブルクの構成要素となっている。
どちらに行こうか考えたが、琥珀の間で有名なツァールスコエ・セローにした。これはプーシキンとも呼ばれていて、ツアーの名称はプーシキンだった。単独で行ってもツアー客優先で入場制限されると言うことなので、ツアーとした。1800ルーブル。
14:00にバスで出発、サンクトペテルブルクの郊外に出る。ツアー客はロシア人がやはり多いが、中国人もいた。なのに、ガイドさんは、宮殿の入口前のお土産屋は中国製ばかりで質が低いので気をつけたほうが良い、というアドバイス。
着いたは良いものの、エカテリーナ宮殿の前は行列になっていて、炎天下なのに、なかなか中に入れない。入っても行列で、階段を少しずつ昇る感じでそのうち混んでいるせいか気分が悪くなり、お腹が痛くなってきた。何とか我慢したが、気が遠くなってきた。
ようやく大広間に入ることが出来、冷房も効いていたが、意識がもうろうとしてしまった。この大広間は「おろしや国酔夢譚」で大黒屋光太夫がエカテリーナ2世に拝謁した場所とされる。
そこからは小さな部屋(といっても大きい)が続いており、その中の1つが琥珀の間となる。ここだけは写真撮影も禁止されている。名前のとおり、壁一面を琥珀で覆ったというすごい部屋。第二次世界大戦時にドイツ軍に持ち去られてしまったというが、それを再現して作り直したものらしい。
建物の中を見た後は、エカテリーナ宮殿の反対側にでて、庭園を散策する時間があった。庭園にはエルミタージュがあり、池があり、池の畔にはグロットと呼ばれる建物がある。
ホテル近くのセルフサービスのレストランで夕食。390ルーブル。まあまあの味。
夕食をとった後ホテルに戻って一旦休んでから、深夜にボートツアー。このボートツアーはサンクトペテルブルクの観光の1つの売り。沼沢地に作られたサンクトペテルブルクは川や水路が網の目のようにあるので、そこを通って街を見ると言うもの。昼間からたくさんのボートが水路を行き来している。ANGLOTOURISMOという会社の英語のツアーがある。
さらに、真夜中に出発するものがある。これは、水路から夜景を見ようというもの。最後はネヴァ川にでて、橋が開くのを見ようというもの。ちょっと夜で歩くのは怖かったが、英語のツアーがあるようなので乗って見ることにした。静かな街も、ライトアップされていて良い気分。
ボートは水路を巡って街を見た後、エルミタージュ博物館の横を通ってネヴァ川に出る。ここが実はハイライト。ネヴァ川にかかった橋は、橋は照明を点けたまま、夜間に時間差で開く。多分に観光客向けのような気もするが、とても良かった。
橋が開くところ(動画Windows Media)
夜のネフスキー大通りを通って未明にホテルに戻って就寝。
2010年8月10日(火)は朝から地下鉄に乗って、アレクサンドル・ネフスキー教会へ。ネフスキーとはネフスキー大通りのネフスキーで、ロシアの聖人の一人だそうだ。
再びネフスキー大通りに戻って、ロシア美術館の右隣のロシア民族学博物館に。ここは楽しかった。シベリアを含むロシア各地の展示がされている。1階の服装の展示もおもしろかった。各地の各民族で服はもちろん、靴の形も違うけど、どこでも女性はおしゃれですね。
次は、ネヴァ川の対岸でも、ヴァシリエフスキー島側ではなく、ペトログラード側へ。このペトログラード側というのは、サンクトペテルブルクでももっとも古い場所で、ここにピョートル大帝が要塞を築いたことから街の歴史が始まった。
ここにはモスクがあるが、そのデザインというか色遣いは、明らかに中央アジア風。しかし、こんな高緯度でラマダーンなんてやったら、日没まで飲み食いしない、というのは相当つらいと思うのですが。特に今回のように暑い夏だと。
それ以外に、ここにもスシ・バーがあった。ロシアは私が見たどの国よりも日本食ブームです。それが日本食だとすれば。日本でいえば、街中で中華の店やラーメン屋を見るとの同じくらいの感じで日本食店、というかスシ・バーがある。看板の右側がスシ・バーと読める。
さて、政治史博物館というとちょっと特殊な博物館になるが、おもしろかった。展示はロシア語がほとんどだが、展示室毎に番号に対応した英語の説明の紙をくれるので、ある程度わかる。係員も、「よく見て行きなさいよ」という感じなので、否が応でも見なければならない。おもしろいけど。
この建物自体が、ロシア革命当時にロシア社会民主労働党とボリシェビキが使っていた建物だそうだ。革命が起き、しばらくは自由があったものの、ネップが実施され、さらにスターリンの時代となり、徐々に経済も体制も変質していく。
ペトログラードにある要塞がペトロパヴロフスク。六角形の壁に囲まれた要塞の中に教会や博物館といったいくつかの建物があり、ちょっとした遊園地のような観光地になっている。
堀に囲まれて島のようになっているのでわたって入口へ。ペトロパヴロフスク聖堂、サンクトペテルブルク歴史博物館、監獄、要塞博物館を見た。
最後は宇宙とロケット博物館を見てから、パノラマ遊歩道を歩いた。
宇宙とロケット博物館には当然ソ連の宇宙開発が誇らしげに展示されているが、各国からも賞賛の報道、といった感じのコーナーに、日本のとある新聞も展示されていた。そうですか。
パノラマ遊歩道からは、ネヴァ川を挟んでエルミタージュ博物館やイサク大聖堂が見える。
カフェでギネスとタリアテッレを食べてから、出発まで時間があるので、再び今度は明るい中でのボートツアー。座ったままで観光できるので、疲れなくて良い。
昼のボートツアーでは、夜景はないし、例のライトアップされた橋のオープンというイベントはないが、橋そのものをよく観察できる。こんなのがよく開くよな、という感じ。
ボートに乗った後は、シンガー社の2Fのカフェでコーヒーを飲み、1Fの本屋で絵はがきとポスターを買った。絵はがきはサンクトペテルブルクの景色のもの、ポスターはソ連時代のポスターのレプリカ。
旧ソ連でも、ロシア以外ではソ連自体のものは否定的なものとして、撤去されたり消されたりしていることが多いように思うが、ロシアではネタというか、懐かしいものとして残されたり、振り返られたりしているように感じる。
再びネフスキー大通りへ。アレクサンドリスキー劇場という立派な劇場があるが、その裏はロッシ通りという通りになっている。この劇場も通りもロッシという建築家によるもので、通りは同じような建物が並んだ不思議な街並みになっている。
ホテルに戻り、荷物を受け取って、2010年8月10日(火)の夜にモスクワ駅を赤い矢号で23:55に出発。ロシアの駅は、ヨーロッパと同様、行き先によって複数の駅があるが、大抵行き先が駅名になっているというわかりやすいルール。
赤い矢号はサンクトペテルブルクとモスクワの間を結ぶ特急で、飛行機もあるのだろうが、未だに人気がある豪華列車とのこと。駅のホームに行くと、列車の入口すべてに、係員が同じ方向を向いて直列して迎えており、なかなか壮観。
車内は4人部屋で、イタリア人のカップルと一緒だった。クーラーも効いていて静かで、あまり揺れないので熟睡してモスクワへ。
ロシアの首都。一時はサンクトペテルブルクに首都の座を譲ったが、ソ連で再び首都となった。クレムリンを中心とする街は、道路が広く、権威主義的な感じがする。
私の祖父、高谷覚蔵は1923年から10年あまり、モスクワやウラジオストクなどに滞在したので、高谷家とも因縁がある街。
猛暑の上、森林火災によるスモッグ騒動の中での訪問だったが、幸いなことに滞在中の空気はきれいだった。
ロシア旅行で2010年8月11日(水)の朝にサンクトペテルブルクから到着し、2泊して2010年8月13日(金)に仁川空港経由で成田へ向けて出発。
2010年8月11日(水)の朝にサンクトペテルブルクから夜行列車赤い矢号で朝の7:55にモスクワのレニングラード駅に到着。スモッグ騒ぎが心配だったが、空も青く、空気もきれいなのでほっとした。
列車内で出た朝食は手を着けずにカバンに入れ、レニングラード駅から地下鉄でホテルに向かった。
150 Prospect Mira,Moscow
+7(495)234-1000
旧ソ連時代からあるらしい大型ホテル。建物の権威的な雰囲気はいかにもソ連時代の建築という感じがする。地下鉄のВДНХ(ヴェー・デー・エヌ・ハー)駅からすぐ。
チェックインしたが、今回はツアーでメトロカードがもらえることになっており、それはホテル内のIntouristで受け取るように、とのことだったので、事務所について受け取った。対応した女性によると2日前は息ができないほどのスモッグだったとのこと。シャワーを浴びたらクーラーも効いていて気持ちよく、疲れが出て昼までぐずぐずしてしまった。
ホテルで休んでから、早速中心部のクレムリンへ。クレムリンというのはアメリカのホワイトハウスのように権力の代名詞だが、城塞という意味の一般名詞らしい。モスクワのクレムリンは城壁に囲まれた地区になっていて、その中の建物にロシア連邦大統領府がおかれているが、その他の地区は見学することが出来る。
結構人気の観光地になっており、早速中に入ろうかと思ったが混んでいるので、クレムリン横の赤の広場を見るだけでまずは終了。日差しが強くて暑い。
クレムリンは挫折して、地下鉄で救世主キリスト聖堂へ。最初は歩いて行こうと思ったが、モスクワの中心部は完全に車中心に出来ていて、何車線もの道路が走っていてわたる方法がない。仕方なく地下鉄で。
かなり大きな建物だが、これは古い建物ではなく、2000年に出来たもの。もともとこの地にロシア帝国時代に作られたが、ソ連時代の宗教弾圧で破壊されてしまった。それを復活したもの。
1930年の頃と記憶している。極東からモスクワへ行っていたとき、この寺院の爆破があるということで見に行ったことがある。現場に行ってみると、寺院の周囲の民家の窓という窓があいて、人が鈴なりになって寺院のほうを眺めている。ゲペウが寺院の周囲を取り巻き、その1箇所でゲペウ軍楽隊がインターナショナルを奏ではじめた。それを合図に爆破がしかけられ、さしも、立派な国宝級の大寺院が、一瞬にして大音響とともにつぶれてしまった。
高谷覚蔵「レーニン スターリン マレンコフ」(昭和28年)
救世主キリスト聖堂から道を挟んだところにはプーシキン記念美術館がある。観光客のお目当ては、隣に別館としてあるヨーロッパコレクション部。
サンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館は、クーラーもなくてものすごい人で暑くて気が遠くなったが、こちらは涼しく、人もそれよりは少ないのでゆっくり見られた。本当に良かった。ゴッホの「赤い葡萄畑」というとても鮮やかな絵がありますが、これはゴッホの生前に唯一売れた絵としても有名です。
さらに地下鉄で移動して雀が丘を目指した。道を結構とぼとぼ歩いていかなければならないが、丘まで歩く途中にはモスクワ大学の建物が見える。大きくて強そうで、典型的なスターリン・クラッシック様式の建物。
丘まで着くと、そこから先は崖のように急にモスクワ川まで落ちていて、展望台になっているので、モスクワの街を眺めることが出来る。露店も出ていてちょっとした賑わいとなっている
山紫水明の日本からきている日本人には山のないのが淋しかった。そこでよくモスクワ郊外の雀ヶ丘に行った。モスクワ人はこれを山だと思っているが、私たちにすれば丘までもゆかない町の高所というくらいの所だった。それでもとにかく山らしいのだから私たちには魅力があった。ここは昔ナポレオンがモスクワに攻め入ったときここに立って燃えるモスクワを眺めたというので有名であった。
高谷覚蔵「レーニン スターリン マレンコフ」(昭和28年)
展望台からはリフトで下のモスクワ川の河畔まで降りること出来る。
河畔まで降りるとちょうど船が出るところだったので、クルーズ船に乗りこんだ。
暑いので、船の後尾の椅子に陣取り、ビールを頼んだが、酔っぱらったのと暖かいので少し寝てしまった。
救世主キリスト聖堂、クレムリンとその横のポクロスフキー聖堂がよく見える。川の中にはピョートル大帝の像もある。雀が丘近くの橋は橋自体が地下鉄の駅になっている。
モスクワ川クルーズはいくつかルートがあるようだが、今回飛び乗った船は乗ったところに戻ってしまった
雀が丘から川沿いを歩いて橋にある駅から地下鉄で中心部まで。レストランが集まったカメルゲルスキー横町でチェーン店のレストランに入って夕食。
ボリショイ劇場やマルクスの像があった。ちなみに「ボリショイ」というのは固有名詞ではなく、「大きい」という意味で、ボリショイ劇場は大劇場という意味らしい。
ホテルに帰って就寝。
モスクワ2日目の2010年8月12日(木)、朝一番にレーニン廟。レーニン廟は荷物やカメラの持ち込みにうるさいので、ホテルに荷物を置いて手ぶらで朝のクレムリンへ。
レーニン廟は赤の広場にクレムリンにくっつく形であるが、ここの入口から直接は入れない。赤の広場へ入る門のあたりから長大な列に並ばなければならない。
一定の人数ずつ中に入れていくので、長い列で待った後入場。名前の通り、レーニンの遺体が安置されている。レーニン廟の周りも墓になっている。
レーニンの遺骸はモスクワに運ばれ、組合会館に安置された。連日各国共産党員が交代で棺の傍らによりそってこれを守った。私も一夜日本共産主義者を代表して、劍つき銃を持って棺につき添った。平常服につつまれた彼の遺骸の下半身は赤旗で覆われ、彼の両手はそっと腹のあたりに置かれていた。
彼の死顔には長い間病魔にとりつかれた肉体的苦痛がありありと現れていた。しかし、その苦痛の中にも革命の将来を夢みつつ死んで行ったと思われるような、どこかロマンティックな明るさをさえたたえていた。
高谷覚蔵「レーニン スターリン マレンコフ」(昭和28年)
レーニン廟の後は、赤い広場からも近いモスクワ沿いの英国館へ。小さな建物だが、英国人商人屋敷を再現して建てたもので、博物館になっている。
再び赤の広場に戻って、広場に面したポクロフスキー聖堂を見学。この聖堂は、赤の広場の映像でよくテレビに出てくる、しましま模様のタマネギがいくつものった独特のデザインの建物。モンゴルへの戦勝を祈念して建てられたそうだ。
ポクロフスキー聖堂と赤の広場を挟んで反対側にあるのが国立歴史博物館。これまた赤い色をした独特の建物。
暑くて疲れたので、赤の広場から少し歩き、コーヒーとケーキで休憩。一旦ホテルに戻って休憩。
再び地下鉄で移動して、今度はトレチャコフ美術館本館を見学。駅からは少し歩く。
こちらはプーシキン記念美術館・ヨーロッパコレクション部とは異なり、ロシア美術が集められている。ロシア絵画なんてあまりなじみがないが、西欧の絵画とは異なった独特の発展をしている。かつては正教の影響でイコンのような宗教がが中心だったが、西欧の影響を受けて写実的な絵が描かれるようになる。そして、西欧では19世紀後半になって印象派のように見たままを書くというところからは離れ始めても、そこには走らずに移動派と呼ばれる人々がロシアの身近な風景に素材を求めて絵を描いていく。中央アジアなどを描いたものがあっておもしろい。
中でもイワン・アイヴァゾフスキーというウクライナ生まれの画家の一連の海を題材にした絵は大きく迫力があり、水の透明感が表現されていて印象に残った。また、女性画家のセレブリャコワの絵は明るい色遣いで、自画像も含めてきれいだった。
美術館から駅に帰る途中のカフェでコーヒーを飲んで休憩。
地下鉄で移動して、モスクワ一の目抜き通りとされるアルバート通りを端から歩いた。歩行者天国になっていて、スターバックスもあった。ここにあるチェーンレストランで夕食。
ホテルに帰るために地下鉄の駅へ。地下鉄の駅はそれぞれ意匠を凝らしたものでおもしろい。中では撮影禁止なので、これは外からとったもの。字は「メトロ」と書かれている。非常に混乱しがちだけど、英語でいうTの筆記体は、まるで英語のMのような形になる。
ホテルに戻ってホテルの小さなバーでビールを飲んでから就寝。
モスクワ3日目2010年8月13日(金)は、朝一番にチェックアウトしてホテルに荷物を預け、クレムリンへ。混雑するのでチケットを早く入手しなければならない。
いくつか入口があるが、チケットが買えた。これも結構な値段がするチケットだが、国際学生証を見せたら安くなった。チケットには入場時間が記載されていて、その時間に入らなければならない。
まず、ボロヴィツカヤ塔から入り、10:00からのセッションで武器庫だけを見学した。武器庫といっても現在は博物館になっていて、ロシア帝国のコレクションが集められた博物館になっている。日本からのツアー客も多く、日本語で説明しているところもよく見た。
武器庫の後、時間が空いたので地下鉄で急いで雀が丘方面に行き、ノヴォデヴィッチ修道院を見学。
これも世界遺産で、クレムリンの出城の役目もしていた女子修道院。城壁に囲まれている。
ノヴォデヴィッチ修道院を見てから急いでクレムリンに戻り、今度はクタフィヤ塔からトロイツカヤ塔を通って入場。
クレムリンの中枢部は、教会がいくつも集まっている。無宗教を標榜していたソ連時代はどうしていたのだろう、と思う。イワン大帝の鐘楼はツアーで見学するルールのようなので、12:45からのツアーに参加。実はちょっと遅れてしまってツアーが始まってしまっていたが何とか入れてもらって追いついた。一番上まで行くと、教会がたくさんある聖堂広場を見渡すことが出来る。教会の真ん中にある黒っぽい三角屋根の建物は、グラノヴィータヤ宮殿で、中に入ることは出来ない。
聖堂広場を外に出ると、イワン大帝の鐘楼の前に、大きな欠けた鐘がある。これは鐘の皇帝と呼ばれているもので、18世紀に作られたが、作っている途中に火災があり、水をかけたところ欠けてしまったそうだ。
その隣には今度は大砲の皇帝と呼ばれる大砲が置かれている。
聖堂広場がある区画の外側には広い道路を挟んで大統領官邸がある。聖堂広場側を歩いているうちはいいが、この道路を渡って大統領官邸に近づこうとすると、警備員に制止される。
2010年8月13日(金)、クレムリンを見学してから大急ぎにホテルへ。
ホテルに15:00ぎりぎりに着き、荷物を受け取って、ツアーで含まれていた送迎の車でシェレメチェヴォ空港まで。この空港はアクセスも含めて評判が大変悪いが、道が渋滞して1時間半ほどかかり、車にクーラーがないので暑かった。行く途中の道では、オーバーヒートしているらしき車も2回見た。
なんとか空港に着き、クヴァースを飲み、ビールとイカのリングフライを食べて夕食。出国手続をして、大韓航空KE924便で20:40に出発した。食事はまたビビンバ。
翌日の8月14日(土)の10:00頃に韓国の仁川空港に到着。成田行きの大韓航空KE001は11:20出発予定だったが、空港内混雑のためか30分くらい出発が遅れ、成田空港に14:00過ぎに到着した。
行きと同様、またスカイライナーで日暮里まで行き、東京駅から中央線で帰宅した。
ロシアの極東、沿海地方(プリモールスキイ地方 Приморский край)の州都。日本海に突き出しているムラヴィヨフ・アムールスキー半島の先端にあり、さらに缶切りのように半島の先に金角湾が切り込んでいて、天然の良港となっている。当然のことながら軍事的にも要衝となり、ソ連時代は長く外国人が立ち入ることができなかった。現在でもロシアの太平洋艦隊の基地が置かれており、街中には戦争を記念する像などが多い。平地が少なく長崎や函館に似ているが、街並みはヨーロッパそのもの。
地図で見ると、緯度で札幌、経度で島根県ぐらいの位置にあり、日本からとても近い。東京からはソウルより近く、札幌からは東京より近い。街には日本車があふれ、スーパーマーケットには日本の醤油やカップ麺が置かれている。かつては日本人も多く住んでいたが、日露の関係から今では住む人も少なく、直行便の数も減っている。ご近所としてもっと多くの人に訪問してほしいところ。
私の祖父、高谷覚蔵は1923年から10年あまり、モスクワやウラジオストクなどに滞在したので、高谷家とも因縁がある街。
ウラジオストク・ハバロフスク旅行で2013年5月1日(木)に成田から到着し、2泊して2013年5月3日(土)にハバロフスクへ向けて出発。
2014年5月1日(木)に京成スカイライナーで成田空港第2ターミナルまで。スカイライナーのネット予約システムは毎回いらいらさせられる。パスワードを忘れたらパスワードを平文でメールしてきた・・・。暗号化せずに保存しているのか・・・。
シベリア航空S7のS7566は定刻の13:55より少し遅れて出発。ほぼ定刻通りの18:30にウラジオストク空港へ。着陸直前には森が続いているのが見えた。着陸すると、何人かの客が拍手。旧ソ連圏という感じがする。
ツアーなので、空港から送迎の車で50分ほどかけてウラジオストクの市街へ。
ツアーで指定されたホテル。ウラジオストク駅にも近く、周囲にレストランもあるので立地はよく、部屋もコンパクトだが新しくてきれい。1Fのイタリアンレストランも美味しい。
さて、部屋にいると、マッサージの勧誘電話が。隣の部屋からも電話の呼び出し音が聞こえたので、片っ端からかけているのかも。
東京から2時間ちょっとだが、街はヨーロッパそのもの。ただし、車は日本車。欧州車などが少ない分、日本よりも日本車が多いように感じる。97%日本車だと聞いた。左ハンドルの車と右ハンドルの車が混じっている。
一方で、サンクトペテルブルクやモスクワは寿司屋ばかりだったが、1軒しか見なかった。ただし、日本の影響はそれらの都市より強く感じる。
街路樹は芽吹いたばかりで、新緑の東京から一ヶ月ほど季節が戻ったかのよう。20度を超えていて暖かいかと思ったら、夜の風は冷蔵庫のように冷たい。雨が降ると日中でも気温が下がり、山の天気のよう。
ホテルの近くにはウラジオストク駅がある。駅前にはレーニン像があり、駅の背後には金角湾にかかる斜張橋の黄金橋が見える。
到着した5月1日(木)は、チェックインした後、ホテル近くのビアレストランで黒ビールとオヒョウの揚げ物。油っこいが、味は上々。テーブルの上を見ると、どの机の上にも普通にキッコーマンの醤油が置いてある。ロシア版ではなく、日本語で特選丸大豆と書いてある。特にそれ以外説明がなく、あまりにも自然に置いてあったが、みんな使うんでしょうか。ビアレストランで。
会計は780ルーブル。よく分からなかったのでチップなし。ホテルに戻って就寝。
翌朝の2014年5月2日(金)はまずメインストリートのスヴェトランスカヤ通りへ。中心なのに人通りが少ないと思ったが、午後になってようやく町に人があふれてきた。
スヴェトランスカヤ通りをまっすぐ進むと金角湾にかかる黄金橋をくぐる。支えている脚がとても薄っぺらいが、大丈夫なんだろうか。
軍港であるせいか、街を歩いていると戦争を記念する像が目立つ。第二次世界大戦があり、ロシア革命があり、極東であるせいか日露戦争のものもある。この像も日露戦争にちなんだもののようだ。
スヴェトランスカヤ通りを黄金橋をくぐって歩き、ケーブルカーで鷲の巣展望台まで。金角湾に広がるウラジオストクが一望できる。中国人がグループで来ていて写真を撮ったり賑やかだった。
スヴェトランスカヤ通りを戻り、ニコライII世凱旋門へ。1891年の大津事件で切られたニコライII世が訪日後に立ち寄った際に作られたそうだが、現在のものは新しく再建されたものらしい。とてもこじんまりとしていて、遊園地にあるものみたい。
実際に使われていた潜水艦が博物館になっている、という軍港らしいもの。尾の方から入るが、前半は普通の展示の博物館で、後半が潜水艦の中の機械をそのまま残した展示となっている。
帰りは海沿いのカラベーリナヤ通りを戻って博物館へ。準備されていたお釣りの都合か、なぜか「学生」として入場。まあ、本当に学生なんですが。
この地域の自然を説明する剥製や、石器、写真が展示してある。いろいろおもしろいのだろうけども、解説はロシア語がほとんどで残念。一部に英語の解説があるが、この地域の歴史は日本では漢字で習っているので、英語だとよく分からない。
噴水が並ぶしゃれた通りが金角湾と反対側のスポーツ湾に達し、海沿いを走っている。
なぜかダイドーの自動販売機がある。ロシア語の説明が書かれているようだが、中身の飲料は日本語ラベルのもの。目の前におばちゃんが飲み物を売っていたりするのだが、興味本位かこの自動販売機で買っているロシア人もいた。
通りを進んでいくとスポーツ湾沿いのリゾート風の道となる。海岸沿いのカフェというか軽食堂では、プロフとかシシャリクとかマンティとかウズベキスタンで見た懐かしいメニューがあった。
アドミラーラ・フォーキナー通りの先に水族館がある。これまた説明がロシア語なのが残念。家族連れが多く賑わっているが、展示はチョウザメが泳いでいたり、ロシアっぽいが、きわめて普通。
入り口が水族館の裏とガイドブックに書いてあったが、新しい?海側の入り口からしか入れなかったのでちょっと戸惑った。
大砲や魚雷が野ざらしで展示されている。展示というより放置という漢字もするが・・・。また、屋内の展示がある。
アドミラーラ・フォーキナー通りのカフェテリア形式の店でハンバーグなど。366ルーブル。味はそこそこ。
左上にあるマヨネーズで和えたようなサラダもよく見る。
ウラジオストクの観光スポットはあらかた見てしまったし、日差しが強い中、歩きっぱなしだったこともあり、昼食後、疲れてホテルで昼寝をしてしまった。
夜に起き出して風呂に入り、夕食はホテル近くのカフェで。白ワインを飲んで鮭のステーキを食べ、ケーキとエスプレッソで1000ルーブル。今回はチップも払った。
昼寝はしたものの、やはり疲れていて早めに就寝。
2014年5月3日(土)は前日に早寝したのに、なんと寝坊。外を見ると、雨が降っていたので、朝食後部屋でだらだらして、晴れた昼頃にチェックアウトして荷物を預けた。
日差しが強かった前日と違い、とにかく寒いので、まずはウラジオストク駅の裏にある客船ターミナルまで行って港を見学。中国人の大グループと一緒になってしまい、至る所中国人に。とにかく賑やかで写真を撮りまくっているが、かつての日本人団体旅行客もあんな感じだったのでしょうか。ポーズをとったり一緒に写真を撮ったりしているのを見ると、写真てそういえば楽しいよな、と思い出させられたりもする。
スポーツ湾を見ても寒いせいか人も露店もないので、アドミラーラ・フォーキナー通りを戻ってクレーバーハウスというショッピングセンターをちらっと見てからグム百貨店へ。
これは古い建物、古い百貨店で、エレベーターもない。店も古びた感じで、地方駅の駅ビルのよう。購買意欲が全く湧かなかったので、1Fのカフェでチョコレートケーキとカフェモカ。とにかく寒いのでじっくり粘って身体が温まってから再度出発。
少し離れたポクロフスキー聖堂まで歩いて行ったが、小雨も降りはじめ、風も強くなってとにかく寒い。ウインドブレーカーのフードをかぶってなんとか到着。
入り口が閉まっているのかと思ったが、中には入れた。昔からあった教会らしいが例によってソ連時代に破壊されたため、最近再建されたもの。なので、鉄筋コンクリートでできている。人はまばらだったがかなり真剣に祈っている。いつものように、東側に向かって祈っていることを確認。
向かいには極東連邦大学があり、入り口には「孔子学院」の文字が。中国恐るべし。
アドミラーラ・フォーキナー通りを戻って、スポーツ湾側へ。ディナモ・スタジアムが見えるが、これは日本人抑留者が作ったものらしい。
今度はナーベレジナヤ通りに入ると、スポーツ湾が一望できるが寒い。
アルセーニエフという人物も知らなかったし、あまり期待していなかったが、小さな博物館に客が一人で、中の女性が英語で説明してくれたのでとても良かった。
アルセーニエフは探検家で、サンクトペテルブルクで生まれて将校になったが、自然に関心が強く、探検家となった。1930年に没したが、二回目の家族と晩年を過ごしたのがこの家。
先住民族であるナナイ人のデルス・ウザラは黒澤明が映画にしたそう。見てみないと。
当地の日本人とも交流があったそうで、そのワタナベさんからもらったVictorのレコードプレーヤーも置いてあった。祖父がウラジオストックにいたであろう時期とも重なっていて、もしかしたら祖父ともあったことがあるかもと思うと不思議な感じがした。
身体が冷え切ったので、駅前のカフェテリア形式のレストランで遅い昼食。また鮭とブロッコリーを食べ、サラダとジュースを加えて240ルーブル。
時間が余っているので、スヴェトランスカヤ通りを歩いて本屋へ。ウラジオストクの地図を買おうと思ったが、あまり良いものはなかった。レジの横になぜか日本語の漢字カード、擬態語カードが置いてあった。
天気は良くなって寒さも和らいできたし、あまりに時間が余ったので、海沿いを歩いたりしながら船ターミナルまで戻って時間をつぶしてから、ホテルへ。
夕食にシーフードパスタを食べたが、これはなかなかおいしかった。量も良い意味で多すぎず、ちょうど良かった。
夕食後、預けて置いた荷物を受け取ると、送迎の車が来た。駅までは歩いてすぐなのに、わざわざ車で送迎というのも大げさな感じ。客は自分一人だし。
ウラジオストク駅には出発1時間前に到着。近すぎる。
ロシアは国内で時差があるが、ロシアの鉄道はなんとすべてモスクワ時間で運行するという中央集計体制になっている。駅の時計もモスクワ時間となっていて、出発、到着時間もモスクワ時間の表示。乗車できる30分前まで待合室で待ち、ハバロフスク行きのオケアン号の客車へ。4人のコンパートメントだが、結局貸しきりだった。
モスクワ時間14:25、ウラジオストクの現地時間21:25、定刻通りにハバロフスクに向けて出発。
アムール川沿いにあるハバロフスク地方の州都。さらに、ウラジオストクを州都とする沿海地方(プリモールスキイ地方 Приморский край)も含めた極東連邦管区の本部が置かれている。つまり、ロシア極東の中核都市となっている。
私が住んでいる武蔵野市の友好都市でもある。
ウラジオストク・ハバロフスク旅行で2013年5月4日(日)の朝にウラジオストクから到着し、2泊して2013年5月6日(火)に成田へ向けて出発。
ウラジオストクからのオケアン号は4人のコンパートメントだったが貸し切りでよく眠れた。40分前に中年女性の車掌が起こしに来て、ロシア語で挨拶。8:30定刻にハバロフスク駅に到着。
列車を降りると前に送迎の運転手が。ツアーは楽すぎる。
ツアーなので指定されたホテル。
送迎の車で到着。古びたビルが見えて、これがホテルだと嫌だな、と思ったらそれがホテルだった。しかし、中は広くて人でごった返している。
午後からでないとチェックインでいないかと思ったら、あっさりできた。パスポートも後で返すと言われたが、どのくらいかかるのか聞いたら、その場で手続をして返してくれた。素晴らしい。
部屋自体は新しくないが備品はきれいでテレビもある。そして、窓からアムール川が見える!
到着した2014年5月4日(日)と5月5日(月)は終日ハバロフスクの観光。
ハバロフスクはアムール川の片側の岸に広がっている街だが、独特の地形で坂が多い。アムール川に向かって直角に流れ込みが並行していたようで、そこが谷となっている。現在では、その谷とその間の尾根がそれぞれ大通りになっている。そのため、アムール川と直角に大通りを歩くと平らだが、アムール川と並行して歩くと大通り毎に登ったり下ったりということになる。
到着した5月4日(日)は、とても寒い日だった。翌日月曜日は博物館が休みなので、まずは博物館巡り。
最初はインツーリストホテルのすぐ近くにある博物館。本館と別館に分かれている。シベリアの動物の展示など充実しているが、説明はロシア語が中心で残念。子ども連れなど多し。
郷土博物館の並びにある美術館。入り口が閉じていてわかりにくい。この街では、こうした博物館だけではなく、普通の店も、ガラス張りで中が見えると言うことはなく、重い扉を開けてみないとやっているかどうかわかりにくい。
クロークで荷物を預け、靴にビニールをかぶせて見学する。
昼食は目抜き通りであるムラヴィヨフ・アムールスキー通りにあるイタリアンで。リゾット、まずくはないのだけど、チーズ自体の塩味が強くてしょっぱかった。
昼食後、さらに博物館巡り。考古学博物館。普通の家のような建物。
アムール川沿いの公園。きれいに整備されていて、アムール川の広大な景色が見える。対岸・・・のように見えるのは中州らしい。時期がずれているような気がするが、桜らしき花が咲いていた。
川沿いに歩いていると、魚釣りをしている人も見かける。釣れるのかな、としばらく見ていると、はっと竿をとり、大げさにあわせをくれて、全身でやりとり。こちらも緊張してみていると・・・ばれた。まあ、この後はちゃんと釣っていましたが。そんなに釣れる場所なのかな。
ムラヴィヨフ・アムールスキー通りはハバロフスク一番の通り。しかし、閑散としているわけではないものの、道路も歩道も広くてゆったりとしている。建物はとても立派。
レーニン広場まで歩いてみて、暗くなったので引き返し、途中の店でケーキを食べてからホテルに戻った。
夕食はムラヴィヨフ・アムールスキー通り近くのレストランでビールとポークステーキ。かなり高めの店だったがなかなか楽しい夕食。ビールを頼んだら、ピーナツを持ってきた。分かってるね。
食べていると、ウェイトレスがにこにこしながらスマートフォンを持ってきて見せるので、なんだろうと思ったら、翻訳ソフトで"anything else?"と表示されていた。こちらも負けずにGoogle翻訳でお礼を言っておいた。
ロシア人って、愛想笑いしないけど、そんなに無愛想だとは感じないけどね。ただ、TripAdvisorでロシアのレストランの評価を見ると、高評価でもロシアの標準から言えばサービスはフレンドリーだ、とかよく書いてある。
ハバロフスク2日目の2014年5月5日(月)はゆっくりと始動。日中は前日とうって変わって晴れて14℃くらいまで気温が上昇し、過ごしやすかった。
レーニン通りは谷にあたる道なので、街路樹が並んでいる。ここをアムール川のほうに戻っていくと、近くにディナモ公園がある。木々が多い公園ではあるけども、街の外に出ればすぐに森が続いているのですが。
ディナモ公園を抜けてカール・マルクス通りに出て、レーニン広場の近くの本屋で地図を買った。(って共産主義的な文章。)
ムラヴィヨフ・アムールスキー通り沿いのファストフードに入ったが、見事にロシア語のみ。発音だけで意味が分かった「チキンバーガー・クラッシック」を食べた。結構人気があって混み合っている。
アムール川沿いの船着き場まで歩くと、アムール川の遊覧船が出ている。というか、ロシア語でさっぱり分からないが、出ているらしい。言葉が通じないのでよく分からなかったのだが、結局ツアーの貸し切りの遊覧船に同乗させてもらってアムール川クルーズを体験できた。ありがとうございます。
上陸してから、スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂。ハバロフスクの街はアムール川に向かって尾根と谷に大通りが走っているが、その端、川に臨んではそれぞれ教会が建っていて、川から見ると美しい景観を作っている。この教会もその一つだが、さらに川沿いに高層ビルを建てていて、どうなることか。
教会の向かいの建物は放送局のようだ。
帰り途中のカフェでコーヒーを飲んでからムラヴィヨフ・アムールスキー通り沿いの土産物にいったが、購入意欲をそそるものがなかったのでホテルに戻った。ロシアって、マトリョーシカくらいしかお土産がない。
夜になると昼の暖かい天気とうって変わって、強い風と雨がばらつく天気。
旅行最後の夕食と言うことで、ウクライナ料理のレストランに行き、ビール、ボルシチ、チキン・キエフ、アイスクリームと定番を腹一杯食べた。
2014年5月6日(火)、朝食後、チェックアウトして、送迎の車で陽気な運転手とハバロフスクの空港まで。ターミナルは新しいビルだが、古いターミナルと思われる駅のような建物が残っている。
昼で短距離なので、チェックインではすかさず窓際の席を依頼。したのに、主翼の上だった・・・。
空港は日本人のツアー客ばかり。どうやらチャーター便のツアーらしく、流れでついて行って間違えそうになった。
シベリア航空S7のS70567で成田空港に向けて出発。
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